四十一
季節は巡る。
夏には海やプールへ赴き、寝転がりながらかじるアイスクリーム。
焦げた肌が落ち着く頃にはオープンキャンパスへと向かい、緊張する彼方を「大丈夫だ」と根拠はなくともありったけの信頼を込めて手を握ってやった。
ひらり、ひらり。かさ、かさ。落ち葉がまるで金色の粒のように光りながら降り注ぐ季節、そろそろ鍋ものが食卓に並ぶ。
すっかり打ち解けている彼方と両親にほっと安堵しながらも寂寥感を覚えるのは迫る十年の別離をいやでも感じるからだろうか。
彼方はひと刺ひと刺に想いを込めながら刺繍を描いている。
少しずつできあがっていくそれは当初予定していたものとはまるで違うが、状況が変わったのだ。ならば描く図も違う。
趣味で終わる筈だったものを引き上げた玄一に返せるものは、たったひとつしかない。
彼方は刺繍を続ける。
ひと刺しひと刺し、願いを込めて。
絹子が倒れたという知らせが届いたのは、しんしんと雪が降る寒い冬のことだった。
元々丈夫なほうではなかった絹子は出産のさいの惨劇もあり、年々弱弱しい体になっていき、先日とうとう廊下で倒れているのを家政婦が発見、緊急搬送された。
病名を聞いて彼方は自身の人生を振り返りながら、なんとドラマティックなのだろう、と笑いたくなる。
絹子は癌だった。
それも今まで元気溌剌とは到底言えずとも通常の暮らしをしていたのが不思議なほどに進行した。
倒れたことで絹子のなかで絹子を保っていたものも折れてしまったのか、彼女はすっかりと重病人の体で病室を虚ろな目で見上げている。
彼方はその様子を病室に入らず、僅かにあけたドアから見つめて同じく傍らに立つ父へと問いかける。
「どのくらい?」
「年を越せたらいいほうだって」
「ここは普通三ヶ月とか、さあ……」
どうしようもないことは世の中に溢れ返っている。
たとえば、病室から聞こえる掠れきって雑音にしかなっていないのに哀しいほどやさしい子守唄。
一気に痩せたせいでしわしわの手がなでるのは病巣収まるなだらかな腹。
あまりに苦痛伴う患者の場合、モルヒネの使用が許可されている。しかし、それには副作用があり、たとえば幻覚、記憶退行などがある。
「おな……まえ……うまれ……」
お名前を決めましょうね。
早く生まれてきてちょうだいな。
理不尽なことだらけの世の中を恨むように、彼方は「ひぅ」と声を上げてしゃがみこんだ。
自分は愛されていた。
こんなにも愛されて望まれていた。
なのに、なのになのに、どうしてこんな哀しいことが起こっているのだろう。
「わたし、の……いしてる」
わたしのかわいい坊や。
愛しているわ。
受け取るはずだった全てがいま空回りしている。
巡るはずだったものがすべてちぐはぐに掛け違えている。
「おかあ、さん」
ひとつ呼んで涙が溢れる。
ぼたりぼたりと床に水溜りをつくるほど、彼方の目からとめどない涙が流れてしまう。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん」
お母さんと呼んで、あなたを抱きしめて、抱きしめ返してもらいたかったのです。
願いも愛情も愛惜も全て込めた呼称はしかし、夢現をたゆたう絹子に届かない。
いつだって、彼方の声は絹子に届かないのだ。
「お母さん」
――なあに?
願ったのはたったそれだけのやりとりだというのに。
「ごめ、とうさん。俺帰る」
「ああ」
「ごめん、ごめんね」
逃げる自分をどうか許して欲しいと謝罪を一つ、彼方は看護師に叱られるのも構わず廊下を駆け出した。
そして頭に浮かんだものに、病院を出てすぐに携帯電話を取り出した。
「もしもし、大槻?」
「どうしたの」
「俺のお母さん死にかけなんだけどさ」
「……今度はなにやらかすつもり」
「どうしてもお願いがある」
詳しい話をするのも惜しいとばかりの彼方の様子に駿は諦めたように息を吐き「どんなお願い?」と訊ねた。
「死装束を仕立ててほしい」
ひゅう、と電話機の向こうで息を飲む気配がする。彼方はそれに今更外気の冷たさに気付き、タクシー乗り場へと歩き出す。
「正絹で流水に菊刺すから、着物をお願いしたい」
「飯田橋……」
「これが最後なんだ。俺があのひとと交わせるものは、これでほんとうに……」
「……間に合うの」
「間に合わせる」
「それ、僕もだよね」
ため息をもう一つ、駿は了承した。
「ありがとう、ありがとう大槻」
「いいよ、別に。辛いのは飯田橋でしょ」
彼方はすんと鼻を鳴らす。涙は一向に止まらない。
てきとうなタクシーに乗り、通話を切った携帯電話に額を押し付ける。
死出の準備の始まりだった。




