第08話「渾身の逃走」
キャラバンの進行方向に現れた魔物の群れの規模は五十に満たないという事で、規模としてはこの地方で確認された過去最多を下回るとの事だが、もちろん、そんな魔物に気づかれ、一斉に襲われればキャラバンの全滅は免れない。
幸いなことに、魔物の群れは北上しているという事で、西を目指すキャラバンと、その次の目的地である牧畜村トレニーが被害を被ることはなさそうだった。
レネ子が盗み聞いてきたライネスたち兵士の会話によれば、キャラバンの安全を優先し、魔物の群れが完全に見えなくなるまでやり過ごす事になるだろう、との事だ。
しかし、ライネスたちの協議はまだ続いている。
問題は、北にはエウディス男爵領都エンブラーギがあるという事である。
エンブラーギの守りは堅固であるとはいえ、大量の魔物に準備無く襲われれば被害は小さくない。
ライネスたちは多少キャラバンを危険に晒してでも部隊の一部を分離し、エンブラーギに魔物の群れの事を報告すべきではないかと、紛糾しているらしい。
キャラバンも防衛戦力が減るし、分離した少数の部隊も数の有利に頼れなくなるため、全滅の危険すらある、難しい局面である。
「しかし、今からエンブラーギに急いだ所で、先行してる魔物に追いつけるもんかね?」
直人が疑問を口にする。
「それならたぶん大丈夫にゃ」
レネ子によれば、キャラバンの現在地とエンブラーギの間にはファゼッド渓谷という深い深い谷があり、この大陸では『竜の爪痕』と呼ばれるような大渓谷らしい。
神話の昔、ファゼッドという竜が大地をえぐった時に谷ができ、掘り返された岩盤と土とで谷の両側に南ファゼッド山と北ファゼッド山が隆起したのだそうだ。
言い伝えが真実であるかどうかはともかく、大陸を深くえぐったというだけあって、多種多様な鉱石が採掘できるらしく、まだ魔物の脅威がなかった時代には、その採掘の拠点となる地下都市までもが存在し、採掘のための坑夫や鉱石を売買する商人など、大勢の人でにぎわったらしい。
当時は採掘のための坑道と、採掘された鉱石を運び出すための道とが、ある程度計画的に造成されていたらしいが、魔物が現れて放棄されてからは、崩落により道がふさがったり、上を通る道と下を通る道とがつながったりして、現在では迷宮のようになっているのだそうだ。
そして、単純に一度入り込むと抜け出しにくいという理由で魔物の巣窟となっているらしく、この数百年、地底都市の様子を見た者は居ないそうだ。
この谷における魔物の出入りは、基本的には他から入ってきた魔物の代わりに別の魔物が出ていくという玉突き程度しか観測されていない。何十年かに一度、なんらかの不均衡と偶然が重なるのか、大量の魔物があふれ出す事があるらしいが、基本的にはこのファゼッド渓谷の魔物の入出量は均衡がとれているのだそうだ。
言い方を変えれば谷底の魔物の数は飽和状態にあるという事だ。
だからこそ、そこに五十弱の魔物が飛び込むという事態は、最低でもその四分の一から三分の一程度の魔物が谷の北側にあるエンブラーギに向かう可能性があるという危惧につながる。
とはいえ、谷自体が深く大きく、また坑道も様々な深度に様々な方角へかなりの距離伸びている事から、見た目以上に表面積は広大で、谷に入った魔物の影響が外に出てくるまでにはそれなりに時間がかかる。
このタイムラグは、エンブラーギ軍の長年の警戒観測によりある程度わかっており、その所要時間はおよそ二週間。
とはいえ、確率の問題なので、すべての魔物が谷底に吸収されて出てこない可能性も、まったく別の方角へ出てエンブラーギには向かわない可能性もあるし、逆にそれ以上の数の魔物がエンブラーギに向かう可能性も否定できない、というわけだ。
「魔物の動向に大きな変化がある時は、魔物の活動が活発な時だから、キャラバンも守りを固めたいし、エンブラーギにも知らせを急ぎたいし、という感じで紛糾してるにゃ」
「そりゃ、ライネスさんが大変そうだな」
――などと他人事の直人だったが、それから少しして、ライネスが直人の元にやってきた事であっさりと他人事ではなくなった。
ライネスの話は、要約すると直人に二択を迫るものだった。
つまり、一つはエンブラーギへの緊急連絡班に同行し、班の防衛を一手に引き受ける事。要するに魔物に遭遇した場合は囮になってでも連絡班を逃がす必要があるという事だ。
そして、もう一つは、引き続きキャラバンに残って欠けた防衛戦力の一端を担う事。
後者の方が明らかに安全なのだが、前者は報酬の条件が圧倒的に良い。
「緊急連絡班の護衛。これは巡回訪問団からの正式な依頼という事になる」
と、ライネス。
つまり、単にキャラバンの客の一形態としての『防衛者』ではなく、『討伐士』として扱われるという事だ。
ライネスによれば、この依頼には三つのメリットがあるという。
一つは討伐した魔物の素材や魔晶が自分のものになるという事。討伐士は巡回訪問団の庇護下に置かれた客ではないので、討伐した魔物の素材や魔晶は自分のものにする事ができる。
一つは討伐した魔物とは別に報酬が与えられる事。正規の依頼となるため、仕事の内容に見合った報酬が与えられる。しかし、報酬として先に討伐した魔物素材と魔晶が報酬として与えられる。
最後の一つは事後、ライネスの権限で直人の身分を『討伐士』とする事。これは『魔物に関わる依頼を討伐士以外に出せない』という法律に対応するための苦肉の策だそうだ。
『討伐士』はこの世界に存在する国々が魔物という共通の敵に対抗するため、利害を超えた国家間の協力によってその身分が保証されている。
『討伐士』になるためには、この協力関係を結んでいるいずれかの国家の軍事部門による承認が必要となる。
とは言っても、そもそも討伐士の志望者は少ないし、討伐士の身分維持のために定期的な実績は要求されるし、問答無用で魔物を押し付けられるので、嘘をついてまで討伐士になるメリットが薄い。このため試験を複雑にする意味がなく、承認のハードルは高いが、基準は緩いのだそうだ。
「というわけで、『巡回訪問団とその部隊長が単独討伐を目撃した』くらいで十分承認要件を満たせる、というわけだ」
「承認が依頼の後になってもいいんですか?後で矛盾が問題になったりしませんか?」
直人があきれ顔で懸念を伝えると、ライネスはニヤリと不敵な笑みを浮かべて頷いた。
「承認日は俺が書いた書類に記載の日付で通るので、昨日の日付を記載すれば問題ない」
ライネスには仲間と相談させてほしいと伝え、レギンレイヴとレネ子の意見を聞く。
「魔物に遭遇しても護衛対象を逃がせば他人の目がない状態で戦えます。今の直人ならセラーを使えば11等級までなら討伐できると思うので、依頼を受けるべきかと思います」
レギンレイヴは基本的には直人の意思で直人が決定する事が重要というスタンスだが、求めれば意見は言ってくれるのはありがたい。
「早くエンブラーギに行くにゃ。家畜しか居ないトレニーに三日滞在するのは人生の浪費にゃ」
レネ子は自分の欲望に正直だ。
直人としてもなるべく早く、何らかの加護を得てセラーを自由に行使できる状況を作りたいので、エンブラーギに直行できるチャンスは渡りに船と言える。そこに報酬と身分、そしてエンブラーギ領軍に恩を売れるというのは破格の条件だ。
仲間との話し合いとは言ったものの、反対されたら説得するつもりだった直人としては、二人の意思が自分の判断と一致しているのは幸運だった。
ただ一つ、問題は直人がすぐには動けないという事だった。
先の戦闘で極度の緊張にさらされ、長時間の全力戦闘を行った直人の肉体は、すさまじい疲労で思うように動かせない状況だ。
レニース村での最初の戦闘以来、基礎体力をつける訓練を続けてきたおかげで、意識を失って眠りこけるとか、まったく動かせない、というほど酷くはないが、今立ち上ろうとしても糸の切れたマリオネットか、せいぜい生まれたばかりのバンビになるのが関の山だ。
そんなわけで、レギンレイヴからライネスに依頼の受領と直人の筋肉痛を伝えてもらったところ、レギンレイヴは「移動中に治るだろ。治る前に魔物に遭遇したら気合で行け」というライネスからのありがたい言葉と、一通の書状を持ち帰ってきた。
「討伐士への推薦状だそうです」
「先払いとは太っ腹だね」
さて、エンブラーギへ急行するのは、今まさに直人が乗っている馬車と、御者と伝令を担う兵士レナンとコーダの二名、この二人の護衛を担う兵士サイクス、そして直人たちである。
緊急伝令班の基本コンセプトは『誰か一人だけでもエンブラーギにたどり着けば良い』なので、二~三回は強大な魔物に遭遇しても任務が達成できる計算だ。
とはいえ、討伐士として護衛任務として受領したため、その最初の囮になるのは直人たちだ。
魔物に相対する討伐士は、非討伐士に率先して魔物の処理にあたる事が求められる。
討伐士は魔物から民衆を守ってこそ討伐士であり、こと魔物に関しては率先して矢面に立ってこそ討伐士に与えられる特権を享受できるのである。
とはいえ、今回の任務は護衛なので、護衛対象を逃した後に魔物を倒す必要はない。うまく逃げられるなら逃げても良いのだ。
もちろん、魔物に遭遇しなければ馬車に乗っているだけで諸々の報酬がもらえるおいしい仕事である事もまた事実だ。
それから兵士たちが荷物の積み替えを行った後、緊急伝令班はキャラバンを離れてエンブラーギへ向かう事となった。
緊急伝令班の道行きは、急いでいる、とはいえ、馬を休ませる必要があるため、二時間ごとに休憩をとり、夜はしっかり六時間寝る。
それでも一日十八時間走る事を四日ほど続けると馬は疲弊してくるもので、御者二人の判断で休憩時間は徐々に間隔を短く、長い時間を取らざるを得なくなっていた。
幸いなことに、牧畜村トレニーの周囲に広がるダマ平原の豊かな牧草のおかげで馬の餌に困る事はなかった。また、必要な水場を経由しているので、エンブラーギまでは十分走りきる事ができるだろうとの御者二人の共通認識だった。
人間の食事は、レニース村から持参したものが役に立った。二交代とはいえ、馬車を駆る御者の疲労は小さくなく、直人としても可能な限り手持ちの食材で十分な栄養素を補給できるように協力を惜しまなかった。
五日目の昼前、一行は南ファゼッド山のすそ野を人の手で切り開いた細道を抜け、ファゼッド大渓谷のほぼ西端に架けられた南北を繋ぐ橋へと至った。
ここにきて、直人は緊急伝令班としてはじめて魔物を観測する事になった。
と言っても、その姿は遥か遠く、橋から見える渓谷の東、トレニー側の岩壁からエンブラーギ方向に向かって突き出した岩場にある影がネコっぽいシルエットをしているという程度のものだった。
あれだけ遠ければこちらに気づく事もないだろうと、急いで橋を渡る事にしたのだが、橋を渡る最中、手綱を握っていた御者レナンが違和感に気づいて声を上げた。
「おい、あのネコ、ヤバいぞ!」
馬車から顔を出してはるか遠くの影に目を凝らす。
直人の背後で同じく魔物を観察していたもう一人の御者コーダがつぶやく。
「あのネコ、木の高さの半分くらいないか?」
ファゼッド山の木々は広葉樹が主体だが、それでも三階建ての家屋くらいの高さはある。
その木の半分の位置にネコの腰がある。
「デカいネコだ」
そう、その魔物はネコにあるまじき巨体だったのだ。
一般的な魔物は実在の動物が腫瘍の作用で変化して生まれるため、どんなに形状が変化しても元の動物の『質量』を超える事はできない。
ところが遠目に見るネコの魔物はどれだけ小さく見積もっても腹の下を馬車がくぐりぬける事ができるくらいの大きさはあるように見える。
護衛兵サイクス曰く「あんなサイズの山猫はこの大陸には存在しない」との事で、それゆえにあのネコは八等級以上の魔物である可能性が高いのだそうだ。
八等級とはすなわち『小型変異獣類』と呼ばれる魔物が該当する。
変異獣類とは、元となった獣が明らかに実在しない魔物の事で、六本足の馬や羽を持つ蛇などの『変化型』、二種類以上の獣の性質を持つ『キメラ型』などがある。
『小型変異獣類』なのにデカいネコというのも理屈に合わないが、外見はネコそのものなので、要は変異の仕方が巨大化という形で発現した魔物という事になる。
なお、六等級に『大型変異獣類』という分類があるが、これであった場合は『巨大化』と『変異』が二つ同時に現れなければおかしい。『巨大化』&『巨大化』という可能性もあるが、その場合は『針葉樹の森から頭が出る』ほど巨大化するという記録があるそうなので、あのネコでも小さいという事になる。
もちろん、近くで見れば巨大な上になんらかの変異か所を確認できるかもしれないという意味では六等級の可能性も捨てきれないが、いずれにせよ本来なら自重で潰れてもおかしくない巨体を、魔物特有の強靭な体細胞で支え、見た目の大きさからは想像もつかない敏捷性を発揮する危険極まりない魔物であることには変わりない。
直人が倒した十二等級の討伐報酬が金貨10枚弱の所、八等級なら金貨130枚、六等級なら金貨500枚以上というから、もはや次元が違う。
ともかく、あの巨大なネコ型の魔物が八等級以上なら、エンブラーギでは十分に非常事態となるため、緊急伝令班としては急いでエンブラーギへ向かう理由が一つ増えた事になる。
ファゼッド渓谷の橋を渡って右斜め前の方向、つまり北東がエンブラーギで、通常であれば渓谷沿いに少し坂を上り、そこから緩やかな北ファゼッド山の山裾をまたぐように越えるルートでエンブラーギへの最短距離を行くらしいが、いくら急いでいるとはいえ八等級以上の魔物が居る方へ近づくのは馬鹿げている。
一刻も早くネコの化け物から離れたいという馬車内の共通見解を受けて、一行は北ファゼッド山を左回りに迂回するルートを行く事になった。
やや遠回りにはなるが、高低差が少ないため、馬に負担が少ないという意味でも悪い選択ではない。
そうして馬の鼻先を北西に向け、等高線沿いに北ファゼッド山を回り込むように進んで夕暮れを迎える頃、山の上から降りてくる道と合流した。おそらく、山裾を超えるルートの出口だろう。
それから更に日が落ちる頃まで馬車を走らせた所で河原に面した大きな岩屋のある広場に出た。
御者をしていたレナンが馬車内に声をかける。
「明日中にエンブラーギまで駆け抜けてしまいますので、今日はここで休みましょう」
岩屋の周辺には巨大な岩石がいくつか鎮座していたが、どこまで人の手が入っているかはともかく、岩屋の正面から河原までは岩が取り除かれて広場になっている。
岩屋の内部は野営地として簡素ながら整備されており、石造りのかまどと、その奥にはご丁寧に薪の束まで積み上げてある。薪の量は潤沢というほどではないが、夜を越すには十分で、なにより真っ暗闇の中、これから薪集めをする羽目にならずに済んだのはありがたかった。
山を越えていれば、夕方前にここに到着して、前の利用者の置き土産のお世話にならずに済んだのかもしれないが、こういう事態に備えた薪なのだろうからありがたく使わせてもらう。
五日目の夜ともなれば役割分担は慣れたもので、直人は馬車に積まれた鍋をひっつかんで間もなく完全な暗闇に沈む木々の間を走って河原に向かい、鍋半分の水を汲み、岩屋のかまどに戻る。
護衛兵サイクスがかまどに火をつけている横で、水を張った鍋に乾燥野菜と、皆から預かっていた干し肉をナイフで削ぎ切りにして放り込む。次に御者の二人が持っていた岩塩を分けてもらったものをナイフの柄で砕いて適量を鍋に突っ込む。最後にカチカチに乾燥したパンを鍋のフタの上でナイフを使ってザクザクと細切れにしてパンくずごと鍋に放り込む。そのままフタをして、この間に火を起こしてくれたサイクスに鍋を預けると、直人は寝床を作り終えたレギンレイヴと、荷物の上で箱座りに興じていたレネ子を連れ立って岩屋周辺の調査を開始する。
最低限、周辺の地理を確認しておけば、見張り中にどこを重点的に警戒すればよいかが見えてくるというわけだ。
夜の見回りではレネ子が力を発揮する。
猫だけあって夜目が利くそうで、直人には完全な闇でしかないような場所でも、『薄暗い』程度には見えているのだとか。
そんなわけで、直人の肩に爪を立ててしがみつき、直人が木に激突しそうになったり、何かを踏みそうになるたびに肉球で直人の頬をえぐるようにして注意を促してくれる。
また、動くものを察知する能力も高いので、視界のどこかで何かが動けばすぐに直人に「四時の方向、何か動いたにゃ」と囁いてくれる。しかし、人間ほど視力は良くないらしく、確認したら風で葉が揺れただけだったという事も珍しくない。
そんなわけで、レネ子の「何か動いたにゃ」にはそれほど緊張する必要はなかったのだが、この夜のレネ子の「何か動いたにゃ」は明らかに様子が違っていた。
「正面から右に向かって何か動いたにゃ。後ろは私が警戒するから明りに向かって真っすぐ走るにゃ。」
直人は尋ね返す前にレネ子の言葉を履行する。
「イヴ、先行しろ」
レギンレイヴを先に走らせ、自分も後に続く。
後ろは振り返らない。どうせ見えやしないし、レネ子の目の方が信用できる。
走りながら左右の武器を抜く。
「魔物だと思うか?」
肩のレネ子に尋ねる。
「魔物で、こちらに気づいてまっすぐ来ないのはおかしいにゃ。というか風下を取られてるにゃ。ケダモノにゃ」
直人は別の可能性について尋ねる。
「この大陸に人を襲う野生生物っている?」
「トレニー周辺のダマ平原やエンブラーギ周辺のルツィ平原の家畜を狙う狼か、このあたりだと大型の山猫、そんなところにゃ」
餌に困っていないなら野生生物は一応『大型動物』の人間を襲ったりはしないはずだ。
何らかの理由で餌が足りていない場合や、こちらが意図せず野生生物の子なり巣なりに近づいてしまった場合は問答無用で襲ってくるだろう。
今、この地域は春の初めの頃だったはずだから、繁殖期に入っていたとしても子ができるのはもう少し後のはずだ。
とすると、冬を越えた直後である事を考慮しても前者の可能性の方が高い。
直人たちが無事広場まで戻ってくると、異変を感じた護衛兵サイクスが武器と盾を手に広場に出てきて直人に声をかけた。
「魔物か?」
「いえ、まっすぐこちらに向かってこないので野生動物かと」
「猫ならまだマシだが、犬の群れに囲まれるのは厳しいな」
「火を大きくしたい所ですね。と言っても、燃やせそうなものは限られてますが」
そう言って、直人は馬車を見る。
サイクスも直人の意図に気づいたらしく頷く。
「車体と車輪を極力残しつつ必要に応じて燃やしていこう。全部燃やしても、足の遅い二人を馬に乗せて、残りは自分で走れば。馬車を引くより早くエンブラーギに着けるはずだ」
そう言ってサイクスは御者の二人に状況を伝えに岩屋に戻った。
直人は周囲の音に神経を集中させつつ、レネ子に尋ねる。
「どうだ?」
「動きは無いにゃ。襲うとしたら油断した瞬間にとびかかってくるにゃ。武器を構えたまま火のそばまで後退するにゃ」
「イヴ、岩屋まで後退だ」
直人はレギンレイヴを先行させ、自分も武器を構えたまま岩屋に向かって後退を開始した。
と、直人はある可能性に気づいて暗闇の方を向いたままレギンレイヴを呼び止めた。
「イヴ待った」
「なんでしょう?」
「野生生物の所有権って誰にあるんだ?ペットは飼い主だよね?」
「なるほど。試してみる価値はあると思います。山中の野生生物の所有権を主張する行政機関や権力者はいないでしょうから、成功する確率は高いと思います」
「しくじったら岩落しで迎撃に変更。イヴとレネ子は離れて俺を一人に。迎撃が遅れて組み敷かれたら助けて」
必要な事を手短に伝える。
「了解しました」「了解にゃ」
二人が離れた事を確認した直人は武器を下ろし、背後の暗闇に背を向けた。
次の瞬間、あらかじめ来ることが分かっていなければ聞き逃したであろうほど微かな地面を蹴る音とともに、その獣は暗闇から飛び出して直人にとびかかった。
直人は真横に飛びのき、自分が元居た場所に着地した獣の姿を確認する。
「なんだコイツ!?」
明らかに山猫とは異なる、中型犬ほどの体、そして微かなたき火のオレンジ色の明りの中にあってもはっきりわかるほどの白い真珠のようなウロコに覆われた体、そして一対の羽。
見たこともないその野生生物が、こちらにきびすを返したのを確認した直人は、正体の確認を後回しにしてセラーへ収納するイメージを走らせると、思惑通り目の前の獣が消え失せた。
「よしっ」
と、何か丸太のように太く黒い影が獣の居た場所にズンという重量のある音と共に着地した。
「なんだっ!落石かっ!?」
直人がその黒い柱を見上げるのとほぼ同時にイヴとレネ子が叫んだ。
「変異種です!」「変異種にゃ」
直人の目の前には昼間に遠目に見た怪物の、あまりにも巨大な黒い影があった。
次の瞬間、視界の左端で黒い影が動く。
とっさに防御姿勢を取った直人だったが、次に気づくと直人は木に寄り掛かって座っていて、膝の上には横になって動かないレネ子。そして、目の前には直人に背を向けて立つイヴの背中。
「何が起こった!」
すると、目の前のイヴが淡々と状況を説明した。
「直人は変異種の右前足の一撃を被弾、致命傷のためレネ子が回復魔法を行使。レネ子はコストの過剰消費によるリソース強制徴収のため昏睡状態です。」
直人はレギンレイヴの正面にいる巨大な影に気づいて戦慄した。
「ソイツは?」
恐怖にすくみそうになる心を奮い立たせて直人は尋ねる。
「山猫をベースとした大型変異獣類のようです。わかりにくいですが、四肢にネコのものとは思えないウロコが生えています」
「イヴの現状を報告!」
「『超死の魅了』による行動制限に成功。ただし元々死との距離が近いのか効果が薄いです。膨大なコストを払ってねじ伏せていますが、このままリソースが切れた場合、全滅の可能性があります。全滅に備えるのであれば、レネ子をセラーに格納する事を提案します」
直人は即座に膝の上のレネ子をセラーに格納し、レギンレイヴに尋ねる。
「ここで死ぬとどうなる?」
「始まりのあの夜に――」
直人は震えるようなため息をついた。
「なら、踏ん張りどころだな。三十秒頼む。」
レギンレイヴはにっこりと微笑んで頷いた。
「問題ありません。」
頼もしい事だ。
直人は周囲を見回し、自分の置かれた状況と手札を再確認した。
考えろ。
勝つ必要はない。生き残れればいい。
直後、直人は岩屋に向かって叫んだ。
「昼の魔物が追ってきたぞ!引き付けている間に行け!使命を果たせ!」
兵士たちはプロフェッショナルだ。こう言えば余計な問答をしようとはせず、エンブラーギに向かうだろう。
思惑通り、背後の岩屋がにわかに騒がしくなり、直後、三人分の足音が岩屋を離れていく。
次は自分たちだ。
「あっ、思いついた」
アイデアは降ってわいてきた。ただ、同時にいくつか超えるべきハードルがある事にも気づく。
しかし、他にアイデアも無ければ、これ以上考えている余裕もない。
覚悟を決め、勢いよく立ち上がると、レギンレイヴと魔物の間に立ち、レギンレイヴに指示を出す。
「イヴ!可能な限り魅了を維持しつつ魔物の死角方向に後退!魅了が切れたら俺に魔物を押し付けて魔物の察知範囲外に全力で離脱しろ!」
「合流は?」
レギンレイヴが短く問い返す。
「二回寝て起きる頃にここで」
「わかりました。後退します」
レギンレイヴはそう言うと、大ヤマネコを見つめたまま、大ヤマネコの後方に向かって後退を始めた。
どうやら、超死の魅了の維持はある程度距離をとっても可能であるようだ。
レギンレイヴとネコの魔物との距離を越えないように、直人も岩屋に向かってジリジリと移動を始める。兵士たちとレギンレイヴが逃げる時間を稼ぐにあたり、岩屋には良い武器と明りがあるからだ。
それから間もなくして、超死の魅了から解放された大ヤマネコは、直人の思惑通り、直人にターゲットを変えた。
どうやら大きくても行動原理はこれまで戦った魔物と大差ないらしい。
とはいえ、巨大な化け物から狙いを定められる瞬間は、控えめに言って絶望的な気分だ。それでも、一歩でも間違えれば死に直結する数多の選択肢を選び抜いた果てとはいえ、そこに光明が見える以上、英雄を目指す者としては軽くその光明に到達してみせねばなるまい。
巨大な体躯からくる自重をものともせず、純粋にスケールアップした山猫の動きをイメージの中で動かしてみるが、背を向けて走って大ヤマネコの踏み切りのタイミングを見逃せば回避は絶望的、樹木を盾にして逃げても樹木ごとなぎ倒して飛び掛かって来かねない。
転ばないように腰を落とし、盗塁を目論む野球選手のように、大ヤマネコの体の微かな動きに全神経を集中しつつ後退する。
と、大ヤマネコがスラリと伸びた美しくすら感じる二本の前足で地面をトトンと踏んだかと思った次の瞬間、巨大な影が引き絞った矢を放つかのような速度で目の前に飛んできた。
「クソッ」
悪態をついてとっさに左に飛び、転がる体で地面を抱き止めて顔を上げ、大ヤマネコの横っ面を視認すると、右目の直上にセラーの岩を呼び出す。全部ぶつけてやりたい所だが、真下に叩きつける岩の数は限られているので無駄打ちはできない。
ギャン、という声を背中で聞きながら、一気に岩屋まで走る。
後ろを振り返り、大ヤマネコがまだこちらを向いていない事を確認した直人は、岩屋に飛び込むなりすみやかに岩屋の奥にレネ子の本体を収めた棺を取り出し、蓋を少し持ち上げ、レネ子の本体の股座にセラーから取り出したレネ子を押し込み、棺の蓋を閉める。
踵を返して岩屋の外に向かう途中で、比較的天井の低い場所でジャンプして天井にワンタッチし、それから積み上げられた薪を一抱え掴み、かまどの前に走る。かまどの上に置かれた煮込み途中の鍋をセラーに放り込み、代わりに持ってきた薪の束をかまどの上に積み上げる。これでうまくいけば時間を稼ぐ間の視界の確保は成った。
「タイムアップだな」
直人は岩屋の外に飛び出し、こちらに気づいた大ヤマネコを無視して『目当ての武器』の元に走った。
『目当ての武器』、すなわち岩屋の周囲に鎮座していた巨岩である。
岩屋を出る直前に岩屋を構成する巨岩をセラーに格納できないか試してみたのだが、整備されている事から公共物扱いとなっているらしく、セラーに格納する事はできなかった。
とはいえ、それは想定通りだったので、最初から直人の狙いは岩屋の周囲に転がっている巨岩だった。
巨岩に駆け寄りつつ、セラーから取り出した鉄筆で岩に乱暴に『1』を書いてセラーに収めた直後、自分の背後、大ヤマネコの居る方角に巨岩を呼び出し、横に飛ぶ。
直人の予想通り、今まさに飛びかかってきた大ヤマネコが突如現れた大質量の巨岩に激突する。
直人は大ヤマネコの衝突エネルギーが巨岩に移動した瞬間を見計らってその巨岩をセラーに格納、間髪入れずに大ヤマネコの背後に再出現させた。
グギャァアと大ヤマネコの太い悲鳴が響き渡り、ズンと大地をゆるがす激震が走る。
「よっし!成功!」
直人は音と振動から思惑通り事が運んでいる事を確認しつつ、別の巨岩の元へ走り、鉄筆で『2』、『3』と数字を書いては、かたっぱしからセラーに格納していく。土に埋まってセラーに収まらない岩には先にセラーに収めた岩を直上に取り出してぶつけて揺さぶり、土との接触面積を減少させるとセラーに格納できる事がわかった。
間もなく、岩屋周辺にある最後の巨岩『8』を確保した直人は確信した。
「よし、油断しなければイケるぞ」
ここまで思い通りに事が運んだのは、ひとえに魔物の動きが単調である事に尽きる。
機械のごとき魔物の動きは、直人の想像の中での動きそのままに現実でも動いてくれる。もちろん、そう簡単な話ではないが、近接攻撃を食らい、遠距離攻撃を紙一重で回避した、たったその二回の幸運で、直人は予測精度を上げる事に成功していたのである。
そして、獲得した巨岩という大質量兵器により、『ほぼ死ぬしかない』状況から『失敗すれば死ぬ』状況くらいに危機の様相を軟化させる事に成功したのであった。
更に、巨岩に鉄筆で数字を書き込んだ事で、これまで不可能だった戦い方が可能になった。
直人はこれまでにセラーに収納していた小さい岩のうち静止しているものを全て捨てると、『1』の背後から起き上がってきた大ヤマネコに、いまだかつてない自信と共に対峙した。
だが、もちろん、直人は油断などしないし、してなるものかと、当初の予測より好転した状況に浴する己を戒めた。
最初から、直人が目指す光明は大ヤマネコの討伐などではない。
そもそも、これまでの魔物との戦いで直人は十分思い知っている。
魔物は打撃では倒せない。
もちろん、まったく無駄というわけではない。変質させているとはいえ、動物の体構造を流用して活動する魔物は『脳』という弱点を克服してはいない。
だが、巨岩『1』をぶつけても、足すら引きずらない大ヤマネコを見るに、やはり打撃は決定打になりそうもない。
最大の攻撃がその巨岩である以上、直人には大ヤマネコを討伐する事は不可能だという事だ。
なら、直人が取れる道は逃走しかない。
しかし、どんなに巨岩で頭を殴りつけても、逃げ切る前に起き上がってくるのだから、距離を取るのは不可能。
体が大きくなった事で、索敵範囲が広がっていないとも言い切れない。
となれば、直人が取れる逃走経路はもう一つしか残っていない。
直人は巨岩を赤マント代わりに一撃必死の物騒な闘牛ごっこに興じつつ、逃走の完遂までの青写真を描き切ると、セラーの中身を排出していった。
荷物、武器、岩、例の野生生物と熱々の鍋以外の全てを闘牛ごっこの邪魔にならない場所に放り出す。
最後まで直人は野生生物と鍋をどうするか迷ったが、いよいよ逃走の完遂へ動き出す事にした。
岩屋から遠ざかる方向へ大ヤマネコの飛びつき攻撃を誘導し、これまでと同様に大岩『1』を囮に使って回避すると、直人はすぐに『1』をセラーに収納し、そのまま岩屋に向かって全速力で駆けだした。
背後は振り返らず、代わりに『1』から『3』の巨岩を逃げる自分を隠すように横一列に落とす。岩屋まであと少しという所で『4』から『6』までの巨岩をやはり並べて落とし、障害物とする。
魔物は回避可能な回避するしかない攻撃は必ず回避してくれる。
タイヤを転がすような攻撃なら横に回り込んで襲ってくるが、縄跳びのような攻撃なら必ず飛んで回避してくれるという事だ。
つまり、回り込むのが難しい一列に現出させた巨岩が地面に落ちるくらいは待ってくれるのだ。
直人は岩屋に飛び込むと、岩屋の入口をふさぐように『7』と『8』を落とし、レネ子の棺の前にスライディング、棺の蓋を開け放った。
「落ち着けー、落ち着け、俺」
棺の中をざっと観察した後、手早くレネ子をレネ子本体の胸の上に移動させる。
レネ子本体の膝下に腕を入れ、体育座りの要領で足を曲げさせる。
空いた足下の空間にセラーから取り出した熱々の鍋を置き、自分で着ていた革のベストをかぶせてレネ子本体の足が鍋に触れないようにする。
背後で岩屋をふさぐ『7』と『8』の巨岩がぶつかり合う音。
レネ子本体の膝を手前側に倒し、奥側に自分の足を置くと、最後までセラーに残しておいた例の野生生物を棺の蓋を盾に、蓋の向こう側にセラーから取り出す。
間髪入れず、蓋の頭越しに白いウロコの野生生物の胴を腕で抱えるようにして捉え拘束すると、『7』の巨岩が横に飛んで隙間から大ヤマネコの顔がこちらを覗き込む。
「残念!とりあえず俺の勝ちだ!」
直後、直人は目の前の大ヤマネコにどや顔で別れを告げ、光明に手を伸ばした。
そう、自分自身ごとセラーに逃げ込んだのである。