第2話 ただの女神
軽くルーにスプーンを沈めて、一口啜る。
……もう飽きたな。
カッカと敷き詰められたご飯を切ってスプーンに乗せ、スパイスを浸してから口に運ぶ。肉、野菜の旨みが閉じ込められた黄金のルーは米に味があるように錯覚させてしまうほど強力だった。
同時に辛さが食欲を刺激し、その日の食事がカレーで始まりカレーで幕を閉じる憂鬱さえも忘れさせてくれる。
……少しだけは。
せっせとテンポよくライスを口元に持っていくと妹の夏芽が心配そうな目で俺を見ていることに気づいた。目の前に居るから視線が嫌でもわかってしまう。
見つめられるのは嫌いじゃないが、笑顔で見て欲しい。お兄ちゃんはカレーが大好きだからな。
「どうした?」
今にも消えそうなほど小さく成り果ててしまったジャガイモを舌で転がしながら聞いてみると。
「お兄ちゃんカレーしか食べてないよ……」
思ったより心配してくれていた。
「それもそうだな」
言われてみれば、妹は俺の朝食と夕食を見ている。その時に目玉焼きを作って頂いたのだが、あろう事かカレーに乗せやがったのは本日の妹ハイライトだ。
「大丈夫?」
『大丈夫だ、問題ない』
本当は大丈夫ではない。
スパイスという旨味の麻薬は切れかけているし、カレーを頬張ってみるが、実際はスプーンが小さく見えるほど掬えていない。
なによりも、そんな俺を横目に姉貴がサバを頬張っているのに堪えた。
『うーん……』
妹は唸るように心配してくれているが、栄養的な視点でカレーを見るとバランス重視の料理だ。
人参、ジャガイモ、牛肉が入っているし、もっと野菜を入れたら生きていく上での問題は発生しない。
『お魚ひと口あげる!』
飽きて米しか口に運ばなくなった罪深き俺に対し、救いの手を差し伸べる慈悲深き女神は確かにそこに居た。
慣れた手つきで魚の身を分け、箸でヒョイと持ち上げると。
『はい、あーんっ』
口元に近づけてくれた。零れてもいいように箸の先には手のひらがスタンバイしている。
俺は堪らずぱくつき、奥歯で噛み締める。染みた醤油と脂の甘みが一気に溢れ出し、海の香りが鼻を抜けていった。
カレーとは対照的に柔らかい旨味が広がる……!
「うまい」
「もう一口?」
優しい妹は聞く前から二枚目の切り身を構えてくれたが、申し訳ないのでやんわり断わった。
「大丈夫だよ、ありがとな」
リセットされた口内に、再びカレーを掬う。その間にふと気づいたことがある。
俺は重大事態を起こしてしまったのかもしれない。というのも妹が使っていた箸で俺の元に運ばれたからだ。
それはすなわち間接キス。今でこそ周りは気にしていないが、もしかすれば遺伝子レベルの情報交換に姉貴くらいは気づいているかもしれない。
今回のパターンは幸運にも極めて自然な流れ、これからは周りに気をつけた方が良さそうだ。
妹が嫌な顔をしているのではないかと横目で確認するが、平気な顔で魚を突いていた。
……いや、もしかしたら姉貴の言う粋な計らいって奴だったのか。妹は実際に女神みたいな性格をしている、カレー三昧という状況を知っていればこうなるのは容易に想像できる。
食べさせるのをやりやすくする為に俺の前に妹を座らせたのもデカい。というのも食器を並べる時に箸も置いておくのだが、妹専用の箸を俺の前の席に置いたのは姉貴だった。
森羅万象に感謝した俺はカレーを一気に流し込んだ。
一息ついて手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
ひと足早く食べ終えた俺は皿を持って席を立ち、流し台に置いて部屋に戻った。
部屋に戻ったはいいが、することは特にない。なるべく早く寝て、自力で起きることを目指すことくらいだ。
たまには早起きするお兄ちゃんを見せてやらないとな!
カレーとはいえ腹が脹れた俺は、昼寝後でもすんなり眠気が来ていた。
眠れると確信し、スマホを充電器に挿すと毛布を被った。
月明かりだけが夜を照らす街、ある男が俺に漬け物を勧めてくる。その中からきゅうりをつまみ、口に運んでみるとカリッとした食感に軽い塩気が弾けた。
「いいね」と言った瞬間、左頬に衝撃が走る。
驚く暇もなく星空を映す視界が見慣れた天井に変わり、無我夢中で体を起こした。
「な、なんだ……」
ヒリヒリする頬を摩りながら周囲を見ると、姉貴が俺を見下ろしていた。
『あんた相変わらずの目覚めの悪さね』
嘲笑うかのようにそう言うと制服を投げつける。
「早く準備して」
またビンタして来そうな気がしたので、仕方なく着ていくが本当は風呂に入りたい。その意思を伝えてみたが無視の一点張り。
「夏芽がもう起きるから」
着替え終えた俺達は静かに家を後にした。
早起きしたから妹のキャミソール姿をこっそり見たかったんだが、見る暇は与えさせてくれなかった。
「それで、こんなに早く俺を学校に向かわせるのは?」
「夏芽に起こしてもらってるでしょ」
「まあな」
「その流れで一緒に行っちゃうでしょ」
「当たり前だろ」
とどのつまり、妹が介入しない時間が欲しかったみたいだ。
姉貴はたまに後ろを振り返りながら、好きな人が居るという話を始めた。
「それでね、その人が……」
姉貴が妙に話を渋る。
こんなに頬を赤く染めた姉貴は初めて見る。
『女性なの』
「そうか」
「気持ち悪くない……?」
消極的な姉貴に、俺は首を横に振る。
「シスコンの俺は恋愛を蔑めない」
「確かに」
説得力があったのか、顎に手を当てて頷いていた。
「それで、好きな人の気を引きたいのか?」
俺はこれでも色んな可能性を考えていたんだが。
『その為に悪役を頼みたい』
これに関しては理解するのに数分かかった。
夜の街でキュウリの漬物を頂く夢を見た、これはガチ。