きっと私は変われない
海軍の一週間に一度の集会は、興奮のまま終わった。理由は3000年の間待ちわびた女神の化身が現れたからである。
海兵たちのざわざわと散って行く光景が随分遠い。衝撃で固まったままの私を正気に戻したのは、横にいた総統様に肩を叩かれ「儂の部屋においで」と声をかけられてからだ。知らなかった。信用ならない人間は、どこまで行っても信用ならない人間のままであるべきなんだ。
階段を降りて行く背中を睨み、やるせない気持ちになる。あの広い背中をぶん殴って立派な髭をざんばらにしてやりたい。叫び出したい衝動を堪え、膝を抱えて蹲る。怒りに震える背中を撫でたのは、私のお世話係となっているナギだった。
「ユア?」
「…泣いてるんじゃないよ」
まるで凪みたいに、心底心配そうに顔を覗かれるものだから苦笑する。すると彼は目元を緩ませて腕を広げてその中に私を囲おうとするから手を突っぱねて拒否した。
「自分で歩けるから」
「そうか」
あっさり身を引いたと見せかけて、手を差し出すのはお約束だ。この国の男はみんな紳士で、よく転ぶ私は手を差し伸べてもらうことも多い。
手を借りてよろよろと立ち上がると、下にはベラクローフさんが待っていた。「大丈夫か?」なんて声をかけてくるから頷いたけど、そうだ、彼も共犯だ。いやだがしかし、ベクローフさんに対してつるっぱげになれとは思わない。
「悪かったな、ユア。騙すみたいなことして」
「騙した自覚はあるんだ」
ちくりと嫌味を言っても気にした様子はない。私の嫌味には針で刺されたような痛みもないようだ。こんちくしょう。
「抗議はみんなが揃ったところで聞くから、今は頭の中で考えておけ」
どうやら彼らも総統様に呼び出されているらしい。私が文句を言うこともお見通しなようで、余裕の表情で私の前を歩く。
すれ違う海兵たちからの視線が痛い。エリート二人に前後で挟まれているからだろうか、羨望の眼差しが突き刺さるのだ。私の嫌味なんかよりも彼らの視線の方が威力があるなんて、負けた気分。
「俺たちは何を言われる覚悟もできているから、遠慮なんかしなくていいぞ」
彼らに私はそんなに過激に見えるのだろうか。あんまり罵詈雑言のレパートリーはないんだけど、期待されているのなら応えたい気もする。ほんとに語彙力はないんだけど。
そして長い階段を登り着いてしまったのが、狸親父の待つこの部屋である。またしてもノックもせずに扉を開けようとしたベラクローフさんをナギが注意する。
「マゼレルダ中将、ノックを」
「この扉をノックするのは痛いんだよ」
「では代わりに自分が」
「わかったわかった」
すごい、ベラクローフさんが折れた! 嫌そうに扉を三回ノックすると、ドアノブに手をかけ押し開く。やはり一番に目に入るのは虎の剥製だった。今にも噛み付きそうな顔をしているからか、生きているように感じて怖いのだ。総統様はよくあれと四六時中一緒にいれるな。
「ベラクローフがノックするとは。そなたの教育は上手くいっておるな、ファルマータ」
「俺を何だと思ってるんです。それよりも、ユアを連れて来ましたよ」
「おお、待っておったよ」
にこやかな顔に騙されてはいけない。この人は平気で人を騙せる人間だ。公共の利益のためになら、人を殺せる人間。ああ、こんなにもわかっていたのになぁ。
逃げればよかったんだ。本能が警鐘を鳴らし、予感が背筋を凍らせたというのに、私はなんて馬鹿だったんだろう。今更後悔しても後の祭りだ。
テーブルを挟んで向かい合った長椅子の片方に総統様が座り、示されて私は向かい側に座った。二人は座らずに、壁際に立って見守る姿勢のようだ。わかっていたけど、助けてはくれないということだろう。こうなってしまっては、頼ろうという気にもならないけれど。
さて、と口を開いたのは向こうの方だった。
「勝手なことをしてすまなかったの、デラクール嬢。あれは取り急ぎ必要なことであった」
「取り急ぎ?」
「実はの、二日後女神教から使者が来る予定があってな。このままでは、そなたを取り上げられるところじゃった」
女神教…三人の女神を祀っているのが三大宗教だし、そりゃあ組織みたいなものがあってもおかしくないけど。私の存在は、いつそこに漏れたんだろう。そしてどうやら女神教とやらも、この蒼い髪が欲しいらしい。
悪いことは一切考えていないように見える笑顔を浮かべて、総統様は続けた。
「儂は何も無体なことをしようという訳ではない。どうかそれをわかってくれ。ただ、海軍と帝国のために、そなたに協力を頼んでいるのじゃ」
「だけど、それじゃあ私の望みは叶わないんです」
「では、そなたの望みとは?」
私の望みは……復讐だった。ナギに記憶がないとわかって、その意味を無くしてしまったけど。何の罪も自覚もない人に復讐するなんて、私にはできないから、それなら仕方ないって復讐は一旦脇に置いた。諦めるつもりはなかったけど、もう叶わないって分かっている。そうやって簡単に身が引けるということは所詮、その程度の望みだったんだ。
浅はかだなぁ。浅はか過ぎる。だから簡単に付け入れられるんだ。なんて甘ちゃんなんだろう。けど強くもなれない。弱いにも程があるよ、ユア・デラクール。
ナギのことを考えていたからか、無意識に彼の方を見ていたらしい。ふと目が合い、はっと気が付いて、視線を目下の敵に戻す。
総統様は至極真面目な顔をして、私を見据えていた。柔らかさは失っていないのに、鋭さも感じる。切っ先を丸くした子ども用のはさみみたいだ。例え下手?
私が何も言えないでいたからか、痺れを切らしたように口を開いた。その台詞に度肝を抜かれて反応が遅れる。
「聞こう。そなたは復讐を望むか?」
「……は?」
「そなたの生家、クルセル家へ何かしらの報復を望むか? と聞いておる」
そういえば、総統様は最初から望みを叶えるつもりはあると言っていた。その一番は私の実家への復讐の手伝いを挙げていた気がする。
なんだかそれはとても甘美な響きだった。今世の私を貶めた最大の要因に報復が叶うというのは、私のこの心を満たすかもしれない。凪への復讐という目的を失ってしまった私には、必要なことに思えてきた。
だけど、そんなことに意味はない。
「クルセル家はどうでもいいんです。彼らには、私のこれからに何の関わりも持って欲しくない」
断ると、総統様は眉をひそめて軽く首を傾げた。
「何故? てっきりそなたはそれを望むと思っておったが」
「許すことはできないけど、彼らに興味が湧かないんです。それよりおもしろいものがあるから。私は、私をそのまま受け入れてくれる人がいればいいんです。だから、女神様なんていう立場は邪魔なだけですから」
そうだ、わかった。
「私はきっと普通になることが望みなんだ」
凪なんていう普通じゃない幼馴染みも持たず、敵も作らず普通に生きて死にたかった。決して嫉妬した女に海に突き落とされて死んでしまうとか、そんな死に方ではなくて、寿命とかで。
ああ、なんだか希望が見えて来た! そうと決まったらまずは先立つものが必要になる。鍛えたり太ったり稼いだり…やることが多過ぎて計画倒れになりそうだけど、未来を思い描けるっていうのはなんて魅力的なんだろう。
思えば、私の視野はひどく狭かったんだな。お先見えない真っ暗闇だと思い込んでいたんだ。可能性はこんなにも満ち溢れてたのに! 今世にはめんどくさい幼馴染みも嫉妬に塗れた女もいない。私を閉じ込める両親は海の向こうだ。縛るものは何もないーーこの髪以外には。
「ダメだよ。ごめん、ユア。お前はもう普通には生きられない」
未来への希望に胸を踊らせていた私を無情にも現実に突き落としたのは、いつの間にか私の足元に膝を付けているベラクローフさんだった。
彼は膝に置いていた私の手を取り、自分の大きくて暖かい手の中に包み込んでしまう。その神へ祈るような、懺悔するような仕草に、私の胸は跳ねた。
「な、なんで? なんでベラクローフさんが謝るの? そんなこと言うの? そんなにダメなことだった?」
「ユアの存在は、もう国中に知られてる。秘密にできなかった。ごめんな、守れなくて」
いまいち要領を得ないベラクローフさんの言葉に、頭の中で疑問が飛び交っていたが、総統様が冷静に説明を引き継いだ。
「そなたが海賊に誘拐されたとき、ベラクローフは海軍へ蒼髮碧眼の娘が居ると報告した。先日、その情報がどこからか女神教へ漏れ、そのまま国中に知れ渡ってしもうた。儂らとて、この状況は想定外じゃ。もう少し様子を見て、そなたの了承を得てから国へ知らせるつもりじゃった。今やもう、国は深海の女神の降臨に沸いておる。今更何も無かったことにはできん。しかし、そなたを保護してすぐに報告に挙がらなかったのはそやつじゃ。緊急事態になるまで知らせないとは、海軍兵士の名が泣くわ」
なら、全てのきっかけは私じゃないか。私が誘拐されてしまったから、私の存在はバレてしまった。ベラクローフさんはちゃんと守ろうとしてくれていたのに。私が考えなしだったせいで、私は今こんな状況に陥っている。
「ベラクローフさん、何にも悪くないじゃん」
首を振って俯く彼に、いつもの余裕はない。金茶の髪の旋毛を押してやろうかと思ったけど、私の手はがっしりと彼に握られていて叶わない。
普通かー。普通ってこんなに難しいことだったんだなぁ。私が普通でいられたのは、あの船に乗っていた頃だけだったのかも。…もう戻れないけど。
固く引き結んでいた唇を緩め、大きく息を吸う。覚悟を決めた私は早い。電光石火。
「わかった。引き受ける。私は海軍の象徴、深海の女神」
「おぉ、まことか」
「だけど、条件がひとつ」
人差し指を立てて総統様を見据えると、一瞬安堵に緩んだ顔を引き締めて「聞こう」と先を促した。
普通を諦めた私が、この先に望むものはただひとつ!
「私を海で殺さないで」
あの深く暗い絶望に満ちた海の底に、置いていかないで。




