とある天使と戦いの爪痕
「ごめんなさい、まさかそんな練習をしていたなんて…」
「いや、気にしないでくれ。こんな特殊な事情、めったにあるものじゃないんだ。それに、どうせ半分くらいは濡れていたしな」
修行を一時的に中断して、説明と休憩の時間にした。
集中のし過ぎで足がつりそうだったし、ちょうど良いといえばちょうど良い。
濡れた制服はその辺の枝にかけて乾かし、持ってきていた汚れた制服を着ることにした。
所々破れていたが、着ないよりはマシだ。
「改めまして、私は750号です。あっ、G型で、2枚羽で、えっと。そんな感じですっ!」
顔を真っ赤にして、目の前の天使は自己紹介をしてくれた。
あまり社交的な性格ではないのか、それとも俺たちの悪評に怯えているのか。
いくらかたどたどしい自己紹介だったが、逃げ出す素振りもなくモジモジと恥ずかしがっているのでただ内向的な天使というだけのようだ。
「それで、750号こそこんなところで何をしているんだ?そのまま返すけど授業中だろ?」
「あ、実は私、泉に用があって。堕天使に…あっ、今は悪魔って言うんでしたっけ。悪魔にやられた傷が治りきってなくて、定期的に泉に浸かるんです。他のみんなはそんなことないのに、どうして私だけ…どんくさいからなのかな…」
若干涙目になる750号は、どうやらあの悪魔に傷つけられた被害者らしい。
けど、あの戦いでの負傷者は先生である4枚羽以上の天使を除けばR型とM型がほとんどだったはず。
不思議に思っていると、777号がふと思い出したようにつぶやく。
「お前、まさかあの時の逃げ遅れか?」
「え…?あっ!その片方だけの羽、もしかして貴方があの時助けてくれたんですか?」
「あれはただ気に入らないゴミを払っただけだ。それで助かったならお前がツイてたってだけで…おいゼロ、なに笑ってやがる」
「いやあ、素直じゃないと思ってさ」
暴れまわっていた昔ならともかく、今の777号は意外と面倒見が良い。
一体どんな心境の変化があったのかは知らないが、少なくとも目の前で天使が倒れているのを無視するような性格ではなくなった。
悪魔騒ぎの時に何をしていたのか疑問だったが、どうやら悪魔と共に襲来した異形の化け物を掃討していたようだ。
あの化け物についてもわからないことは多い。
戦いが終われば跡形もなく消えてしまい、生きたまま捕獲された話も聞かない。
意思があるようには見えなかったが、魔力を蓄えている様子はあった。
悪魔側の自動兵器か、それとも。
今は暗い憶測はやめて、750号の話を聞く。
「私があの小さな化け物にお腹を貫かれて倒れていると、強い魔力が吹き荒れて周りの化け物が一斉に弾け飛んでしまったんです。そのあと意識を失ってしまったので後ろ姿しか見えなかったのですが、その左側だけに生えている羽は間違いようもありません!あの時は3枚の羽がありましたが…普段は隠しているんですね?とにかく、本当にありがとうございました!貴方がいなければ私、今頃…!」
状況説明と感謝をまくし立てる750号。
一方で感謝され慣れていないのか、777号は戸惑っているばかりだ。
この状況を面白がってもいいが、750号の傷とやらも気になる。
もしかしたらあの化け物について何か分かるかもしれないし、逆に俺に備わる謎の再生能力の手がかりがあるかもしれない。
もし、化け物の残滓にその手がかりがあった場合。
俺は完全に、悪魔に関わる何かということになるけれど。
「とりあえず、一度俺たちに傷を見せてくれないか?悪魔と直接戦った経験から、何かわかるかもしれない。それに、無駄に器用な片翼もいるしな」
「別に無駄でも無いだろ。たがまあ確かに、そこらの4枚羽よりは役に立つぜ。そこの不器用なゼロはともかくな」
俺に張り合うことに夢中で、目の前の天使を素直に助けようとしていることに気づいていない。
少し面白かったが、本当にどんなきっかけでこんなに丸くなったのかもとても気になる。
昔は全てを見下して力で押さえつける暴君だったというのに、どういう心変わりがあったのだろうか。
そんなことを考えている横で、750号は顔を真っ赤にしてあたりをキョロキョロと見回していた。
そして自分たちの他に誰もいないことを確認してから、制服の上着を脱ぎ始めた。
「わ、わかりました、傷口をお見せします。ですが、その、あまりまじまじと見られると恥ずかしいです…」
750号がシャツのボタンを下から3つほど開けて左側の裾を持ち上げると、心臓の真下、ヘソの横あたりに黒いシミが見えた。
拳ほどの大きさのシミで、うっすらと悪魔特有の黒い魔力を感じる。どうやら化け物の汚染に間違いなさそうだ。
触ってみると、皮膚の下に硬い感触がある。
化け物の一部が残留しているのだろうか?
777号も同じようにシミを調べ、納得したように頷く。
「そういやあの小物を砕いた時、やたらと破片が舞っていたな。腹を貫かれた時に砕いたから、その破片が傷口に入ったか…チッ、治癒したR型はなにしてやがった。この程度の破片、取り除くのは当たり前だろうが」
文句を言いながらも、どこか自分を責めているようにも見える。
さすがの777号も、負傷者を気遣いながらあの異形の化け物と戦う余裕はなかったのだろう。
シミを優しくさすりながらも、もう片方の拳は強く握りしめられていた。
「あ…あの、そろそろ…良いでしょうか」
気づけば、750号が小刻みに震えていた。
耳まで真っ赤になって、裾を持ち上げる手は何かを我慢するかのように力が込められている。
くすぐったかったのか、全身に汗がにじみ若干涙目になりながら荒い吐息を繰り返している750号は天使的な目線でもだいぶ扇情的だった。
777号は慌てて離れ、顔を隠すようにそっぽを向いてしまう。こいつ、意外と初心なのか?
とか考えながら同じくそっぽを向く。
なんとも気まずい沈黙の中、750号が上着を着直すのを待って会話を再開する。
「やっぱり傷口から化け物の破片が入り込んだんだと思う。あの化け物がなんなのかはわからないけど…あまり痛みが長引くなら早めに除去した方がいいと思うよ」
「同感だな。腹の中に異物が混ざってていいことなんかねえだろ。今ここで抉ってもいいくらいだ」
流石に今ここで抉るのはどうかと思う。
750号もそう思ったようで、引き気味の愛想笑いをしていた。
「い、いえ。近いうちに6枚羽の先生に除去をしてもらえることになっているんです。悪魔の襲来ではたくさんの天使が重症を負いましたし、私はただ少し痛むだけなので無理を言うわけにもいきません。おふたりとも、心配してくれてありがとうございます。やっぱり、噂のような悪い人ではないんですね」
そう言うと、丁寧にお辞儀をして去って行ってしまった。
悪い人ではないと言われるのは嬉しいが、逆に普段どんな噂が流れているのか想像するとあまりいい気分ではない。
一方で777号はいい人扱いがむずがゆいようで頭を掻いてごまかしていた。
…そういえば、750号は泉に水浴びに来たんじゃなかったか。
確実に俺たちのせいで忘れてしまっただけに思えるけれど、750号はうっかり者だな、ということにした。
結局その日の修行は上手くいかなくて、水の上に立つのがやっとだった。おまけに足がひどい筋肉痛で、ただ帰るだけでこんなに苦しんだのは初めてかもしれない。
ベリアルとの戦い以上に自分が空を飛べないことを呪いながら、ナナコの相手もほどほどにして早めに寝ることにした。