とある天使と異常
そんなある日、事件は起こった。
その日はいつも通りに学校へ行き、泉で空中歩行の修行をしていた。
その頃には安定して空を歩くことができるようになり、777号の謹慎が解けて腕輪が取れたこともあり空中で模擬戦をしていた。魔力は用いない、純粋な肉弾戦だ。
天伏殿での修行の効果もあり負けることはまずなかったが、慣れない空中での戦いなので一方的とはいかなかった。
あまり強く踏み込みすぎると空中に集めた魔力が乱れて落ちてしまう。まるで走りながら針に糸を通すような、かなり神経を使う戦い方をしなければならなかった。
そうして神経を張り巡らせていたからだろう。
泉の縁で本を読んでいた750号が、お腹のあたりを押さえてうずくまるのに気づいた。
どうも様子が尋常ではない。
ただの腹痛にしては苦しみ方が異常だし、そもそも天使が腹痛を患うことなんてほとんどない。
苦しげに呻きながら、天使の輪が顕現し始める。
魔力が乱れ、空が暗くなり始めた。
777号と顔を見合わせ、750号の元へと戻る。
「おい、どうした!例の傷か?おい!」
「落ち着け片翼、あまり揺らすな。750号、大丈夫か?できるなら症状を教えてくれ」
750号はゆっくりと顔を上げ、お腹を指差した。
それだけであのシミが痛むのだとわかるので、対応を考える。
初めて会った時、傷が痛むときは泉に浸かると言っていた。なら泉に浸かれば少しは症状が和らぐはずだ。
強引に泉に突き落とし、傷口を水に浸からせる。
溺れられても困るので、後頭部を支えて顔は浸からないようにする。
777号が上着の前を開け、シャツのボタンを引きちぎり腹部を露出させた。
黒いシミだった傷口は紫色に光り、どす黒い魔力を帯びて脈動していた。
「これは…悪魔の魔力だ!間違いない、この前戦ったベリアルと同じ魔力…!」
「おいゼロ、それは確かなんだな!?」
777号は片手に魔力を集め始める。
こいつ、抉るつもりだ!
「待て待て、衰弱してる今そんなことしたら死ぬぞ!せめて6枚羽以上のR型を呼ばないと!」
ひとまず魔力を流し込み、悪魔の魔力を抑える。
嫌という程ベリアルの魔力を浴びたからか、正確に汚染具合が把握できた。
「くっ、侵食が早い…!片翼、俺が魔力を抑えている間にR型の天使を呼んできてくれ!出来るだけ実力者がいい、大穴開けても治癒できるレベルを頼む!」
「はあ!?そんなレベルのR型なんて呼べるはずが…なくも、ねえけど。ああくそ、ちゃんと抑えてろよ、手遅れになったら殺す!」
そう言うと777号は3枚目の羽を広げ、天使の輪を顕現させた。
驚くほどの速さで飛んで…いや、走っていくのを横目に見ながら、悪魔の魔力の侵食を遅らせるべく魔力を込める。
気づけば空は暗雲が立ち込めていて、今にも雨が降り出しそうだった。
心の中で謝りながら、750号の制服の前を大きくはだける。
もはや片手では抑えきれずに、両手で必死に魔力を注ぎ込んだ。
750号はもう言葉にならないうめき声を上げるばかりで、苦しんで暴れることすらしない。
全身が痙攣して魔力を撒き散らし、天使の輪が明滅し始めた。
限界が訪れそうになったその時、777号が戻ってきた。
何故か、48号さんを引き連れて。
「えっ!?な、なんで48号さんが…」
「0号さん、話は後で!私に診せて下さい!」
48号さんは手早く汚染された傷口を診て、俺にはわからない治癒の魔法を刻み始めた。
「777号くん、悪魔の破片を取り除いてください!出来るだけ傷口は小さく、抉り取った肉体から破片を除去して!」
「無茶苦茶なコト言うな!って言いたいが任せてくれ、最小限に抉り取る!」
泉の周囲を魔力で埋め尽くし、777号は750号の腹部を躊躇いなく抉り取った。
最小限に抑えられた傷口は驚くほどの速さで出血が止まり、それどこか再生し始めた。
抉り取られた肉片は器用に破片だけ除去されて48号さんの手に渡る。
除去された破片は俺の魔力で閉じ込め、777号が封印を施す。あとはもう、俺たちに出来ることは無かった。
48号さんは羽も聖痕も全開にして、肉片を元の肉体へと還元していく。
信じられないほどの魔力が空間を上塗りして、一種の結界のような密度で固定された。
750号は天使の輪の明滅が収まり、表情も和らいでいく。
傷口は少しずつ塞がり、痙攣も止まった。
抉り取った肉片がすべて元の体へと還元されると、ようやく48号さんは一息ついた。
「ひとまず安心です。傷口は完治しました、あとは汚染が他の箇所に移っていないか確認しないと」
「それは俺がやります、悪魔の魔力についてなら身をもって知ってますから」
750号の全身に魔力を通して異常がないか確認する。どこを見ても、あの悪魔の魔力は一切感じられなかった。
750号の魔力と、治癒を施した48号さんの魔力、そして少しだけ俺の魔力が混ざっていただけで、むしろ以前より魔力量が増えているくらいだ。
「…もう大丈夫そうです、あの悪魔の魔力は感じません。それにしてもあんな短時間であの傷が治るなんて、さすが48号さんですね」
「良かった、処置が早かったので汚染が軽度で済みました。あなたたちのお陰です」
安心したのか、48号さんは聖痕と2枚の羽を収めて普通の4枚羽に戻った。
天使の輪を顕現させたままなのは、万が一が無いように警戒しているのだろう。
万が一なんて考えたくもないが、傷口が完治した後も750号は目を覚まさない。
状況が悪化することだって十分にあり得るのだろう。
「それにしても、片翼と48号さんが知り合いだったなんて驚きました。いつから知り合いだったんですか?」
「学校に入る少し前ほどからです。片翼部隊に入ってくれるように熱心に勧誘しているのですが、学校があるからと振られ続けているんですよ」
「むしろゼロと48号が知り合いなのが謎だぜ。やっぱりゼロだから何かに勧誘でもされたのか?」
熱心な勧誘とやらはとてもきになる。
777号が丸くなった理由は十中八九48号さんにあるような気がするが、今はそこまで踏み込んだ質問をするべきでもない。
知り合った経緯についてどの程度話すか迷ったが、全て話すことにした。
「ミカエル様に謁見した後、護衛の天使に修行をつけてもらってるんだよ。48号さんはその護衛の治癒役ってことで知り合ったんだ」
「護衛ってあの、双子のU型か?」
妙なところに食いつかれた。
頷いて肯定すると、なぜか羨ましそうにされる。
「…不公平だ。おいゼロ、俺にもその修行に参加させろ!向こうは2人、こっちも2人でちょうどいいだろ!」
「お、俺に聞かれてもどうしようもないだろ。48号さんに聞くか、直接頼みにいくかのどっちかにしてくれ」
ほとんど噛みつくような勢いで詰め寄られるが、そんなことは勝手に決められない。
とりあえず48号さんに投げることにする。
「777号くんなら大歓迎ですよ。その代わりと言ってはなんですが、片翼部隊の件も考えておいてくださいね」
「ぐっ…いやでも、あの2人に修行をつけてもらえるなら…けどこの俺が部隊なんぞに…」
777号は随分考え込んでいる。
どの道いつかは部隊に所属して悪魔と戦うことになるのだから、別に悪い話でもないだろうに。
まあ彼なりの葛藤があるのだろう、と勝手に結論付けて空を仰ぐ。
…仰いで、その空の暗さに違和感を覚える。
天球での空模様は魔力で再現されている。
地球での景色を忘れないように、そして地獄から見つかってしまわないように天球の表面を覆うように魔力が展開されているのだ。
時間帯によって空の色は変わるけれど、こんな真昼に空が暗くなることなんて滅多にありえない。
天球においては、曇りという天気は基本的に存在しない。
なぜならかつての地球で堕天使が叛逆した日も曇りだったらしく、不吉なものとされているからだ。
雨が降ることはあっても白い雲が薄く浮かぶくらいで、空が曇るほど黒い雲というのは忌避されている。
それでも空が曇るとしたら、実力のある天使が魔力を解き放ったため空の層が乱れた時か、それとも。
悪魔が、襲撃してきた時、とか。