女神様のお仕事
翌日の早朝、マーニャさんに起こされ、来客用の部屋に降りると、そこにはナギとティノエがいて、これから湖にお祈りに行くんだよ、と教えられた。
そういえばそんなことも言ってたな、なんて他人事みたいに寝惚けた頭で思い出していたから、あまりにも移動が覚束無いのでナギに抱えられてしまっていた。それが楽ちん過ぎて癖になりそうなのが心配だ。
10分ほど馬車に乗って連れて行かれたのは、軍の敷地から外れた所にある小さい湖で、それは長い蛇行した川を下っていけば海に着くらしい。道中ですっかり目覚めた私は、昨日宿題として渡された絵本の解説を受けた。また眠くなったのはティノエの語り口が眠りを誘うものだったからだ。
お祈りは簡単だった。私にとってただの水遊びだったけど、神殿からしたら大事なお役目のひとつらしい。これは楽しいから毎日やりたいくらいだ。
「寒くなかったですか?」
「ううん、全然!」
「それは良かった」
ティノエの顔がほっと綻ぶ。今の季節は日本で言うところの春に近いから、まだうっすらと肌寒さが残っている。でも太陽が出ているから、心配するほど寒くない。濡れたのはワンピースの裾と、そこから出ている足と手だけだし。
早朝の役目を終えて塔に帰ると、マーニャさんが心配そうに待ち構えていた。初めてのお仕事だったから、失敗しないか気にしていたのだと思う。ここ三日で、マーニャさんの保護者感が増しているのだけど、優しいお母さんみたいで安心するから嬉しい。
朝ご飯はナギとマーニャさんに見守られながら1人で食べた。ティノエはいなかったけれど、ナギは私が起きる前にとっくに食事を済ませていたからだ。それはマーニャさんもで、彼女がご飯を食べたり飲み物を飲んだりしているのを私は一度も見たことがない。彼女は隙のないできる女なのだから仕方ないけれど、心を許されていない気がしてしょんぼりする。
一人で食事をとるようになってから、あまりご飯を食べようって気にならなくなったのだけど、昨日ナギとそれができたのが良かったのか、早起きが良かったのかわからないけど、今日の朝ご飯はお腹いっぱい食べられた。
いつも何か残しては心配そうにお皿を片付けていたマーニャさんが、今日はにっこり笑って「おいしかったですか?」と声をかけてくれるから、私も同じ顔をして頷いた。
ご飯が終われば、マーニャさんは私と離れて働くから、ここで一旦別れることになるのだが、
「ファルマータ様、ユア様をよろしくお願いします」
「わかった」
この、子どもを保育園に預ける時みたいな会話はなんだろう。ナギがきりっと引き締まった顔をして頷くのもどうかと思うけど、それ以上にマーニャさんの45度に折れた綺麗なお辞儀も謎である。もっと軽くでいいのに。
真ん中の部屋に行くために階段を登りながら、無言も何なので先を行くナギに話しかける。
「ナギはマーニャさんと仲良くないの?」
「仕事仲間だと思っている」
「ティノエとは?」
「あれと仲が良いように見えるのか?」
「全然見えない」
愚問だったようだ。
私だって、むやみやたらに誰かと誰かを仲良くさせたい訳じゃない。しかし、身近な人同士が仲が悪かったりすると私にかかる心労も増えるから、できる限り気を遣わない仲になって欲しいのだ。
「じゃあ、ベラクローフさんとは?」
「…尊敬している」
「えぇ!?」
どうして驚く? と言いたげな目をしているが、ナギの口からベラクローフさんを尊敬しているっていう台詞が出てきたことに驚くのは仕方ないと思う。
真面目なナギなら適当で気ままなベラクローフさんなんか舐めてかかって、むしろバカにしているだろうとばかり思っていたから、余計に。
「ど、どのあたりを?」
「まず、単純に強い。一昨年の演習では、兵が束になってかかっても勝てなかった。あの人の技術は独特だから、真似しようと思ってもできない。それに人望も厚い。あの人は、俺には真似出来ないことばかりできるんだ。尊敬している」
「へ、へぇ…」
こいつ、ベラクローフさんの回し者だったのか。こんなに褒められたところで、船の上でぐーたらしていた私の中の彼は消えないので、残念ながらできる男なベラクローフさんが想像出来ない。
素直に人を褒めるナギというのも、珍しいものを見た気分にさせられる。凪はあんまりそういうことをしなかったからだ。おだてたりしているのは見たことあるけれど、こんなに純粋に言葉にしたことはなかったはずだ。まぁ、周りに彼の上を行く人間がいなかったのだから仕方ないのだろう。
馬鹿にして下に見ていたわけじゃないけれど、凪の視界に入る世界に上がいなかったのだ。だから彼は向上心も持てず、やるべきことだけを完璧にやっていただけ。そう考えると、あいつもかわいそうなやつだったのかなぁ、なんて思う。
身にならない会話をしながら、部屋でティノエを待っていると、彼は後ろに見慣れない人物を連れて戻って来た。
その人は、どことなく笑顔が引きつっているティノエより、頭一つ分大きい青年だった。ティノエの制服によく似た薄い黄色の制服姿で、その髪色は翠がかった金髪。黄緑というよりは、金髪が光を反射して緑に見える、という不思議な色合いだ。
ナギの纏う雰囲気が固く尖り、手が腰にはいた剣の柄にかかる。
「ユア様、こちらは陽光神殿の神官殿です」
「ロネソンと申します、深海の乙女。お見知り置きを」
お客さんが来るとか聞いてないんですけどー!
女神教の一角で、最も権力と影響力を持つという陽光神殿の神官様が私に何の用なのだろう。
値踏みするように上から下まであくまで自然にだが眺められ、最後にしっかり緑色の瞳に見つめられる。
「…ふむ、なるほど」
何が『なるほど』なの!? こう、明らかに下に見られると私だって怒りが湧くわ!
せめてティノエくらいに笑顔を浮かべてくれていたら多少は緩和されただろうに、一片の緩やかさもない真顔だ。この国に来てから受けたことのない蔑みを感じるから、驚きもあった。
「深海の乙女。貴女は自分を何者だと心得る?」
質問が抽象的で意味がわからない。何者…何者か、なんて、私は女神ではないし、たいそうな人物でもない。この人がどんな答えを求めているのか皆目見当も着かないが、とりあえず出た結論は「私は人間です」だった。
「…なるほど」
「ロネソン、これは、」
「では、私はこれで失礼します。ユア・デラクール」
「待って、ロネソン!」
きちっとした一礼だけ残して、部屋を出ていく彼をティノエが追いかける。階段を降りていく足音が聞こえなくなると、この部屋の中は沈黙に包まれた。
恐る恐る扉の側に立っていたナギを見ると、彼はいつもの無表情を崩さず私を見返した。剣の柄にかかっていた手は後ろに回され、直立不動の姿勢が、今はやけに冷たく感じてしまうのは、私の心理状態が穏やかではないからだ。
「わ、たし、何か間違えた?」
返事はなかった。
◆◇◆◇◆
「待ってってば! ロネソン!!」
塔から出る直前、分厚い扉の前でやっと追いついたロネソンの腕を掴む。ゆっくりと振り返った彼の緑色の瞳は、鋭く冷たい。ひやりと悪寒が背筋を撫でた。けれど怯むわけにはいかない。自分の背中にかかっているものは、こんな視線に怯えて投げ出していいものではないからだ。
「ユア様は、努力している。わかるだろう? あの方は隣国の出にも関わらず、この国のために努力なさってくださる」
「わかっているさ。だが、あまりにもらしくない。『人間です』だって? そんなこと、見ればわかる。彼女は女神ではない。しかし、これまで女神の化身として君臨してきたお方全てに同じ質問をしたが、あんな間抜けで自覚のない答えは聞いたことがない。あれが女神とは。舐められたものだ」
「深海神殿の求める女神の乙女に必要なのは自覚ではなく、象徴たる確かな理由だ! 陽光神殿には私達の苦労が解るはずもないが、私達はあの蒼髪以上のものをあの方に求めてはいない!」
それは、ユア様には決して聞かれたくはない本音だった。
ーー女神の乙女は、総じて気位も身分も高く、楚々としてたおやかで、軽々しく人に笑顔を見せたりしないものだ。彼女たちその気質を生まれ持ち、そうあれるように努力していた。
けれど、ユア様にはそれは無理だ。彼女は生まれ持って天真爛漫なのだ。乙女に必要な才は何一つも持たず、己を偽ることには向かない。だから、彼女を女神の乙女たれ、と求めるのはできない。だがしかし、同時に彼女以上に深海の乙女として相応しい者はいない。
「ティノエ、お前には役割があるな」
落ち着いた声で、聖典を読み上げるように説かれる。導かれるように俯いていた顔を上げると、静かに輝く緑が瞬いていた。
「あの方が立派な女神の化身になれるかは、お前の力に懸かっている。お前もわかっているだろう。あのままでは、いつか必ず深海神殿の苦労は水の泡になる。その前にあの方をちゃんとした道に導いて差し上げるんだ。お前の力で」
「貴方は、私にユア様を操れと言うのか?」
「ああそうだ」
否定して欲しくて、皮肉げに発した言葉に返ってきたのは肯定だった。
「私は、あの方に自分を偽って欲しくなど…」
「偽るのではない。そうあるように軌道修正して差し上げるのだ」
「……それは、いいことだろうか」
「良い事に決まっている。あの方は蒼髪以上の自分の価値を持つことが出来、民たちはそんな乙女をますます崇め、深海神殿の力も高まる。良い事だらけだ」
なるほど。そう言われればそういう気がしてきた。ユア様は良くも悪くも素直だ。私がこうと求めれば、最初は戸惑いながら受け入れ、努力してくれるだろう。そうだ、私が求めれば。
「まずは、この砦の中から意識改革が必要だな。深海の乙女が手の届かない高貴な存在だと印象づけなければ。この塔に案内されるときに兵士に話を聞いたが、乙女を『可愛らしい。頭を撫でて抱き上げたくなる』などと…。とんでもない。乙女は庇護されるのではなく、民を庇護するものだ」
「私も、常々ここの兵士たちの考えはおかしいと感じてたんだ」
ロネソンが肯定するように頷くのが嬉しい。私は彼に拾ってもらった身だ。受け入れてもらえることに喜びを感じるのは当たり前だ。ユア様だってそうに違いない。
やはりロネソンと話すと考えがまとまる。ユア様と出会ってから、自分がこれからどうすべきなのか全くわからなくなっていたから。
「じゃあな、ティノエ。私は先に帰るよ」
「深海の乙女とした相応しくなったユア様を連れて、私もすぐに都島へ帰るよ」
満足げに口角を上げたロネソンの横顔が記憶の奥をくすぐって、懐かしい気分にさせる。重い扉を片手で開けて出て行く彼の背中を見送って、決意も新たに翻って階段を登った。




