海を漂う少女
三章開始まで
ゆらゆら揺れる船の上で、青年は船のへりにもたれかかって遥か遠くまで続く海を眺めていた。
そういえば、もう長い間陸を見ていない。2日後には港に着くと言われていたが、それからもう4日が過ぎた。食料はまだ余裕があるそうだが、いい加減地面が恋しいし、そろそろこの生活に飽きがきた。
「何かおもしろいことでもおきねぇかな〜」
「海賊もここにはいないもんな」
独り言に返事が返ってきて驚いた。誰かと思えば、ベラクローフ・マゼレルダ副船長だった。つまらなそうな顔を海になげかけ、長いため息をつく。
とんでもなく偉い立場で、強く恐ろしい人だというのに彼はとても近しく、ただの一兵卒である自分や足りない人員を補うためだけに選ばれた学生達にも分け隔てなく接してくれる。
「副船長は海を眺めてれば元気になるってマーレット先輩が言ってたっスけど」
「基本そうだが、ここの海は隣国に近いからなぁ。知ってたか? 隣国の海の宗教は、海に潜む魔物を退治するために生贄を海に捨てるらしいぞ」
「えぇ!? 生贄!?」
「信じられないよな⋯」
苦々しげに「馬鹿どもめ」と毒づいた横顔がいつもの副船長ではなくて1歩引いてしまう。こんな毒がつける人だったとは意外だ。
それほど極悪非道な行いであるとは思うが、今“海賊もどき”と並んで有名な“逆賊殺し”の片鱗が見えた気がした。
しばらく、本当にすることもないから2人でただぼうっと海を眺めていると、副船長が突然身を乗り出して目を細めて遠くを注視し始めた。彼の脈絡のない行動には慣れたものだったから、たぶん魚が飛び跳ねでもしたんだろうと呑気に考える。
「魚でもいたんスか?」
「いや。でも、何かいる」
あまりにも真面目な顔でいるから、つられてその視線の先に目を向けると、遠い海上に、豆粒ほどの何かが漂っているのが見えた。
ただの流木ではないかと思って、それを副船長に言おうと顔を上げたところ、彼が頭まで痛くなるような大音量で叫んだ。
「海に人がいるぞーーー!!」
同時に、ばっとへりから駆け去って、操縦桿の舵を取る。方向が変わらないようにとくくっていた紐を神業並みの速さで解いて、右に急旋回する。
「何すんですか副船長ーーーッ」
「人助けだ!!」
突然の暴挙に唖然としていた船員達は、それに耐えきれず尻餅をついて左へ流れて行ったり船から振り落とされそうになっていた。
副船長の顔は至って本気で、見間違いの可能性など微塵も感じていない。この距離であの豆粒の見分けがつくなんて彼は人間ではないと思ったが、この人助けにかける想いも普通じゃない。
やっと船の進みがゆるやかになって、みんなに海を見る余裕が生まれた。
「救命器具を準備しろ! 俺が降りる!」
「は、はいっ」
上着を脱ぎ捨てながら助走をつけて海に飛び込む。綺麗な入水姿勢に思わず見惚れるが、彼の向かっていった先に目が行くと驚きが勝った。
「本当に人だ⋯」
湿って黒い大木に、腹這いになってもたれかかる髪の長い人の姿があった。海の青が反射しているのか、その髪の色がとても普通ではなかったが、生きているのか死んでいるのかもわからないほどぐったりしているのは明白だった。
意識のないその子を捕まえて救命姿勢を取った副船長に、紐で船と繋がった浮き輪が投げられる。そこからは引っ張って船の側面まで引き寄せ、おんぶで梯子を登ってもらう。
副船長の体力は底無しで、重労働をしたくせに少しの息切れで済んでいたから化け物だと思った。自分だったら疲れきって倒れ込んでいただろう。
彼が助け上げたのは、少女だった。憔悴しきっていたが幸い微かに息はあり、救命道具を持った連中が彼女を囲んでバタバタするのを背景に、その他の船員達は言葉も失うほどの衝撃に撃たれていた。
「⋯⋯深海の女神⋯?」
少女の腰まで届く長い髪の色は見紛うことのない海の色だった。濡れて艶の増した蒼に引っ付く海藻が気になるが、見間違うはずもない。これは蒼髪だ。
俺たちが、求めて止まない、蒼だ。
誰かが震える手をその髪に伸ばした。しかし、その手は副船長によって弾かれ、俺たちはどこかに飛んでいた意識を取り戻す。
「気安く触れるな、女の子だぞ」
「そういう問題か?」
呆れた声が副船長につっこんだ。マーレット先輩だ。今日もティッシュをふかし、興味深げに足元で死体のように寝る少女を眺めた。
「これは本物か?」
「恐らくそうだな。染料でこの蒼は出ない」
冷静に副船長がそう返すが、その返事に興奮したのは他でもない兵士たちだ。雄叫びでもあげて喜びそうな連中を、副船長と先輩がひと睨みで大人しくさせる。
感情の溢れさせ方を忘れた男達がもぞもぞと落ち着かないのを苦笑して、副船長はやたらと細い少女の腕を取った。
「栄養失調か⋯」
「酷いもんだ」
「誰がこんなことを」
すると突然、タオルと消毒液を持った少年が、憎々しげに眉根を寄せて呟く副船長とマーレット先輩をどかすように押しのけた。大判のタオルを彼らに押し付けて、鬼気迫る様相で「まずはあっためる!」と急かすのはレストリックだ。
「夏とはいえこのまま放置してたらますます憔悴しちゃいますよ! 誰か、お湯持ってきてください!!」
「おお、そうだな。なら俺の部屋を貸そう。運んでいいか?」
「お願いします」
副船長の部屋なら個室だし、ちょうどいいだろう。船の下層で中央に近いから揺れも少ないし、隣には医務室がある。まさにうってつけだ。
背中と膝裏に手を回したから、まさかお姫様だっこという高等技術を使うのかと思ったら、よいしょと俵担ぎにしたからマーレット先輩に背中を叩かれていた。
甲板から離れていく三人の背を見送るが、騒がしい会話は止まずに聞こえてくる。
「駄目なのか?」
「腹を圧迫してどうすんだ」
「頭を下にしても駄目です」
結局、赤子を抱くように縦抱きにされているのが、最後に見た彼女だった。
事件の種がいなくなって、興奮冷めやらない様子でいた海兵達も少し落ち着きを取り戻した。顔を見合わせ、どういう顔をしていいかわからないといった様相だ。
蒼髪の少女が現れたのだ。これで瞳の色までそうだったのなら疑いようもない。もしかしたら彼女は人間ではなく、本物の女神なのかもしれない。ともかく、長らく待ちわびて、むしろもう諦めていた存在が目の前に現れたのだ。
「し、仕事に戻ろう」
「ああ⋯そうだな」
「進路を見直さなきゃな」
浮き足立ったまま、バラバラに散っていく。船が正しい進路に戻るのを確認して、俺は見張り番を交替した。
まるで死体みたいにぐったりとしている少女の体温は著しく低い。薄手のワンピースしか着ておらず、真っ白なそれは死装束のようでもあったが、彼女は確かに息をしていた。
副船長によってベットに寝かせられ、甲斐甲斐しくタオルで髪を乾かしたり暖かいタオルで体を拭ったりしてみたけど、濡れた服を着ていたら意味が無い。
自分で着替えてくれたら助かるんだけど、今の少女にそれを望むのは酷だ。顔を見合わせた俺たちは、それぞれ生贄を探したがもう既に決まっていたも同然だった。
「レストリック、お前が行け」
「なんで俺なんですか」
マーレット先輩に顎をしゃくって命じられて、副船長に懇願の目を向けたが首を横に振って返されただけだった。
「この中じゃお前が適任だろ。大丈夫、お前なら目ぇ瞑ってでもできるって」
「無責任なこと言わないでくださいよ⋯」
「任せた」
さっさと部屋を出ていく2人の背中をやるせない気持ちで見送って、名前も知らない少女と二人きりになる。
ため息をつきながら、タンスから副船長の大きめの上着を拝借した。小柄な彼女なら、この服をワンピースみたいに着こなしてくれるだろう。
「⋯⋯目隠しでもしておくか」
死にそうな少女をどうこうする気は欠けらも無いが、自分の身も守るためにはそれが一番な気がした。
俺だって18なんだけどなぁ。むしろ親くらい年の離れた人の方がいいんじゃないか? だったらマーレット先輩が適任だけど、あの人は気遣いの欠片もあげなさそうだからきっと向いていない。
タオルを頭の後ろで結ぼうとしていると、背後から小さくうめき声が聞こえた。はっと顔を向けると、少女の瞼が開いて、ぼうっと天井を見上げていた。
ゆっくりと顔が傾き、俺を視界に捉える。その色は、吸い込まれるほど美しい、焦がれて止まない深海の青。
「あ、あ⋯」
魔物に見つめられたように体が動かない。呆けた顔で固まっていたら、扉をノックして急かすマーレット先輩の声で意識を取り戻した。
外開きの扉を勢いよく開けて彼らを中へ呼び込む。
「起きました!」
危うく扉にぶつかりそうだった先輩が文句を言いかけた口を閉じて、ゆっくりと中に入ってくる。副船長はいつになく真面目な面持ちで堂々としていた。
上半身を起こした少女が、あ然としてこちらを見ている。息を呑む音が横から聞こえてきた。
それもそうだ。海を漂っていた少女は蒼髪碧眼。正に深海の女神の化身と言っても過言ではないほど神秘的だった。
質問攻めにしたいのをぐっと堪え、先程拝借した服を差し出す。
「まずは着替えようか」
「⋯は、はい」
戸惑いつつ受け取ったのを確認して、まだ意識がはっきりとしない2人の背中を押して部屋を出る。とにかく一度、形勢を立て直す必要がある。




