第02話「初陣前夜」
広葉樹の丘を下りながら、直人はレギンレイヴに尋ねた。
「君を守るとは言ったものの、ワルキューレって戦闘力はどの程度のものなの?戦乙女というくらいだし、もしかしなくても俺じゃ足元にも及ばないんじゃないの?」
「身体能力はこの世界の年齢相応ですが、技術はたぶん消えていないと思います」
とレギンレイヴ。
「技術?」
「体術、剣や盾の扱い、あとは馬術ですね」
「剣とか盾は持ってる?」
「いえ、衣服とハンカチだけです」
レギンレイブの趣味なのか、彼女の主の趣味なのかは知らないが、転生者にハンカチを持たせるのは、そんなに重要なのだろうか?
「深く考えるのはよそう」
直人は自分にそう言い聞かせる。
ともかく、レギンレイヴの安全のためにもレギンレイヴには彼女自身の強さを発揮してもらう必要があるだろう。そして、それには彼女が使い慣れた装備を手に入れるのが近道であるようだった。
が、現時点では望むべくもない。所持金も無い。
直人はため息を一つついて、考え事を横に置いて、目の前に生じた問題に取り組む事にした。
つまり、丘を下ると、小道は森の中へ向かう道と、森から離れて道に分岐していたのだ。
「どちらに行くべきか」
丘の上から見た限り、見渡す限りの森と見渡す限りの草原だった。
こんなに広い森にも草原にも、直人は生前お目にかかった事が無い。
「土の道で、轍も無く、草でボーボーになってないって事は、ある程度人が頻繁に歩いてなきゃおかしいと思うんだけど……」
左右に伸びる道の見える限り遠くまでを望んでも、人が歩いてくる気配はない。
「直人、少し変です」
とレギンレイヴ。
「そうだね。人の歩かない道を丹念に草むしりする趣味の人でも居るのかね?」
「いえ、もっと根本的な部分についてです」
そう言われて直人はレギンレイヴを見た。レギンレイヴの視線は近くの草むらを行ったり来たりしているので、直人もその視線の先を一緒に追いかけてみる。
しかし草むらは草むらだ。何もない。
「どういう事?」
直人が説明を求めると、レギンレイヴは最後にもう一度周囲を見回して確信を得た様子で答えた。
「この周囲には生物の気配がしません」
「そりゃ、人も動物も居ないんだから、気配もしないんじゃないの?」
周囲を見回す直人。
「いえ、恐らく鳥や小動物、昆虫すらもいないようです。先ほどから姿を見ません」
そこまで言われて初めて、直人は、心地よい風が草を揺らす音の中に、生物が立てる音が存在しない事に気づいた。鳥の声はもちろん、虫の声もしない。
それどころか、寝ていた自分の体に蟻が登ってきたり、羽虫が顔にぶつかったり、蝶が視界のどこかでヒラヒラと飛ぶさまも見ていない事に気づいた。
「なるほど、確かに変だ。で、これってどういう事かわかる?」
「老練なエインヘリャルであればそれこそ色々できますから、可能性を挙げればきりがありませんが、幻覚か、特殊な恩寵で作られた偽物の世界か、といった所でしょうか」
直人はしゃがみこんで道端の小石を拾い上げ、じっと見つめる。
「レギンレイヴ、恩寵の力で作った偽物にしろ、薬品で見せられている幻覚にしろ、そういう偽物はセラーに収納可能か?」
レギンレイヴは直人の意図を察して首を横に振った。
「いえ、不可能です。実体がある場合は、それが作られた経緯にもよりますが、魔法等の能力ならそれを作った者の体の一部として扱われるので不可能です。薬品等による幻覚や夢なら、そもそも収納しようとしているものは幻を見ている人間の頭の中なので収納のしようがありません」
直人は石を放り捨て、代わりにポケットからハンカチを取り出し、セラーに収納しようとしてみた。
ハンカチが虚空に消える。どうやらセラーに収納されたようだ。
いまいち納得がいかないが、一番意図のわからない存在のハンカチが真っ先に役に立ってしまった。
「この体と服は実体っぽいから、夢を見てるわけじゃないみたいだな」
直人はセラーに収納したハンカチを取り出し、ポケットにしまうと、レギンレイヴを見て肩をすくめた。
「この状況を打開する方法に心当たりは?」
「『超死の魅了』と同じように生きている者には少し乱暴な力ですが、ワルキューレの力を使えば可能かもしれません。試してみますか?」
「んー、それは最終手段って事にしようか」
「よいのですか?」
直人は少し考えた後で、頷いた。
「良い場所だし、快適だし。道端で寝ているマヌケを保護してくれていた可能性も捨てきれない。敵対してるにしては待遇が良いから喧嘩は売りたくない」
と、次の瞬間、近くの茂みから鳥が空に飛び立った。
暗い。
そして、犬の切羽詰まったような吠える声。
直人とレギンレイヴは反射的に犬の声が聞こえてきた方に振り向く。
「お、お前ら何処から出てきた!」
声の主は農民らしき初老の男性。
右手には鈍い光を放つ鉈を持ち、左手には先端がY字になった長い木の杖。杖のY字の頭にはカンテラがぶら下げられ、オレンジの柔らかい光が森の中を球状に照らし出している。
男は直人とレギンレイヴにカンテラを向け、その正体が歳若い男女だとわかると、突然現れた不審者に飛び掛からん勢いで威嚇する大きな灰色の犬を体で静止した。
犬は吠える事は止めたものの、相変わらず警戒は解いておらず、主の背後で低く唸り声をあげている。
直人は周囲を見回した。
男の持つカンテラの明かりが照らしている範囲の外側はほとんど何も見えない。それは直人が経験した事の無い深い暗闇だった。
濡れた土と青臭い緑の香り。足元のぬかるんだ道に、二本の轍が見える。
それまで聞こえていなかった分、カンテラの光に突撃する虫の羽音と、暗闇の向こうから聞こえてくる虫の鳴き声が耳にうるさい。
「移動した?」
周囲を注意深く見回しながら直人がレギンレイヴに尋ねる。
「移動したというよりは、相がずれた、という印象です」
レギンレイヴの答えの意味はイマイチ理解できなかったが、その意味を確認するより前にレギンレイヴが袖を引っ張る。
そうだ、突然の事に面食らったとはいえ、先ほどの農民とおぼしき男性の問いを無視して、このまま放置しておくのは良くない。
――良くない。のだが、しかし、なんと答えたものか。
直人は頭をひねった。
散歩中に迷った、家出してきた、遠い国から旅をしてきた、盗賊に攫われ野営地から逃げてきた。
パッと思いつく『嘘』はこの程度だが、いずれも何かしら抱えている矛盾から破綻に繋がるような気がする。この世界の常識もわからないうちに嘘が露見するのは、せっかく遭遇した『保護者候補』との信用の醸成という観点で好ましくない。
つまり、真実を伝えるには情報過多だが、嘘では足りなさすぎる。事実を脚色するくらいが良いだろう。
一瞬のうちにそう判断した直人はすぐに不安そうな顔を作って男の質問に答えた。
「あ、ああ、ごめんなさい。僕たち気が付いたらこの森に居たんです。この森に居た以前の事がどうしても思い出せなくて」
実際、動転していたのは事実なので、そのまま見るからに動転している体を装って話す。
男は改めてカンテラの明かりを高く掲げ、直人とレギンレイヴの姿を照らし出してまじまじと確認したあと、犬に向かって「ルグル、もういい」と言った。
すると、ルグルと呼ばれた犬はブフンと鼻息を吐き、あっさりと直人とレギンレイヴへ向けていた警戒を周囲の暗闇に放り投げた。
「信じてくれるんですか?」
すると男は自分の姿を見ろと言わんばかりにカンテラを掲げて言った。
明かりに照らし出された男は、腰まで泥だらけ、どこかで転んだのだろうか、両腕、服、顔にも泥がべったりとはねている。
というか、よく見たらルグルは泥で灰色に見えていただけらしい。オレンジ色の明かりの中なのでなんとも言えないが、泥はねを逃れた背中の毛は茶色に見える。
「おまえらは綺麗過ぎる。丸二日降っていた長雨でぬかるんだ道を、明かりも無しに歩いてきたとは思えないし、人に化けられるほど知恵のある魑魅魍魎なら俺にはもうどうする事もできん」
多少の疑念を残してはいるようだったが、男は直人とレギンレイヴの話をひとまず受け入れてくれたようだった。
男は鉈で近くの木の少し太い枝を払い、直人とレギンレイヴに即席の杖を渡すと、自分に付いてくるように言った。
歩き始めてすぐに、直人は自分が革のサンダル履きだという事に気づいた。しっかりと自分の足にフィットしていて今まで気にならなかったが、ぬかるんだ道の泥が容赦なく入り込んできてサンダルと足の間でまでズルズル滑るものだから気になって仕方がない。
「話には聞いた事があるが、神隠しってヤツか?」
男が尋ねる。
泥とサンダルとバランスを取る事に気を取られていた直人だったが、すぐに意識を切り替えて男の問いに答える。
「わかりません。気づいた時には後ろにあなた、えーっとお名前は……」
「ああ、俺はロイだ」
「僕はナオト、連れは……」
言いかけて、不意に直人はレギンレイヴという名を出してよいかどうか不意に不安になり、レギンレイヴに視線を送った。
直人の言わんとする所を察したレギンレイヴは、即座に首を横に振ったが、さりとて自分で名前を考えるつもりは無いらしく、そのジェスチャーは『お任せします』を物語っていた。
直人は焦った。
偽名とはいえ、今後この世界で使う名前だ。適当に付けるわけにもいかない。
とはいえ、すぐに答えないのも不自然だ。
切羽詰まった直人は、時間稼ぎをする事にした。
「彼女は名前も忘れているらしく、僕も彼女とは親しい間柄であったような気がするんですが思い出せなくて、仮に『イヴ』と呼んでます」
「難儀な事だな。で、お前さんたち、行く当てはあるのか?」
と、ロイ。
「残念ながら無いです。というか、ここがどこかなのかもさっぱり」
「ここはエウディス男爵領南の端にあるレニース村。その北外れの森の中だ」
全く聞いた事の無い地名。わかった事と言えば、南にレニース村があるという事くらいだ。
「付いてきな、干し草の小屋に布でも敷きゃ、外で寝るより幾分マシだろう」
「助かります。できれば食料と水も頂けるとありがたいんですが。あと情報も」
どうせ迷惑をかけるなら一つも二つも、二つも三つも同じだとばかりに、直人はずけずけと要求を伝える。
「記憶喪失のくせに図々しいヤツめ。労働力で払ってもらうぞ」
「ありがとうございます!」
直人はハキハキと謝辞を述べる。
ロイはため息を一つ、また黙々と直人とレギンレイヴの前を歩きだした。
少しして、ロイのカンテラがぶつかる音と、ぬかるみを歩く音しか聞こえない状況に耐えかねた直人がロイに尋ねる。
「で、ロイさんはこんな暗い時間に、外れの森で何してたんですか?」
「ルグルが森に向かって吠えたんで見回りだ。最近はこんな大陸の端っこの村近くにまで魔物が出現するようになっちまったからな。今回はお前らだったから良かったが肝を冷やしたぞ」
直人は心の中でロイとの出会いをもたらしてくれたルグルに感謝すると、そのまま話の流れでレギンレイヴから聞いていた話の裏付けをしておく事にした。
「ロイさんは魔物と戦えるの?」
ロイは肩をすくめてルグルの頭をぽんぽんと叩いた。
「まさか、俺が魔物に襲われてる間にコイツが村に知らせに走るんだよ。コイツの首を見てみろ」
ロイがルグルの首元を照らしてくれたので、直人は覗き込む。
ルグルの首元には二枚のスカーフが巻いてあった。泥で汚れているが、一枚は黒く、もう一枚は赤かった。
「赤のスカーフは固く結んでおく。黒のスカーフは一本の糸を往復させて縫い留める」
直人はロイの言わんとする所を察した。
「魔物が出たら黒いスカーフを止めている糸を引きちぎって村に走らせるとか?赤いスカーフだけを付けたルグルが帰ってきたら村人は逃げる――」
直人は推測を口にしつつ、魔物と戦う事ができない事を自覚しているロイの役割に思い至り言葉を切った。
ロイは少し驚いたような顔でカンテラを行き先に向けた。
「そういう事だ。こんな辺境の更に外れの村に魔物と戦えるような戦士は来ないし、頼む金も無い。戦えるような戦士が生まれても、稼ぎの良い街に出たっきり戻ってこない」
ロイは再び歩き始める。
「俺は生まれてこの方この村を出た事が無いが、話を聞く限り田舎なんてのはどこも似たようなもんだ」
「そう……、ですよね」
レギンレイヴの話の通りではあったが、同時に思っていたよりずっと悪い状況にも思えた。
人の集まる街ならもう少し状況が違うのかもしれないが、いずれにせよ、もっと魔物や魔族とそれ以外の種族が、この世界でどのような勢力図を描いているのかを見極める必要がある。
「ロイさん、魔物を見たことは?」
「三度ある。一度はこの森を抜けた更に北にあるファゼッド大渓谷を挟んだ向こう岸に居るのを。残りの二度は巡回訪問団に同行した時に二十を越える兵隊が何時間もかけて討伐したのが一回、ファゼッド大渓谷に突き落として逃げたのが一回だな」
「巡回訪問団って?」
「領主様配下の兵隊が護衛について、商人や旅人がキャラバンを形成して領内を巡回してる。村には月に一度、三日間滞在して、この村で作った品と、他の村や街から運ばれた品とを交換したり、同行している商人に買い取ってもらったりする。この村を出て他の村や街に行く場合も、巡回訪問団頼みだな」
「ちなみに魔物ってどんなヤツなんですか?記憶がスッポリ抜けてて遭遇しても魔物とわかるかどうか心配で……」
直人の質問攻めにロイはうんざりとした様子をして見せたが、そんな態度とは裏腹に聞いた事にはきちんと回答してくれた。
「ここらへんに出現するのは、せいぜい『元動物』だ。それでも生木をかみちぎる程度には凶悪だが」
「元って事は、動物を魔物化させる要因があるって事ですか?」
直人の問いにロイは頷く。
「一定量の魔物の肉や骨が生き物の体に入ると、その生き物は魔物化するらしい。動物型の魔物はどこかで死んだ魔物の肉を食って魔物化した、と言われているな」
ひとまず直人は胸をなでおろした。
ウイルスのように空気感染や飛沫感染したり、目が合うだけ、魔法を掛けられただけで魔物になる、などと言われたらお手上げだったが、とりあえず近接戦闘そのものが死と同義ではない事がわかったのは収穫だった。
と、急に周囲で聞こえていた枝葉の音が暗闇に溶けて、吹き抜ける風の音と共に空間が開けたのを感じた直人は、注意深く周囲の様子を観察して、自分たちが森を抜けた事を察した。
「少し下り坂になっている。注意しろ」
と、ロイ。
なるほど、傾斜した道の先、やや斜め下の方に視線をやると、真っ暗な闇に小さなオレンジ色の炎がいくつかちりばめられているのが見える。あそこが『レニース』村なのだろう。
暗闇の坂道を下りきると、レニース村の入口と思われる門の前に出た。
ロイが門をトントンと叩くと、門扉に設けられたのぞき窓が開いて、こちらを伺うように門番とおぼしき二つの目が現れた。
「俺だ、開けてくれ」
ロイがそう言うと、門番は「ああ、あんたか」と安心した様子だったが、すぐに後ろについてきている直人とレギンレイヴを見てあからさまに警戒の色をにじませた。
「そいつらは?」
声の様子から男らしい。
「神隠しにあって、ついさっき、北の森に放り出されたらしい。記憶も無くして、いく当てもないそうだから、俺が一時的に引き取る事にした。村長には明日話す」
「そんな胡散臭い奴らを村に入れろってのか?」
ロイはイラついた様子で門番の男に言い聞かせるように言った。
「仮に俺が魔族なら、薄い門の向こう側に居るくらいで大きな態度とれるマヌケを最初に門ごと吹き飛ばすだろうな。くだらない事言ってないで『魔物除け』が焼き切れていなか確認してこい。こいつらが魔物かどうかなんてそれですぐにわかるだろ」
門番の男は「確認する」とだけ言い残してのぞき窓を閉めた。
ロイは振り返ると、直人とレギンレイヴに肩をすくめて見せた。
「ヤツは村でも一、二を争うヘタレ野郎なんだ」
直人は苦笑するしかなかった。
それから少しして、門番の男が戻ってくると、釈然としない様子ではあったが扉を開けロイと直人たちを招き入れた。
「無駄な時間取らせやがって。さっさと巡回に戻れ」
ロイがそう叱責すると、門番の男は渋々と言った様子だったが、言われた通りカンテラ片手に闇の中に消えた。
「チッ、開けっ放しで行きやがった」
ロイはそう悪態をついて、門を閉め、かんぬきをかける。
直人は門と、その両側に伸びている塀をざっと観察した。
背の高さより少し高い程度の木製の塀。どうやら、村はこの塀に囲われているようだが、貧弱とはいわないまでも、話に聞く魔物の脅威を防ぐ強度があるとは到底思えない。
「木の塀で魔物を防げるんですか?」
「まさか。この塀自体は森の獣の侵入を防ぐためのものだ。壁で魔物の侵入を防ごうと思ったら、領主様の街『エンブラーギ』にあるような高い防壁が必要になるが、そんな立派なもんを作る金も労働力も無い」
「じゃあ、一度魔物に襲われたら終わりって事?」
「いや、塀に魔物除けの術が掛けてあるから、魔物はこの塀を越えられない」
ロイが村の中央へ続いていると思われる道を左に外れ、塀に沿って歩き始めたので、直人たちも後を追い、話を続ける。
「そんな便利なものがあるなら夜に見回りなんかする必要無いのでは?」
「術はエンブラーギの高名な神術師様のお店で売られている『護符』を買ってきて、女の髪の毛で編んだ紐に巻き付けて使う。紐で囲った範囲に魔物除けの効果が出るが、動物型の魔物を二度三度追い払ったら効果が切れる割に、べらぼうに高い。『護符』で追い返した後も村の近くにたむろされたら、あっという間に村の三か月分の稼ぎが消えちまう」
要するに、魔物除けの護符は、万が一のための最終防衛ラインなので、基本は自分たちで魔物を追い払うか、護符の力で魔物を遠ざけている間に避難するしかないという事だ。
そこまでわかってくると、いよいよロイの役割は囮として村から魔物を引き離す事だとわかってくる。
これ以上、突き詰めて想像しても気が滅入るだけなので、直人は広げかけた思索の翼を折り畳み、話題を変えた。
「村では売るために何か作ってるんですか?」
「お前らが現れた場所の森に多く生えている『ザリツの木』にまつわるものがほとんどだ。ザリツナッツは香りも味も良く、ザリツの木がこの地域でしか育たないので、貴族や街の菓子店に高値で売れる。ザリツの木は木材としても優秀で、緻密で木目が美しいので木材としても売れるし、家具は他の街では高級品だ。堅い木なので、あまり大量に生産する事ができないのが欠点だがね」
そんな話をしているうちに直人の耳に水が流れる音が聞こえてきた。
「川ですか?」
直人が尋ねると、ロイはカンテラを掲げる。
明かりの中に、それほど幅の広くない川の中ほどに突き出すように設置された桟橋が浮かび上がる。
「近くの川から引いた水路だ。さすがに家にある水だけじゃ泥は落とせないんでな。お前らも足を洗っておけ。落ちても死にはしないだろうが、この時期の水は冷たいから注意しろ」
ロイは桟橋のたもとの柵にカンテラをぶら下げた杖を立てかけ、直人とレギンレイヴに付いてくるよう促して桟橋を進み始めた。その後ろをルグルも大人しく付いていく。
直人とレギンレイヴもロイの後を付いて桟橋に踏み出す。
桟橋は思ったより頑丈な作りで、直人が軽く跳ねたくらいではきしみもしなかった。
桟橋の中ほどに一段低い桟橋に続く幅の階段状の足場があり、ロイとルグルに付いて降りると、不意に足に冷たい川の水流が乗り上げたので、直人は「わっ」と、驚きの声をあげてしまった。
どうやら水路の水流はほんの少し低い方の桟橋の上に被るように流れているらしく、水流はサンダル履きの足に乗り上げて泥を落としていく。
ロイは水流を手で豪快に救い上げ、ルグルと自分の泥を洗い流していく。
冷たいだろうに、ルグルは大人しく主人の救い上げる水を被っている。
直人はレギンレイヴに手を差し伸べた。
「気を付けて、滑りやすくなってる」
「ありがとうございます。直人」
そう言って、レギンレイヴは直人の手を取り、自分も水流の中に足を踏み出す。
二人は目立った泥を落とすと、一足先に陸に戻った。
ロイとルグルを待つ間、直人は一つ思いついた事を試すため、レギンレイヴに協力を求めた。
「ちょっと試したい事があるんだけど、石を探すのを手伝ってくれないかな?」
「石ですか?大きさと形はどうします?」
とレギンレイヴ。
「手の中に隠れるくらい小さいものから、両手で持たないといけないくらい大きいものまで、サイズ別に5段階くらいにわけて2個ずつくらいあると助かる。あ、やっぱり小さいのは5個くらい欲しい。形は崩れなければなんでもオーケー。あと積み重ねられる平たい石を3つほど」
「わかりました」
人が歩く場所はともかく、川の周辺は草が生い茂っているし、カンテラの光の届く場所以外は真っ暗だったので見下ろした地面に石は見えなかったが、幸いなことに水路を引く工事で砂利や石を用いたのだろう、足で少し地面を蹴れば大小さまざまな石がゴロゴロと靴底にぶつかった。
直人は、自分とレギンレイヴで集めた石をカンテラの光の下に集め、サイズ別によりわけると、必要な物を必要な数拾い上げて川で土を落とし、早々にセラーに収納した。
そのあとすぐにロイとルグルが震えながら桟橋から戻ったので、三人と一匹はロイの家に向かう事にした。
ロイの家は川から村の入口を挟んで反対側にあった。
家自体は小さく、外から見てもわかるくらい簡素な間取りだったが、桟橋同様、作りはしっかりとしているようだった。
家の隣に並ぶように倉庫のような小屋が見える。
ロイは家の扉を開け、一人中に入ると、間もなく家の中が明るくなり、開けた扉の隙間から柔らかい光が漏れてきた。それから少しして、ロイが右手に持っていた鉈の代わりに畳んだ布を持って家から出てきた。左手に杖は無く、カンテラだけをぶら下げている。
ロイは、家の隣の小屋に歩いていき、扉を開けると、直人とレギンレイヴに入るように促した。二人が小屋に入ると、入って左手にあった机の上に布とカンテラを置き、室内の右奥を指さした。
「そっちに厩舎で使う干し草を積んであるから、崩してこの布を被せるなりして寝床を作れ。カンテラは置いていくが、干し草には絶対に近づけるな。理由はわかるな?」
直人は頷く。
「後でパンと干し肉を持ってくるから、それを水で流しこんでカンテラの火を吹き消したら今日はさっさと寝ろ。これ以上の話は明日だ」
「了解しました。色々ありがとうロイさん」
ロイは頷くと、小屋を出て行ったが、すぐに顔だけ戸の隙間から突っ込んで「トイレは家の裏手だ。暗いから落ちるなよ」と言ってまた出て行った。
直人とレギンレイヴは言われた通り寝床を作り、終わった頃に差し入れられた硬いパンと旨みは強いがクセのある風味の干し肉を、これでもかと噛みまくって胃に押し込んだ。
「もう寝ますか?」
とレギンレイヴ。
「今のうちにセラーの実験をしておきたいから先に寝てくれ。っていうか、成り行きとはいえ、一緒に寝る事になっちまったな。離れて寝るから安心してくれ」
直人の言葉を聞いたレギンレイヴは、先ほど川で集めた石を机の上に並べる直人の手を取り、何事かと動揺する直人の作業を中断させると、自分の方を見るように促して言った。
「直人、私は私の使命のために、長ければ幾万年、幾億年を共にする覚悟であなたを選びました」
一瞬、愛の告白かと勘違いしそうになるが、彼女の言葉はどちらかと言えば仕事の話だ。直人は舞い上がりかけた気持ちを諫めて頷いた。
レギンレイヴは続ける。
「私は生きた体を持つのは初めてですし、有限ゆえに生じる欲求や、それにまつわる感情の機微について、人間ほど理想も思い入れもありません。でも、人間として生きる以上、それは必要なものなのですよね?」
「難しいこと聞くなぁ。でも、まぁ、そうだろうね」
「そしてそれは直人の願いの成就にも欠かせないものである――」
「まあ、はい」
「では、この寒い中で体調を崩す可能性を許容してまで離れて寝ることは、私たちの置かれた境遇とエインヘリャルとしての目的を考慮しても尚、必要なことなのですか?」
つまり、レギンレイヴは二つの問いを直人に投げかけている。
下心って何?
平和ボケしてない?
――と。
困ったことになった。
レギンレイヴときたら、色恋沙汰を理解するどころか、貞操すら状態変化の一部くらいにしか捉えていないのではないか?
要するに、彼女の精神は生存本能が源泉となっている感情については文字通り生まれたばかりの赤子も同然なのだ。
子供が恋を理解するのに必要な条件など直人には見当も付かなかった。
それこそ、生活基盤の構築が生死を分ける喫緊の課題である状況で、子育て、それも女の子だなんて、魔物を片っ端からぶっ殺しておけばなれそうな英雄になるよりよっぽど難易度が高そうだ。そもそも、直人はレギンレイヴの親になりたいわけではないのだ。
それでも、今言っておかなければならない事はあるだろう。
直人はがっぷり四つに組み合う覚悟を決めて自分の考えを伝える事にした。
「俺は君の親ではないし、親になりたいわけでもないので、俺の考えを君に吹き込む事は、俺に有利に働く可能性がある。それはフェアじゃないから極力やりたくはないんだけど――」
直人はそう前置くと、レギンレイヴは頷く。
「君の得た体は心と繋がっている」
直人はレギンレイヴとつないだ手を左手の上に乗せ、軽く手の甲をつまむ。
「意味も無く体に痛い事をしてくるヤツは一般的に、嫌なヤツや敵だ。心と体は繋がっているから体に痛い事をされれば心も痛むし――」
次に直人はレギンレイヴの手に左手を重ねて優しく握る。
「親切で優しい人は一般的に、良いヤツか仲間だ。だから優しく扱われれば、心も優しい気持ちになる」
レギンレイヴは頷く。
「もちろん逆も言える。心が拒絶している相手に優しくされても不快なだけだが、心を許した相手に優しくされれば、何倍にも優しい気持ちになれる。中には親切なふりをして痛い事をしようとするヤツも居る」
直人はレギンレイヴの手を放して、自分とレギンレイヴを交互に指さす。
「ここに男女の仲が絡むと、もっと難しくなる。純粋な心の働きを、性欲という強い力がかき乱すからだ。でも性欲は生物には必要なものだから上手く折り合いを付けないといけない」
実際、直人は今まさに、その性欲や男としてのエゴが自分の都合の良い願望をレギンレイヴに吹き込みやしないかと、戦々恐々としながら言葉を選ぶ、という難しい綱渡りを強いられていた。
直人は続ける。
「性欲は強い衝動で人の理性や判断力を奪う。そうすると、自分と相手の心がお互いにお互いの心と体に触れる事を許しているかどうかの確認作業を怠ったり、見落とさせたり、蔑ろにしたり、無視したりする」
「性犯罪や不倫はどの世界にもありました」
とレギンレイヴ。
今度は直人が頷く。
「だから、他人が安易に自分の心と体に近づく事を許しては駄目だ。先に心を近づて、相手側に自分を大事にしたいという気持ちが育っていれば相手は性欲を抑えこむ事ができるけど、心が近づく前に体が近づけば、性欲を抑える心は力を発揮できない」
「心に近づけさせずに、相手と心を近づけるというのは矛盾していると思うのですが?」
難解な、しかし当たり前の疑問。そんな事、自分だって知りたい。
それでも、理屈だけは伝えねばなるまい。直人は内心、血を吐く思いでもっともらしい答えをひねりだした。
「相手との心と体までの距離は0か1かじゃないから、許容できる程度のリスクを負って相手を近づさせて、様子を伺って、問題なさそうならまた近づく事を許して、ってのを繰り返して、少しずつ距離を詰めていくしかないんじゃないかな」
自分で言っていて、戦いにおける間合いの取り方みたいな話だとは思ったが、今の自分にこれ以上の答えは出せそうにもない。レギンレイヴがこの回答に満足してくれることを祈るばかりだ。
レギンレイヴは直人の言葉を咀嚼した上で、尋ね返した。
「恋人、友人、他人で心と体に近づける距離を調整せよという事でしょうか?」
情緒に欠ける気もするが、軟着陸したのではなかろうか。
「んまあ、その三種類だけじゃないけどな。より親しい友人なら親友とか、他人でも挨拶する程度の顔見知りとかいるし」
レギンレイヴは満足したらしく、直人の言葉に「勉強になりました。ありがとうございます」と告げ、それからすぐに直人自身もすっかり忘れていた当初の問題に言及した。
「では、やはり一緒に寝ても問題なさそうですね」
直人は膝の力が抜けるような気がしてよろめいた。
「話聞いてた?安易に近づけたら俺だって性欲を抑えられないかもしれないって言ってるじゃん」
しかし、対するレギンレイヴは毅然としたものだった。
「私に嘘を教えれば有利になる所をそうしないように細心の注意を払おうとして頂ける程度には、直人は私の心を守ろうとしてくれているように感じました。これ以上、直人の心を探ろうとするなら、リスクを負ってでも、もう一歩直人に近づいてきてもらうしかないと思うのですが?」
直人は覚悟を決めた。この手強い少女相手に手加減している余裕はない。
「ここからは俺のエゴが混じるけど構わないか?」
頷くレギンレイヴ。
「たまたま今一番近くに居るからって理由だけで更に近づてみようとしないでくれ。皆に平等に距離を近づける機会を与えて欲しくはないんだよ。友人はいくらでも作れば良いが、友人以上に君に近づける者は君にとって他人に取られる前に自分に一番近づけたいと思える特別な人、つまり『恋しい人』であってほしい。それを理解した上で、『恋しい人』に俺が選ばれたなら、俺は嬉しいけどな」
「それは、何を持って『恋しい人』の概念を理解できた判断できて、どこからフェアな関係が認められ、いつ一番近づけたい相手を見つける事を開始して良いのでしょうか?既に私が直人を好きになってる可能性は無いのですか?」
もっともな疑問だが、直人は少し腹が立ってきた。
「そんな事、俺が知るわけないだろ。俺は君がそれを知らない事を知ってしまったから、俺のせいで今の君の状況があるから、フェアな状態にするために色々教えてるけど、本来は自分で見つけるものだし、自分にしか見つけられないものだ。俺だって君の準備ができた瞬間を他の誰よりも早く知りたいよ」
「直人を近づけてはいけない。でも直人だけを近づけろ。というのは矛盾しています」
レギンレイヴは困ったようにつぶやいた。
「それは、本来、レギンレイヴが知る事ができない俺の気持ちだからだよ。言っただろ、エゴが混じるって。本来、自分を好きになって欲しい人の心証をよくするために、自分のエゴはギリギリまで隠すものなんだよ。俺の言ってる事は、要するに競争相手が居ない安全なうちに君を俺の理想の女性に育てて、横からかっさらわれるギリギリまで粘って自分のものにしたいって事だからな。普通、いきなりそんな事を相手の女性に伝えたら犯罪者扱いされるくらいには俺のリスクなんだから、この話は忘れるか、忖度いただけると助かります!」
半ばヤケクソ気味な直人の話を聞いたレギンレイヴは、何か納得したのか頷くと、直人を真っ直ぐと見て言った。
「では、こうしましょう。無償で負って頂いたリスクに対する見返りと、寒さをしのぐという大義名分を言い訳に、一緒に寝る事にしましょう。ハグするくらいはかまいませんよ」
「今度こそ、どうなっても知らんぞ。こっちのサービス期間は終了だからな?」
直人が脅すように言うと、レギンレイヴはきっぱりとそれを拒絶した。
「そこは私への親愛と誠意でなんとか耐えてください」
「それをレギンレイヴが言うのはズルくないか?」
直人が抗議すると、レギンレイヴはイタズラっぽくほほ笑んだ。
「そこは、私のエゴというものです。直人が将来、私の『恋しい人』になる運命なら、その事に気づく前に他の女性に奪われるわけにはいきませんから、とりあえずニンジンをぶら下げてでも私の事だけを見ていてもらわないといけません。でも直人が何もしらない私を手籠めにするような男性だったら『恋しい人』ではないと判断しないといけなくなるかもしれませんから、直人が言う理想の女性になった私が直人を『恋しい人』と思えるようになるまで襲うのは我慢してください」
直人は絶句した。
どうやら自分は魔性の女を生み出してしまったようだ。
直人は眩暈のするような気分に見舞われ、思わずよろめいて机に手をついた。セラーから取り出した石ころが崩れてレギンレイヴの方へ転がっていく。
一方のレギンレイヴは得るものがあって満足したのか、転がってきた石を取り上げて直人に尋ねる。
「それで、この石で何を試されるんですか?」
尋ねられた直人は、なんとか気を取り直してレギンレイヴの手の小石を受け取ると、それを直上に放り投げ、下降に転じる直前の一番高い位置でセラーに小石を収納するイメージを描いた。
小石が空中で消え、セラーへの収納に成功した事を確認すると、次に直人は手のひらの上で収納した小石を取り出してみた。小石は手のひらの上で小さな放物線を描いてこぼれ落ち、机の上に転がった。
「とまあ、こんな感じでセラーの研究だよ。自分から離れた所で収納できるか?とか、動いているものを収納できるか?とか、これはどっちもできたな」
直人は、次に平たい石を三つ手に取った。
「あと、例えば平たい石三つを順番に収納して、セラーの中に入ったらセラーの中では三つの石はどういう状態でセラーの中にあるのか?とか」
その疑問にはレギンレイヴが答えてくれた。
「特に指定しない場合、セラー内の中心に積み上げられるので、先に収納した石ほど下になるように積み上がっていくはずです」
「待った! 指定できるの?」
直人が驚いて尋ねると、レギンレイヴは頷いた。
「セラーはそれを使う世界に対して影響を与える事柄には色々とルールや制限が設けられていますが、セラーの中で起こる事については誰にも迷惑をかけないので比較的柔軟ですよ。秩序立ってさえいれば、どのようなルールでも組み込む事が可能なので、やり方次第で収納時に配置場所を柔軟に移動するくらいの事はできますよ。制限の多い出し入れの仕方についてもある程度の自由は利きます」
「え?どういう事?もう少し詳しく」
「自分で考えたルールをセラーに覚えさせる事ができる、といった感じでしょうか。基準としては口で説明して他人に伝える事ができるルールであれば可能だと思ってください。見栄え良く並べて格納しろ、というような曖昧なルールは不可能です。出し入れの方のルールは所有権のルールなどと矛盾しなければ、こちらもある程度自由になります」
直人は少し考えた後で、レギンレイヴに伝えるように収納ルールを言ってみた。
「『事前にセラーに格納しておいたタンスの3番の引き出しにこの石をしまえ』みたいなのは?」
「可能だと思います。その格納方法なら、『3番の引き出しの中身を出したい』と思えば、中身が石であることを忘れてしまっても取り出す事ができると思います」
「すげぇなセラー。でも柔軟過ぎてパッとどうするのが一番良いのか思いつかない」
直人は収納ルールについては時間のある時に考える事として、次の問題に取り組もうとしたが、それからすぐにカンテラの火が小さくなってきたので、検証を切り上げざるを得なくなり、慌ててレギンレイヴを先に寝床に向かわせた。
レギンレイヴが寝床に着いた事を確認してからカンテラの火を吹き消すと、直人は真っ暗な小屋の中を、レギンレイヴの声を頼りに彼女の右手側に腰を下ろした。
直人としては、いざ横に寝た時に自分の衝動を抑えられるのか自信が無かったが、そうした心配は、しかし、あっけなく杞憂に終わった。
暗闇を言い訳にして直人がレギンレイヴとの距離を詰めると、レギンレイヴは先手を打つかのように直人の胸にしがみつくように体を寄せ、そのまま寒さから逃れるように体を丸めた。
まるで犬か猫みたいだ。
そう思ってしまった瞬間、直人の下心は意外なほどあっさりと霧散してしまった。
結局、彼女の思惑通り、あるいは彼女にとっても何らか駆け引きの一環だったのかもしれないが、ともかく直人は親愛を示すために、そして暖を取るために必要な措置として、左腕を彼女の柔らかく艶やかな髪に覆われた頭に、右腕を彼女の肩に、それぞれ注意深く抱き寄せ、包み込むようにして眠りについた。