三十七
彼方が出かけて行った三日後、玄一は狼狽しながら電話の子機を手に部屋を訪れた文江に目を丸くした。
「玄一、かなちゃんからなんだけど……」
玄一は手早く読んでいた草木染めの図鑑を閉じて、文江の手から子機を受け取る。
ただ彼方から連絡がきただけならばまだしも、応対した文江が困惑するような状態だ。玄一の眉間に深い皺ができる。
「もしもし、カナ。どうした」
「げ、玄ちゃ……」
早口で何事かと問う玄一に返ってきたのはつっかえた彼方の声と、ひくりひくり繰り返すしゃっくり。明らかに泣いている。
「カナ、お前いまどこだ。なにがあった」
「う、うち……あのね、あの、ねっ」
「家だな。待ってろ今すぐ……」
「ま、待って、玄ちゃっ」
すぐにでも家を飛び出さん玄一の勢いを察して、彼方が大きな声で制止をかける。
玄一はきいん、と響いた耳から子機を離してきつく目を瞑った。じんじんと耳の奥が痛い。
三秒ほど黙り込み、子機から「あれ? 玄ちゃん? 玄ちゃんやーい」と打って変わりいつもの調子に聞こえる彼方の声が漏れ出した子機を先ほどとは反対に耳につけた玄一は、すっと息を吸った。
「耳元で大声出してんじゃねえっ」
「ぶわっ」
驚いた声となにかを蹴飛ばした音、続いた悲鳴に溜飲を下げて「あっれー? 彼方さん? 彼方さんお留守ですかあ?」と嫌味ったらしく言った玄一に彼方の恨めしそうな声が返る。
「玄ちゃんのばか」
「最初にテロかましたのはお前だ。
――で、なにがあった」
この調子ならば好くないことがあったわけではあるまい、と彼方同様に玄一も落ち着きを取り戻す。
「あ、あのねっ」
「おう」
「あの……」
勢いづいた声に相槌を打つも肝心の本題へ進まない。
「……カナ?」
「あ、の……この前、ね……お、おと、おとーさんと会ってきた!」
「は……」
一瞬呼吸を忘れた玄一に、彼方は捲くし立て始める。
「ただ専門学校出ただけじゃやっていけないって俺ばかだけど分かるから、いまの時代じゃ全然やってけることじゃないって俺でも知ってるから、でも、でもね、玄ちゃん。俺それでも玄ちゃんと一緒に刺繍やって、やりたくて、だからねっ、あの、祖母ちゃんが知り合いなの聞いたことあって、でも俺じゃ連絡先も分からなくて、それで、それでねっ」
興奮のせいか再び彼方は涙声になり、受話器の向こうで鼻を啜る。
「おとうさんなら知ってるかなって電話して、会って……お願いした」
「なにを……」
呆然としながらも聞き返す玄一に彼方は震える吐息をひとつ、真剣な声音で言う。
「榎津久秀さんの工房、榎津さんのところに訪問する約束、もらえたよ」
榎津久秀。
刺繍そのものに触れて日の浅い玄一も聞いたことのある名で、彼方が祖母の遺した刺繍という愛着を除けばもっとも好きな刺繍家である。
数々の賞を受賞し、また海外での美術展にも参加したことのある日本を代表する刺繍家のひとりだ。
着物を主に、自然を表題とした数々の作品のなかには分野に疎い人間でも見れば分かるような大作もあり、収集家も存在する久秀だが弟子をとらないことでも有名だった。
専門校で特別講師として招かれることはあるが、久秀個人が指導する人間はいない。教室も開かないので久秀の工房を訪れるのは客か私的な付き合いのある人間ばかりで見学の機会が設けられたこともない。
その久秀を訪問する約束をもらったと、彼方はいう。
「玄ちゃん、俺できることはなんでもやる」
「彼方」
「俺ね、玄ちゃんと刺繍やるんだよ」
絶対、ぜったいやるんだよ。
繰り返す声に玄一は目頭が熱くなった。
ただの口約束で終わらせる気なんてなかった。
けれども、始まりは玄一の一方的な願いだったのだ。それに彼方が頷いただけなのだ。
まるで外堀を埋めるように玄一はせっせと働きかけた自分を分かっている。分かっているから、彼方の言葉と行動に涙が出る。
玄一だけではない。
彼方も玄一との先を望んで、それを確固としたものにしようとしている。
嬉しくてうれしくて声が出ない。
涙ばかり溢れて玄一は長く黙り込んでいたのだが「カナ」と呼べば彼方はすぐに「なに、玄ちゃん」と返事をした。
「親父さんと話せたのか」
「……うん。おとーさんね、玄ちゃんとおんなしであったかかったよ」
「……そうか」
また玄一の頬を涙が濡らし、顎からぽたぽたと落ちていく。
どれだけ怖かっただろう。どれだけ緊張しただろう。
緑の桜を見に訪れた日の彼方を玄一は忘れやしない。
その彼方がひとりで父親に会ったという。あたたかかったと穏やかな声でいう。
頷いたきり、通話を切ることもガーゼの手拭を差し出し立ち去った文江に礼をいうこともできず、玄一は手拭に顔を埋めてひたすら泣いた。
いつまでも応答のない受話器。微かに聞こえる嗚咽に耳を傾けながら、彼方は肩で受話器を挟みながら床に座り込む。ひんやりとした板間が心地よい。
秀次から了解がもらえたと連絡がきたとき、彼方はひたすら感謝した。通話を切ってすぐ玄一へ電話をかけたのだが、コール音を数えるうちに涙が溢れてしまった。
まだ入り口にすら立っていない。
ただ名のある刺繍家を訪問、生涯あるかないかの機会に恵まれただけ。
それでも彼方はようやく「先」へと視線が定まったような気がした。
向かうべき方向へ顔が向いたなら、あとは歩き出すだけ。険しい道でも、途中でこけても、足が磨り減っても。
ともに歩くひとと並んで往くだけ。




