四十五
田舎のほうとはいえ十年の歳月は町並みを変えるものだと玄一は顎を撫でながら思う。
師匠となった職人はぶっきらぼうながらも徹底的に玄一を仕込み、両親は他所でやっていた藍も玄一は家で藍甕を持つ気でいる。
やることはたくさんある。
頭の中で整理しながら電車を降りて改札をくぐると、同時に重たいものに飛びつかれた。
「おっかえりいいいいいい!!」
昔のまま、十年前と一時帰省のたびに変わらぬ彼方の歓待と、それを笑う宗司に駿。玄一は怒声を上げようとしてここが公共の場だと思い出し、痛い拳骨を彼方にひとつくれてやる。
「いだああっ」
「危ないから飛びつくなと何度いや学習するんだっ」
「だって玄ちゃんに会うの久々だし!!」
理由になってない、とはいえない玄一に益々宗司と駿が笑うので、玄一は笑い声を振り切るように歩き出す。
「あー、待ってよ!」
「早く来い」
「あーい!」
まるで十年の別離などなかったかのように昔のままのやりとりに、宗司と駿は人知れず安堵の吐息を落とし、いまや立派な刺繍家と草木染職人となったふたりを追いかける。
「はい、依頼」
諸々の片付けや挨拶を済ませた夜遅く、今日はもう寝るかという体制に入っていた玄一に彼方は巻物を差し出した。
巻物である。比喩ではない。ご丁寧に麻紐で括られている。
「……なんだこれ」
「俺、個展の話きてんの」
「はあっ?」
夜には相応しくない声を出した玄一は「聞いてねえぞ」と彼方に詰め寄るが、彼方は「二年後くらいの話だもん」とけろりとしたものだ。
「その間、一年以内にそれ全部お願い」
真剣なものに変わった彼方の声音に玄一は巻物を解けば、そこには日本の古典色全て並べたのではないかと思うほどの色名がずらりと並んでいた。
「おい、お前これいったいどうするつもりだ」
「個展のメインに丸帯やるんだよ」
それだけで玄一は全てを察した。十年経とうと彼方のやらかすことは変わらない。
総刺繍の丸帯などと狂気の沙汰を一年でやり遂げるつもりなのだ。
専門学校に通い、同時に榎津へ師事し、すでに個人の名が広まりつつある彼方はこの個展で一気に名を売るつもりなのだ。玄一とともに。
「聞いた方が早い。何色だ」
「約千」
千色染め上げることのできる職人ならば、榎津の秘蔵子とすら呼ばれる彼方の隣にたってなんら遜色ない。
玄一は大きなため息を吐いてからにっと笑う。
「了解だ。俺が十年ただぼんやりしていたと思うなよ」
彼方は満面の笑みで玄一に抱きついた。
ところで彼方の家が玄一が作業できるようにも改装されているのは「そういうこと」なのだろうか。玄一は今更過ぎる疑問を改めて問うのも馬鹿馬鹿しく、隣あった布団に彼方を転がして、枕元に巻物を戻すと自身も布団に入った。
十年、なにも変わらない関係がひどく心地よかったのは、玄一だけではないだろう。
彼方が個展のメインとする丸帯とは千色千双蝶の総刺繍である。一つとして同じ色のない、すべて手刺繍からなる丸帯は金糸銀糸も交えてそのまま婚礼衣装と使えるものになる。
どこから話を聞きつけたのか、彼方の作るものを聞いてやってきたのは以前とさほど外見に変わりない叶四季と、唖然とするほどの美貌の男、そして人形のような少女がひとり。
「思い入れのある作品になることは承知だ。それでもこいつの婚礼に出来上がった帯を譲ってくれ。金に糸目はつけない。今後の支援も当然する。だから頼む」
叶四季は頭を下げて彼方に希った。
あの叶四季が、と思ったが、だからこそ、とも思った。
四季が下げた頭を蹴り上げるなど到底できるわけがない。ずるい男だ、と思いながらも彼方は小気味よくさえ思っていた。
「いまは決められない。でも、きっと出来上がった帯はお嬢さん以上に似合うひとはいないよ」
箪笥の肥やしなど大嫌いだ、と彼方は呟く。
あるべき場所へ、あるべき始末を。着物とはそういうものでしょう。
彼方は榎津からの受け売りを嘯いて「さて、玄ちゃんの雷が落ちるぞ」と覚悟した。
ヤクザと縁を結ぶなど、玄一は決して許さないだろうが、彼方は思ったのだ。彼らなら、と。きっと始末までつけてくれる、と。
微笑む口元を隠すように、彼方は四季が手土産に持ってきた最中をさくり、と齧った。甘く香ばしい和菓子はいつかと違って美味い煎茶と飲むと大変美味しかった。
やるべきことが山済みなので、時間が経つのは早かった。
玄一は見事千色の糸を染め上げ、彼方はそれを蝶として刺し、金糸銀糸で陰縫いする。
圧倒的な美がそこにはあった。世界に二本とない帯だった。解説にずらりと並んだ伝統色の多さに驚き、一つひとつ探してまた驚き。
そしてもう一つ。
玄一と彼方は揃いの模様の着物を着ていた。ただし、ぱっと見ただけでは分からない。
袖先にだけ鉄線花の唐草が刺繍され、見事に花開かせている。それらは玄一と彼方が手を繋いで広げることで一枚の絵となった。なんと凝った仕事だろうか。仰天する人々に彼方はにんまり、玄一は苦笑いする。
これでもう、秋田玄一は名実ともに飯田橋彼方の相棒であると知れ渡るだろう。
事実、ふたりは「ひぐらし」という屋号で刺繍と染めの店を開いた。
徹も文江も秀次も、榎津も。
誰一人として反対の声を上げず、ただ祝福した。
文化とは自然に手を加えたもの。
伝承とは、文化を受け伝えるもの。
ふたりは間違いなくこれらをこなしたのだから。
しかし、やはり破天荒な趣味は相変わらず、ヤクザの時期組長というパトロンを得た彼方は菫という着せ甲斐のある少女がいることもあり、季節ごとに着物をせっせと玄一たちと誂えた。もちろん、ハンカチや巾着など細かい注文もうけて「ひぐらし」は大忙しだ。
善哉ぜんざい、ふたりは笑う。
「玄ちゃん、エプロンの刺繍だってー」
「ああ? またお前は勝手に注文受けやがって。あとで泣きっ面かくのはお前だぞ」
いいながら電話を変わって四季に怒鳴るのは慣れたもの。
「ひぐらし」は長く善い店として人々に愛されるだろう。
なによりも店主が楽しいたのしいと日々を謳歌して、これからもふたり手を繋ぎあって往くのだから。
これにて絲し心を染めては仕立てあがった。
染め上がった心はいかなるか、それは固く揃いあって絡む玄一と彼方の手がなによりもものをいうのでしょう――




