零れるもの
それは涙か優しさか。
「ユア、ユア、大丈夫だ。泣かないでいい」
ぼろぼろと零れる涙を無駄だと分かっていながら隠すように拭って、声もなく泣いた。
本当は、もう嫌だって叫び出しそうだった。どうして私が責められなきゃいけないんだって怒って、暴れ回りたかった。だけど、冷静になろうとする自分が止めるから、無意識な拒絶が口をついて出ないように、固く引き結んだ。
これは私が決めたことで、今更嫌だからやめるなんてわがままを言ったところで、みんなをがっかりさせて迷惑をかけてしまうだけだ。
私はなりきらなければならないんだ。ティノエが示すような完璧な女神に、ならなければならないんだから。
甘えは罪だと知っている。できると言っておきながらできないと、また駄目な子だって言われて、お母さんをがっかりさせてしまう。私の存在が忘れられてしまう。凪に居場所をとられてしまう。そうしたらきっとまた、私は凪を嫌いなるんだ。
そうやって、責任転嫁する自分が一番嫌いだったのに。
「顔を見せて」
何度もそう促すナギの声に反応できない。
低くなって大人びた凪の声だ。どんな酷い台詞よりも彼の声は脳髄に届くくせに、体が重くて、従う気にもなれない。こんなに何もかも億劫なのは久しぶりだ。
自分の鼻をすする音しか聞こえなくなる。何の反応もない私に呆れて、ナギは出て行ってしまったんだと思った。けれど、すぐ近くで彼がため息を吐くのが聞こえて、がっかりさせて嫌われてしまったんだって考えるとまた涙が溢れて零れた。
すると、顔を隠していた手をがしっと掴まれ下ろされる。顕になった顔を両側から大きな手に挟まれ、上を向かされて、空色の瞳と目が合った。
「お前は何も悪くない」
欲しかったのはきっとその言葉。だけどそれは私を駄目にする言葉でもあるから、聞きたくなくて耳を塞いだ。
視界は滲むのに、もう逸らせない。向き合い続けるしかない。だってそれは光だ。かけられたのは慰めだ。弱々しい少女に同情して、少しでも心を軽くさせてあげようとしているんだ。でも、ナギは絶対に嘘を吐かない。
「ユア、本当だ。だから」
耳を塞いだのに、聞こえるから涙が止まらない。なんで溢れるほど涙が出てくるのかもわからないけど、たぶん思い出すからだ。
分かり難いけど、彼は困った顔をしている。凪によく似ていた表情だ。ああほら、やっぱりこんなとき思い出すのは凪なんだ。
ナギが凪に近づくたび、気づいてしまう。あいつは何にも悪くなかった。むしろ、気が付くと独りだった私の手を握るようなやつだったのに。
わかっていたけれど、認めたくなくて目を逸らしていた。
「疲れただろ。もう眠れ」
ナギの手が額に添えられ、それが瞼も連れて徐々に降りてくる。そのあたたかさが熱を持った目元に馴染んで、泣いて疲れ切っていた体から力が抜けていく。
まどろみの中聞こえたのは、扉の向こうで言い争うナギとティノエの声だった。
◆◇◆◇◆
「申し訳ございませんでした、ユア様」
翌日の朝、ティノエはいつも欠かさない挨拶も忘れて開口一番でそう言って頭を下げた。長々と続いたお詫びの言葉は割愛するが、深々と折った腰と嗚咽をこらえるような声を聞いたら、それが誠心誠意の謝罪だってわかるから、私は彼を許した。そして私も謝って、この話はもう終わりにしたのだ。
でも、やっぱり窓から顔を出して兵士たちと会話するのは禁止されて、塔の窓には格子が嵌められた。
そしてナギとの会話すら制限されるようになった。そうなると食欲も落ちるばかりで、残念なことにせっかく苦労してつけた筋肉・脂肪は瞬く間に無に帰した。今の私の体型は実家にいたときにとても近い。四肢の弱弱さとかごつごつ骨が当たるのとか。
加えて大した移動もしないから、体力も落ちる。早朝のお祈りの湖に向かうまでだけでもと思って歩くが、結局疲れ切って帰りはナギに抱っこされてしまう。
これでは本当に籠の鳥だ。なんて考えながら、格子の隙間から空を見上げる。最近の空模様は崩れ気味で、雨や曇ばかりが続いている。それがまるで私の心模様を表現しているようにも見え、昼のはずなのに自然光では足りないほど辺りは暗い。
そんな風に一週間が経ち、驚くほどつまらない日々は変わらない。しかし、それからさらに5日が過ぎた日のこと、突然ティノエが都島に戻らなければならないと言い出したのだ。
「神官長様直々のお呼び出しなので、急いで向かわなければなりません。ユア様を置いて行くのは心配ですが、今夜には旅立ちます。1日では戻るつもりですので、私がいない間も日々の務めを怠らないようにしてくださいね」
ということで、今朝からの私は軽く浮かれている。相変わらず自由はないが、見張られているという精神的負担が減っただけでも大きなことだ。
だって、あの件からティノエの笑顔に凄みが増したからね! 見られてるだけなのに刺さってるみたいだったし。
朝もすっきりと目覚めて、マーニャさんにおはようと爽やかに言えた。いつもは憂鬱なままのあいさつだったから、久々の爽快感だった。
「ユア様、馬車が着きましたよ」
「はい!」
女神の仕事の中で唯一楽しい湖での水遊び(おいのり)へ行くための馬車は女神の乙女専用の馬車で、最新物だ。紺碧と白に彩られた馬車は海軍にもない、私用のものらしい。
寝室を出るとナギが外で待ち構えていて、見慣れた無表情におはようと挨拶すると同じ言葉が返ってきた。
ああ、どうしてだか連日曇っていた空も今日は太陽の光がさんさんと降り注いで清々しい。塔から出て深呼吸して早朝の涼やかな空気を肺に取り込むと、自然と笑みが零れた。
「ナギ、私今日は最後まで歩ける気がする!」
「そうか」
俺もそう思う、なんて目を細めて同意するから、より気分が乗ってやる気も増してくる。これだから、普段笑わない人の微笑みの力は強い。
馬車に乗り込んでいつもの湖に向かった。
湖でのお祈りが終わって、塔に帰るために馬車に乗ろうとしたときのことだ。突然、ナギが見覚えのない若い兵士に呼び止められた。
焦った様子で、報告があります、と敬礼した彼の話が気になって、踏み台を降りようとした私の背中を押して中に押し込めると、待っていろ、と言い残して馬車の扉を閉められる。
内緒話なんだろうけど、気になるは気になるので無意味に壁に耳を押し当てたりしてそわそわしながら待った。
ナギは中将なんていう偉い立場のくせに、私に張り付いて護衛するというしょぼい任務をこなしているのが不思議だ。普通なら、ベラクローフさんみたいにたくさん部下を連れて働き回るだろうに、こんな毒にも薬にもならないことで時間を潰していいんだろうかと思う。
この心配が、自分から離れて欲しいとか、他の人がいいとかではないってことは言っておく。ただ怖いのは、今のこの状況の中、ナギがいなくなってしまったら私はどうなってしまうんだろうということだ。
5分くらいして、ナギが一人で戻って馬車に乗り込んできた。すかさず何があったのか訊ねると、彼はいきなり驚きの提案をした。
「今日は息抜きに、街へ行こう」
「………街?」
「ああ。嫌か?」
そんなはずはないだろう? とでも言いたげに首を傾げる。どうしてそこで反語でそんなに自信満々なんだ、と普段の私ならツッコミを入れていただろうが、驚き過ぎてそんなことすらできない。
「い、嫌じゃないけど! そんなわけないけど…でも、そんなのティノエが」
「あいつには秘密にする。どうせ今日はやつはいないんだ」
そりゃ、息抜きはしたいに決まっている。最近身に降りかかるストレスが半端じゃないんだ。ティノエが居ない今がチャンスで、今しかないってこともわかってる。
「でも…」
でも、それはきっと、女神の化身にはふさわしくないことだ。わかっているのにはっきりと拒否できないのは、実際のところ私もそれをしたいと心の底が望んでいるからだろう。
弱さは捨てなければならない。自分に厳しくしてこそ、人は人の上に立つことができるんだとティノエは私に教えた。わがままは甘えの象徴だ。だから私はわがままも望みも言ってはいけない。それが弱点にも繋がるのだから。
瞼を閉じると、真っ先に浮かんだのはティノエの怒った顔だ。
「ユア」
だんだんとうつむいていく私の顔を、真剣な表情で覗き込んだナギの空色の瞳の中に映り込んだ自分と目が合う。なんて、浅ましくも希望を捨てきれない目をしているんだろう。いくら誤魔化しても消えないものがそこにはあった。
捨てきれないものを抱えて生きるのは辛い。どうにかそうあれるようにと積み重ねてみるけれど、土台と重なり合わないから簡単に崩れて行ってしまう。矛盾ばかりの自分を嘲笑するのは何度目だろうか。
「これは俺のわがままだ。最近は仕事ばかりで日用品の買い出しもできていないんだ。俺の護衛対象のお前が一緒に来てくれれば、俺としては一石二鳥でありがたい」
それはナギのわがままでも都合の良い理由でもなくて、ただの判り辛く繕ったやさしさだってちゃんと気付いていたけれど、その慣れない嘘と言い訳が嬉しかったから、何も言わずにわかったと頷いた。
今ここで行ったって行かなくたって、どうせ後悔はするんだ。ならせめて今だけでも、と思ってしまった私はきっと、女神の化身にふさわしいわけもない。




