三
放課後、玄一が約束どおり彼方を迎えに行くか、と席を立とうとした直後、教室のドアが凄まじい乱暴さで開かれた。
「玄ちゃーん!!」
大きな声で指名された玄一は、こめかみにびきり、と青筋をたてながら教室へ飛び込んできた彼方を睨みつける。
「待ってろっつったろうがっ」
「待ち切れねえもん。なあ、早く!」
背中に抱きつくように飛び掛ってきた彼方を振り払い、玄一は鞄を持って教室を出て行く。その後ろを彼方が口笛を吹きながらついていく。
「なあ、玄ちゃん何処行くの?」
「その玄ちゃんってやめろ」
「やーだぴょん」
ぶん殴ってやろうかと横を歩く彼方を見やった玄一の目に、やはり見事な刺繍がうつり、玄一の拳は力を抜いた。
「なあなあ、玄ちゃんってば」
「あー、うぜえな。俺ん家だよ」
「玄ちゃん家?」
「ああ」
きょとん、とこども仕草で首を傾げる彼方に態々説明するのも面倒くさく「行けば分かる」と言えば、渋々ながらも彼方は納得した。
「お前、祖母さんが刺繍の先生みたいなもんだよな?」
「刺繍みてえな細かいのは手出し無用! だったけどね。俺信用ねえの。見て覚えたーでいえば先生なんかな? わかんね」
「まあ、聞く限りほぼ独学だしな」
「うん。祖母ちゃんの刺繍本当すげえんだー。通ってた学校……なんだっけ? 昔の花嫁修業学校? 免許とれるんだっけ?」
玄一はぐ、と眉を寄せる。
「……師範学校?」
「それ! そこで一番優秀な作品が校長室だかに飾られるらしいんだけど、祖母ちゃんは在学中一回以外ずーっとだったって」
「一回は別の奴になったのか」
「それが悔しくて、それ以来絶対に手ぇ抜かなかったってさ」
彼方の祖母は、よほど気が強かったらしい。
「師範学校ってことは、やっぱ手芸の先生だったのか?」
「んーん。いや、それも教えてたんかなー……メインはあれ、お茶」
「茶道か」
「そう、家元の理事だったんだってー」
玄一は噴出しそうになるのを堪え、ぎょっと彼方を凝視するが、彼方はのほほーんと頭の後ろで腕を組みながら、ぶらぶらと歩いている。頭上を飛んだ雀の鳴き声がなんとも間抜けだ。
「先生を教える先生なんだってさー」
すげえな、としかいいようがない玄一は、ふと家までもう目と鼻の先であることに気付き、彼方に「あそこ」と指で教えた。
彼方は木々に囲まれた侘しい風情の一軒屋に目を輝かせ、駆け出していった。
「おい馬鹿走るなっ」
「馬鹿じゃねえもん!」
玄一は「あれなに」と母屋とは別に建てられた離れを指差す彼方に「工房」と短く答え、母屋の正面玄関の戸を引いた。
玄関から上がらぬまま声を上げた玄一に、ぱたぱたと奥から顔を出した玄一の母、文江はやんちゃな息子が「お友達」を連れてきたことに目を丸くしながらも、嬉しそうに彼方を歓迎した。
「あらあら、玄一がうちにひと連れてくるなんて珍しいこと。ゆっくりしていってね。お茶持っていきましょうか?」
文江はつ、と吊りあがった目をしたきつめの美人だった。しかし、その口調はおっとりとしていて、まるで玄一の母という想像に結びつかない。
彼方は「お袋」と紹介された文江を、ぽかん、とした顔で見つめ、徐々に頬を染めた。
「え、えと……お邪魔します」
「はい、いらっしゃいませ」
もごもご挨拶する彼方に微笑みかけた文江に、彼方は顔を俯かせる。耳まで赤い様子に「まさか」と思いながら、とりあえず今はさておくことにして、玄一は本題を持ち出す。
「お袋、試し染めの糸持っていっていいか」
「うん?」
玄一の唐突な言葉に彼方はぱっと顔を上げ、文江も小首を傾げたが、その吊り目がふと彼方の制服にうつる。
「ああ、なるほど……ねえ、あなた。お名前は?」
「うえっ……か、彼方! 飯田橋彼方、です!」
「そう、かなちゃんって云うの。いいお名前だこと。刺繍、するの?」
おっとりとした問いかけに、高校生の男子がつけられるには可愛らしい呼び名に対する文句もなく、彼方は玄一にしてみせたように祖母の手を称え、自分も刺繍が好きなこと、楽しいこと、素敵だということを身振り手振り話してみせた。
文江は興奮する彼方の話に一つひとつ頷き、ひと段落してから玄一に顔を戻す。
「工房の、分かるわね?」
「おう」
「あとで見てあげるから、とりあえずは試しのだけにしなさい」
「おう。行くぞ」
玄一は彼方の腕を引き、結局は母屋に上がらぬまま、また外へ出た。
「緊張したっ」
「顔真っ赤にしてたからな。人妻に手ぇ出すんじゃねえぞ」
「俺『お母さん』をあんな間近に見たの久しぶり! いいな、きれいだなー」
ふんふん興奮しながら、今しがた出てきた母屋を振り返る彼方に玄一は難しい顔を向けたが、追求することはなく離れである工房に向かう。
さして大きくもない工房の傍には、物干し場のようなものが日向と日陰に拵えられていて、日向の方には薄紅色の糸束が干されていた。
「玄ちゃん、玄ちゃん、あれなに!」
「染め糸」
「ピンク! すっげえきれい! どうやったらあんなんなるの?」
「老いた梅の枝をぱっちんぱっちん細かくチップにして、煮出すんだよ」
彼方はきらきらとした目を玄一に向けたが、玄一は無視して工房の戸を開ける。がらり、と戸が引かれた瞬間、明らかに母屋とも外とも違う、独特の空気が立ち込めて彼方はすん、と鼻を鳴らした。
「変なにおい」
「染料のだろ。いいか、大人しくしろよ。下手にあれこれ触ったらたたき出すからな」
ここで待ってろ、と彼方を上がり框に座らせて、玄一は靴を脱いで、工房に上がった。
彼方がその場に留まりながらも視線を忙しなく玄一に向けていると、奥でごそごそやっていた玄一は程なく戻ってくる。
「おらよ」
座り込む彼方の膝に、玄一は無造作になにかを落とした。
彼方は膝の上のさして重さもない、ただ量だけは嵩張るそれらに目を見開き、声もなく頬を染めた。
それは、美しく染め上げられた草木染めの絹糸だった。