三十八
相手の都合で訪問は連絡がついてから早い内に決まった。
当初、秀次も伴う予定だったのだが仕事が入って叶わず、久秀の工房の最寄り駅に彼方はひとりで立っている。
手書きの地図を片手に歩き出すのはいつかを思い出すが、あの時と違って玄一はいない。今回は了解をもらえたが、元々はこういった訪問を断っている久秀だ。ふたりの思いがどうであれ、他者からは余人でしかない玄一を伴うのは好くないだろう。
駅から出て少しも歩かないうちにわっと汗が出る。じーわじーわと鳴く蝉も喧しいが、今朝網戸に張り付いて鳴いてくれたミンミン蝉よりうんとマシだ。
アスファルトに差す影もゆらゆらと、彼方が向ける視線の先は陽炎が揺らいで思わず「暑い」と呟くが、丁度頭上を飛んでいく飛行機の音にかき消された。
喧しすぎてなにも聞こえない。
なにも聞こえないならばいっそ無音なのではないか。
玄一がいれば「哲学向いてるかも」などと藪から棒に話しかけ、馬鹿を見る目で見られるようなことを考える。
暑い。
とにかく暑い。
なんといっても夏休み。夏も真っ盛りで今日は、今日も猛暑日。頭皮をじりじり焼く日光を痛いほど感じながら、彼方は麦藁帽子が欲しくなる。
むかし、祖母が存命だったころ。こんな日は出かけようとする彼方に「帽子を被んなさい」と麦藁帽子をよこしたものだ。あの青い匂いと網目から零れるきらきらした光。
「なつかしい、なあ……」
こめかみを伝い落ちた汗を踏んで、彼方は立ち止まる。
榎津の表札がかかった家の前だった。
インターホンを鳴らしてしばらく、木枠に曇りガラスを填めた戸に人影が映る。
がらり、とよくよく蝋の引かれた動きで引かれた戸の先に作務衣姿の男がひとり、彼方を見て柔和に目を細める。深い笑い皺が重ねた年月を覗わせる笑みだった。
「飯田橋くんですか」
嗄れた声に彼方はこくりと喉を鳴らし、ばっと頭を下げる。
「は、初めましてっ、飯田橋彼方、です!」
「うん、初めまして。暑かったでしょう、お上がんなさい」
男はうんうんと頷きながら中へと彼方を促した。
敷居を跨ぐ瞬間跳ねた心音にそ知らぬふりをしながら、彼方は「お邪魔します」とひとつおいて男の背を追った。
細い背中を見て、彼方は無視できないほど煩くなり始める心臓を服の上から押さえる。
「どうぞ、いま冷たいのでも持ってきますよ」
「い、いえそんな、おかいまなく」
噛んだ。
男は微笑みなにも言わずに彼方を案内した部屋に残し、ひとりまた家の奥へと行ってしまう。
「……玄ちゃんへ、彼方はがんばってます」
自分を励ますために南無南無と虚空を拝んでみる彼方だが、玄一がこの場にいれば間違いなく張っ倒していることだろう。
粗略な祈祷もほどほどに、近づいてきた足音を聞いて彼方はばね仕掛けの玩具が如き勢いで正座する。
「楽にしていいんですよ」
「あ、あい、いや、はい!」
男は桐の座卓にカルピスと氷の入ったコップを置くと、奥の部屋に続く襖を背に彼方の向かいへと座った。
「喉渇いたでしょう。氷が解けないうちに、ね」
「は、はい。ありがとうございます」
促されて彼方はコップを手に取る。ひやりとした冷たさが心地よく、口をつければ一気に三口飲み干した。
カルピスの甘さもあるのだろう。一口飲めばあとを引いたが、ひとまず彼方はコップを戻して男へと頭を下げる。
「飯田橋彼方、高校三年生です。本日はおいそがしーところお時間いただき、ありがとうございます!」
言い慣れていない言葉遣いに自分自身でひやひやしながら、彼方は持参した手土産を袋から出して座卓の上へそっと置く。
「つまらないものですが……」
「ああ、わざわざすみません。ありがとうございます」
受け取って、男はうれしそうに声を上げた。
「ああ、このお店好きなんですよ」
「そ、それならよかった、です!」
「うん、ありがとう」
夏場の手土産、相手も考え悩みに悩んだ彼方だったのでほっとした。ちなみに水羊羹である。定番の羊羹が定番ではなくなってきたご時勢、水羊羹であれば季節物ということで問題なく、また相手を考えるといきなり洋菓子を持って行くのは冒険過ぎた。
彼方が胸をなでおろしていると、ゆったりとした風情で座っていた男が居住まいを正した。彼方もすぐにしゃんと背筋を伸ばす。
「遅れましたが……――榎津久秀、刺繍をやっとります」
名乗られたことで改めて目の前の男、久秀が自分の目指す先にいる人間なのだと認識し、彼方の膝の上に置いた両手がぎゅう、と握られる。
「飯田橋くんとはお会いしたことがありませんが、きみのお祖母さんとはね、ご縁持たせていただいたんですよ。きみがあのひとのお孫さんとはご連絡いただくまで存じませんでしたが……お孫さんがいるとは聞いていたんだけどね」
言って、目を伏せた久秀はゆるゆる首を振る。
「どうりで……どうりでなあ…………飯田橋くん、きみ、五月、六月頃にあやめと杜若ののれんを展示しなかったかい」
彼方を目を見開く。
何故知っているのかという疑問が口を突いて出そうになったが、どうにか堪えて頷いた。
「は、はい。学校の文化祭で、友達と……」
「やっぱりね」
「あの、ひょっとして……」
信じられないような気持ちになりながら、彼方は恐る恐る久秀を覗った。
久秀口角を皺に埋めながら苦笑いする。
「偶然用があってね……高校生の作品と知って驚きましたよ。私がきみぐらいの歳であれだけのができたら……そう思うほど」
ひくりと喉が鳴り、彼方はじわじわと頬を紅潮させる。
だが、続いた久秀の言葉にその頬は一気に青褪めた。
「だからね、言います。
――刺繍家なんて目指すもんじゃない」




