心が死んでいく
てっきり怒鳴って怒られでもするかと思ったら、戻って来たティノエは上機嫌で、心からの笑顔が逆に不気味だった。
「頑張りましょうね、ユア様!」
「う、うん。がんばる…」
やる気に満ち溢れてきらきらなティノエに怯む。ちらりとナギを見たら、そっちも不思議そうにティノエをしげしげと眺めていた。
よくわからないけど、彼がこんな風なのはきっとロネソンって人のお陰だろうから感謝しておこう。おそらく私の方は彼に嫌われているだろうけれど。
時刻はもうお昼頃で、勉強は午後から始めることにしてティノエは部屋を出て行く。スキップでもし出しそうなほどるんるん気分だった彼に水を差したのは、扉を開けた瞬間になぜか居て鉢合わせたベラクローフさんだった。
「お、ティノエ。まだいたか」
「マゼレルダ様……」
ベラクローフさんが、からっと笑うのとは対照的に、ティノエの笑顔はぐにゃっと歪む。
「なぜここに貴方がいらっしゃるのですか」
「ひどいなぁ。少し時間が空いたからユアと食事でもしようかと思って」
「よしてください。女神の乙女は人に食事姿を晒すものではありません!」
「だけど俺は何回も一緒に食べてるし」
「関係ないって何度言えばいいんですか!」
ああ、察した。ティノエもベラクローフさんの自由さに振り回されている人間なんだ。ああいうときの彼の相手をしているときに、自分って常識的な人間なんだなぁって思い知るのだ。
でも、そっか。窓から偶に見かけるだけだったけど、ベラクローフさんは一緒に居ようとしてくれていたんだ。それだけで嬉しくなって、自然と頬が緩む。
「いいじゃないか。お前が人間なようにユアも人間なんだ。女神の化身であっても人間は人間だ。人間なんだから一緒にご飯を食べるくらいいいだろう?」
「また訳の分からないことを…。いいですか、私は今日改めて思い知りました。海軍はユア様を女神の乙女と敬う割に、馴れ馴れし過ぎるのです。立場の違いをしっかり考えてください!」
「わかっているさ。俺がユアをそうさせたんだ」
「それならば自重してください。もう言わせないでくださいね」
すれ違いざま、ふん、と生意気に鼻を鳴らして部屋を出ていった。ベラクローフさんは苦笑して、ナギが頭を下げるのに、やめてくれ、とたしなめた。
常ならば見ないティノエの対応に、どれだけベラクローフさんは彼に迷惑をかけたんだろうと気になった。ベラクローフさんもベラクローフさんで、頑なに譲らない態度が意外だった。引き下がるときはあっさり引き下がるけど、強引に自分の要望を通そうとすることもないのに。
「さて、今日は勝てたな」
「いつもは負けてるの?」
「毎日ああしてるぞ。今回の勝因はあいつが約束している時間ギリギリにこの塔に来たことだな」
どおりで、ティノエがああして苦々しい顔をしていた訳だ。あの主にベラクローフさんのせいで終わりのない論争が毎日だと考えると、彼の苦労が偲ばれる。私には嬉しいことだけど。
「じゃあ、今日はご飯一緒に食べてくれるの?」
「ああ、こいつもな!」
ベラクローフさんが扉の脇に控えていたナギの肩に腕を回して引っ張り込む。驚いて目を見開くナギは見物だった。そして私は大きく頷いたのだった。
◆◇◆◇◆
「マゼレルダ中将」
にこにこして上機嫌なユアに見送られ、部屋を出て階段を降りようと足をかけたところで呼び止める声がして振り向く。律儀な男はお手本みたいに綺麗に腰を折り、礼を口にした。
「気にするな。もともと俺がしたかったことだ」
「そうでしょうが、私も頼んだ手前礼くらいは言わせてください」
「わかったわかった。顔を上げろって」
礼儀正しくされると居心地が悪くなるのは生まれつきだ。するのもされるのも同じで、敬語には慣れたがその他にはまだ耐性がつかない。
その生真面目な男が、神殿の使者の目を盗んでユアに会ってやってくれと頼んで来た時には驚いた。自らユアの護衛に名乗り出た時といい、こいつは本当にユアに心を砕いているらしい。なぜかは知らない。知る必要も無いだろう。
「意外だが、お前は生粋の軍人ではないな。俺と同じだ」
「私はそれを恥じるべきでしょうか」
「いけないことだろうが、悪いことではない。自我があると言うことだからな。俺の部下はみんなそうだ。だが、陸軍では生き辛くなかったか? あそこは神殿にも劣らないくらい女神信仰の強い場所だろう」
ええ、まあ、と言葉を濁そうとするが、表情は明らかに肯定の意を示していた。それに笑うと、男は口を引き結んで不満げになった。
綺麗な顔に見慣れて、よくよく観察してみるとわかりやすい男だと気付いたのは、ユアが先だ。今、その通りだと知った。
「マゼレルダ中将、私は間違っていないと思います。あなたは?」
「ああ、俺もだ。俺もお前と同じだ。覚悟を決めろ。海の男は自由を求め戦うものだ」
「覚悟ならばとうに」
でなければ、望んでまで傍にいるわけもないか。
固く引き締まった精悍な男に頷いて、背を向ける。背中に礼をされた気がしたが、むずむずするから振り返ることなく立ち去った。
みんな、女神は信じなくてもあの子は信じる。力強さなどなくても、脆弱なあの子が持つ力は本物だと、知っているからだ。
◆◇◆◇◆
3日後。
あれからティノエの警戒は強くなっていて、ベラクローフさんはおろか、ナギとすら食事も一緒にできていない。部屋の隅にマーニャさんとティノエがいて、扉の側にナギもいるのだけど、しーんとして、これすらもまるで儀式なのかってくらい空気が重くて気分が沈んだ。
そのせいで食欲も激減して、マーニャさんにとても心配されるけど、どうしても食べられなくて何度もごめんねって謝った。
息苦しさはあの頃を思い出す。そうするとあの日も思い出す。苦しさの中でもがいて死んだあの日。
そんな日々の中での癒しは、朝と昼のティノエがいない時間にナギと話したり、窓の下の兵士たちとあいさつするときくらいだ。
今日も昼の休憩時間になるとティノエは塔を出て行って、それを窓から見送りつつ完全に見えなくなるのを確かめると、反対側の窓に駆け寄って外を見下ろす。
そこにはレストリックさんがいて、1週間ぶりなだけなのに懐かしく感じて歓声をあげた。
「ユア、元気だった?」
「元気だよ。そっちは?」
「副船長を筆頭に忙しいね。都島の港で頻繁に事件が起こるから、本部の兵士はあっちに行ったりこっちに行ったり大変だよ」
「都島の港って、深海神殿があるところだよね。何があるの」
真剣になった私を見て、彼が苦笑する。
「大したことないよ。本当にちょっとしたことだけど、場所も場所だし警戒しているだけだから。神殿にも困ったものだよね」
「大丈夫ならいいんだけど」
まるで家計に悩む主婦みたいに、頬に手を当ててため息をつくレストリックさんがおかしくて、少し笑う。
「そっちは問題は無い? 英雄と仲良くしてる?」
「何もないよ、大丈夫だって。ナギはいつも通りだからよくわからない」
すぐ側に本人がいるが気にしない。いつも私が促さなければ話もしない男に気を遣ってやるものか。
レストリックさんはまた苦笑して、別れを告げながら手を振った。
「もう行くよ。おれもこれから都島に行かなきゃいけないんだ。またね!」
「うん、ばいばい。また今度」
手を振り返して、去っていく背中を見送る。この瞬間の寂しさは、日増しに大きくなっていくようだ。前までは、また明日も会えると思って安心出来ていたけど、最近ではそれに少しの確証も得られなくなっているからだ。
いつ、彼らが来なくなってしまうのかと考えると気が気でない。日に日にティノエの教育は熱を増していくし、それと同時に兵士たちが話す余裕もなくなるほどに忙しくなっている。
そこにありもしない作為を感じるほどに、今の私の精神状態は不安定極まりない。
「ユア、少し休んだ方がいい。運んでやるから上に行こう」
「え〜また抱っこー?」
「ああそうだ」
私があの運び方を嫌がっているとわかっているだろうに、ナギが抱っこするのをやめたり、運び方を変えようとする様子はない。
いつもならここで拒否の言葉を重ねて抗議するところだけど、なぜかとても疲れていた私はそれ以上は何も言わず、求めるように手を伸ばした。
「ユア様、先程の男は誰ですか」
突然かけられた声に驚いて、伸ばした手を引っ込めようとしたら大きい手に捕らわれて叶わず、そのまま引っ張られてもともと目指していた場所に迎え入れられた。
一拍の間も置かずナギが立ち上がり、高低差に慣れないうちにティノエを通り過ぎて扉を開け放つ。
「聞こえていますか、ユア様! あの男は何なのです!? 私のいない間にあのような逢引まがいの行いを…!!」
「黙ってくれないか、神官殿。彼女は疲れているんだ」
「弁えるのは貴方の方です! 私はユア様に申し上げているのです。どきなさい、ナギ・ファルマータ中将!」
肩を怒らせ声を荒らげて激昴するティノエに構わず、ナギは部屋を出て私の寝室がある階上に向かおうとする。
後ろから糾弾しながら付いてくるティノエから守るように包み込まれ、耳を塞がれるが、足音すらも大きく反響するこの階段で、大声で怒鳴る彼の声が防ぎきれるはずもない。
「いつからですか。いつからあのようなことを、私の目を盗んで…! 裏切られた気分です、ユア様。誠心誠意お仕えしてきた私を馬鹿にしているのですか? 信じ難いことですが、これではまるで娼ふっ…」
「そこまでだ、神官殿」
寝室に踏み入ろうとしたティノエを制する。冷たい声は止まらない雨を遮る傘のようだった。
「ユアは疲れているんだ。それに時間まであと40分ある、神殿仕込みのお説教はそのときにしてくれ」
「貴方に邪魔をされるいわれは…」
「これはお前のためにも言うが、時間を置くべきでは? 自分が何を言おうとしたのかよく考えるべきだ」
その言葉にティノエは押し黙って、踏み出しかけた足を一歩引いた。ナギが扉を閉じるときにちらりと見えた彼の目は怒りに満ちて、初めて彼を心底怖いと思って肩が震えた。
しん…と静まり返った部屋の中で、座り心地のいいソファにそっと降ろされる。前にしゃがんで、目を合わせようとしてくるナギを避けて、立てた膝に顔を隠した。
衣擦れの音も聞こえないその部屋に、嗚咽が響いたのはしばらくしてからだ。




