三十九
「きみには才能がある。これは断言できる。だからこそ、きみはその道へ進んだらそれ以外を選べなくなる。
いまの時代『手』そのものも足りないが、その『手』を持ったひとたちも解雇されている。あまりにも需要が乏しい。それにね、下世話だけど恐らくきみの仕事に見合うだけのものが出せるひとは早々いないよ。どんなに優れていても、価値があっても、得がたくても、飯が食えなきゃ生きていけない。死んだあとに名が売れたって、そんなものは、ね……だから飯田橋くん。やるのなら職にせず、趣味に留めなさい。まだ若い内ならば他にはたくさん道があるのだから」
久秀は自分の老いた手を見つめる。
「この手ができることは、あまりにも少ない。
時代を紡いでいく力など、とうにないよ……」
悔しい、くやしい。血を吐くような顔で久秀は手を握り締めた。
弱弱しい声ではないのが、逆に彼方の胸を打つ。
日本を代表する刺繍家。第一線に立つとはこういうことか。誰よりも具体的に、誰よりも早く「先」が見えてしまう。誰よりも生々しく痛感せざるを得ない。
「先」も「後」どちらも狭まっていく中で立ち続けるということは、生半可な覚悟ではできない。
彼方はきり、と噛み締めた唇を解く。
「やりたいんです」
まだ戻れると誘うを「後」を振り切るように、ひたすら彼方は前を見つめる。睨むように苛烈で、挑むように力強い目で久秀と対峙する。
「やりたいことをやるためにはやらねばならないことがあり、やらねばならないことをやるのに苦しむのは当然で、やりたいことをやるのに身を削ぐのは『必要』です。
やりたいんです。どうしてもどうしても俺はやりたい。腹が減ったら自分を齧る。それは俺のやりたいことの『身』になります。
榎津先生。俺はなりたい。刺繍家になりたい。なると約束もした。そのために苦しめって言われたら、俺はうんとうんと苦しみたい。
あのね、俺はばかってよく言われるんだ。でもばかってお得。俺はね、きっと苦しんで苦しんで苦しみ抜いても過ぎちゃえば『大したことなかったな』って言っちゃうよ。ばかだからどんなに大変なことでも向かってくよ。ばかだからそれを繰り返すし、好きだから、大好きだから後悔なんてしない。絶対にしない。したらぶん殴ってくれるひとがいるんだ。
榎津先生。俺は刺繍家になりたいです。どうしてもどうしてもなりたいんです。なるって決めているんです。
お願いします。お願いします。俺を弟子にしてください」
彼方は両手を畳の上に置き、頭を深く下げた。
僅かに青い匂いを鼻先に思い出すのは祖母との会話。
ドラマに影響されたか幼い彼方はなにかねだりごとをするとき土下座しようとしたときがある。祖母は驚くほどの剣幕で「ばかなことするんじゃない」と怒鳴った。
土下座というのは魂を削るものだ、簡単にするんじゃない。
どうしても、どうしてもというとき以外にしてはいけない。
彼方にとって、いまが「どうしても」なのだ。
祖母が持っていた着物の中でも、たくさんの作品集の中でも、展示会に連れられたときでも目を惹かれたのは久秀の作だった。
その久秀が自分の才能を認めてくれた。しかしその道を諦めろ。時代が沿わぬと退ける。
ならば最善を、最大限を振り絞るなら、いま久秀を前にして頭を下げるのは彼方にとってどうしても必要で、当然のことなのだ。
「……簡単に頭を下げてはいけない……彼女が教えていないわけがないね」
深いため息の気配に彼方は肩を震わせる。
「頭を上げなさい。熱意は分かった、だから頭を上げなさい」
強張る体をどうにかこうにか畳みから剥がし、凪いだ眼差しを向ける久秀と再び向かい合う。糸で結んだように絡んだ視線はしかし、ふっと目元をやわらげた久秀によってその緊張感を解いた。
「さっきと目が変わらないね」
「え……」
「土下座ってね、尊厳と直結してるって私は考えてます。脅すようだけどこの世界にいると借金抱えて二進も三進もいかないひとを見ます。そういう意味で頭を下げにきた知り合いもいます。
彼らはね、みんな頭を上げたとき目が……なんていうのかな一気に生気がなくなる、どろりと濁る。大事なものが欠けたみたいに。
でも、きみの目は変わらないね。
こうする前から、とっくにきみは私へ向けるものを用意していた…………」
嘆くような息を吐いて久秀は両手で顔を覆った。
「申し訳なかった。私は現実を知らぬ若者ときみを侮っていた。きみが分けて用意したものに気付いていればあんな真似をさせなかったものを……」
ああ厭だ。情けない。
咽び泣くような声で繰り返し、久秀は顔を覆ったまま天井を仰ぐと長い息とともに両手を下ろして吐ききると同時に困ったような笑顔で彼方を見遣る。
「飯田橋くんはなにがやりたいの、ただやりたいわけじゃないんだろう」
久秀の問いに、彼方はぱっと顔を輝かせた。
まるで玄一に思いついた図案を話すときのように、思いつきを話すように、表情はくるくる変わり、声はぽんぽん弾む。
あれがしたい、これがしたい、こうしたら、ああなったら――
ねえ、こんなに素敵なものがあるんです。
その姿はこどもがとっておきの宝物を自慢するのにようく似ていた。
彼方が頬っぺた赤くして少し息を切らせるまで遮らず頷いて聞き続けた久秀は、眩しそうに目を細める。
興奮し過ぎたと彼方がはっとすれば、久秀は気分を害してなどいない、とゆるく首を振る。
「うん、分かりました。でも、ひと様の人生の一端を担うのは簡単に決められることじゃない」
ほっとしたのもつかの間、彼方の顔が強張る。だが、俯きそうになるのを必死に堪える彼方に久秀は続けた。
「歳をとると頭が頑固でね……一週間考えます」
「ほ、ほんとうですか!」
弟子をとらないことで有名な榎津久秀が考えると言った。
諦め半分で希ったわけでは決してなくとも、彼方は驚かずにはいられない。思わず身を座卓に乗り上げんばかりに訊き返せば、久秀はおかしそうにしながら頷いた。
見開いた彼方の目が滲む。
間もなくぼろっぼろと涙が零れ、彼方は唸るような声を上げながらぐしぐしと目元を拭う。
声を出そうにも妙に引き攣るものだから、残っていたカルピスを全て飲み干してぴかぴかした顔で言った。
「俺頑張ります、いっぱいいっぱいがんばるからお願いします」
きっと、きっと弟子にしてください――
最後までそう繰り返して帰って行った彼方を見送り終わり、まるで春風吹き込んだような胸を抱えながら、常より静かに感じる家のなかへ久秀は戻る。
なにがやりたいのか。
問いかけて返ってきた様々な答え。
ひとによっては「なにをばかな」と言ったかもしれないものもあったが、久秀は「なあんだ」と思った。
自分自身に「なあんだ」と。
「古いものを引っ張り出して残すだけじゃなく、新しいものをつくってもよかったんだ」
失われる文化を残すことに必死で、去っていく時代へ刻むことに夢中で、この時代で芽吹かせるということに到らなかった。
そうしてしまえば、全てが台無しになってしまうような気がして。
新しいものがあるから古いものが消える。そう謗るひともいるだろう。
けれど、文化とは自然にひとが手を加えたもの。唐草のように次から次へと新たに芽吹き続いていくもの。過去から今が芽吹き、今から未来が咲いていく。
「やっぱり歳だなあ」
晴れ晴れしい顔で呟き、久秀は考える。
彼方への返事など決まっていた。
「せっかく芽吹いたなら、花にしようじゃないか」
これから一週間。久秀は摘まれることのないよう、枯れることのないよう土壌を整えることを考えなくてはいけないのだ。
それが、育てるものの務めなのだから。




