二十五
玄一が彼方の家に泊まりこんで五日、つまり、彼方の刺繍が始まって五日。
彼方の頬は明らかにシャープなラインとやらを築いている。玄一に言わせれば削けただけだ。
なるべく睡眠はしっかり、食事もしっかり摂らせているのだが、それでも彼方はやつれ気味で、玄一がいなければ間違いなく目の下に濃い隈ができ、体重が落ちていることだろう。
一週間でなどと言っていた彼方を一蹴したのは正解だった。
「最後の三日でラストスパートをかける。だから、明日は一日休むこと」
「……うい」
部屋にいれば作業をしたがる彼方を玄一が引っ張り出して、自分の隣に敷いた布団へ叩き込むのはここ数日の定番だった。
仲良く並んだ布団の上で膝を付き合わせ、玄一が重々しい口調で命じれば、疲労ゆえに眠気が来ているのか、彼方は船を漕ぐ調子で頷いた。
明日になっていれば忘れていそうな彼方に玄一の眉間は深い溝を作るのだが、その時は再び言い聞かせればいい、と自分を納得させて、玄一は彼方の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「よし、じゃあ寝ろ」
「あい、おやすみなさい、玄ちゃん」
ぺこん、と頭を下げた彼方は、そのまま床に額を預けたまま起き上がらない。
「……苦しいだろ、それ」
もう聞こえていないとは思いつつ、玄一は言わずにはいられない。
ため息ひとつ、彼方をぺい、と布団の上に横倒しにして、体を転がす。自然と適当な体勢になったのを確認してから、玄一ははたと気付く。
彼方は掛け布団をも体の下に敷いていた。
「……しかたねえな」
自分のささやかな失敗にがしがしと頭をかいて、玄一は自身の布団を引っつかみ、無造作に彼方の上へかけてから、自分も寝転がる。
五月初旬の終わり頃、なにもかけずに寝るには少し寒いような気もするが、玄一は特に気にすることもなく目を閉じた。
一日中休む、ゆっくりする、ということに抵抗を示しそうな彼方のために、その日いち日は玄一も学校を休んだ。
案の定、彼方は隙あらば熱中しようとするので、全く手をつけないというのもストレスが溜まりそうということも考慮し、時間を計って玄一は彼方の首根っこを掴んで部屋から引き摺り出した。
「夕飯の買い物行ってくるが、欲しいものは?」
「ポカリ」
「あいよ。どうせ俺がいない間にやるんだろうが、根詰めすぎるなよ」
「あーい」
ちっとも信用ならない返事にいらっとしつつ、玄一は財布を持って玄関に立つ。
「気をつけてねー」とぱたぱた振られた手に、玄一もおざなりに振り返し、すっかり出かけるときのやりとりとして定番化したな、と約一週間という日々の長さを知る。
彼方の食の好みも把握したし、寝相も把握したし、寝汚さも把握したし、的確な起こし方も把握したし……。
「……俺はあいつのかーちゃんか……」
スーパーまでの道すがら、ぼそりと呟いた声は重い。
宗司や駿がいれば「かーちゃんだね」とでも返しただろう。そのくらい、玄一は彼方のあれこれを把握し世話を焼いていた。
玄一の一部しか知らない、たとえばこの瞬間、突然声をかけてきた不良のような連中が知れば、大層驚くことだろう。
「秋田、久しぶりだな」
「最近、真面目に登校してたみてえだが、今日はサボりですかあ?」
脱色を繰り返したせいで荒れた髪という類似点を持つ二人組みは、気安い口調で話しかけながら、玄一の前に立った。どちらも玄一よりは背が低いが、男二人に目の前に立たれてむさ苦しいことこの上ない。
「……だれだ」
「ひでえっ」
「俺ら何回かいっしょにやり合ったことあるのにっ」
「まあ酷い!」と手をひしっと握り合って玄一を非難してくる野郎ふたりを、玄一は怪訝な顔で凝視し、数秒後、なんとなく頭に浮かぶものがあってこめかみを片手で押さえる。
「少し待て、もう少しでなんか思い出せる」
「なんでそこまで考えなきゃ出ないんだよっ」
声を合せて怒鳴られても、思い出せないものは思い出せない。むしろ、怒鳴り声で通行人に注目されて、玄一にはいい迷惑だ。
「ああ、うん、なんか前に会ったような気がするわ……うん、じゃあ俺は買い物行くんで」
「ちょ、待てやっ」
「明らかに思い出してねえだろっ」
面倒くさいことは避けたいというごく当たり前の心理から、二人組みから視線を逸らして脇をすり抜けようとした玄一に、ふたりは追い縋った。だが、玄一も急いでいるのだ。さっさと買い物を済ませ、腹を空かせているだろう彼方に飯を作るという重大な用がある。
「うるせえっ、タイムセール逃したらテメエ等の財布から差し引くぞゴルァッ」
「ひいっ」
久しぶりに本気で怒鳴った玄一に、二人組みは再び手を握り合って悲鳴を上げる。通行人が一気に避けて早歩きに通り過ぎていく。
苛々とした様子を隠しもせず、剣呑な目で睨みつける玄一に、二人組みは涙目だった。
なんなのだろうか、と玄一は内心で疑問を抱く。
普段であればとっくに殴り合いが開始されていてもおかしくないが、二人組みが仕掛けてくる様子はなし、そもそも、そのつもりであればこんな通報一直線に続く往来で声をかけるというのもありえない。
「……お前ら、なんの用だ」
「…………さいきん、秋田が喧嘩したって話し聞かないから」
「……今日休むし……」
なにか様子がおかしい。
「で?」
「秋田ぶっ潰そうなんて話ししてたのいるし……」
「なんかあったのかなーって……」
ちらっと伺ってくる二人組みを鬱陶しく思いながら、玄一は気になった部分に顔を顰める。
「俺潰そうって誰が話してんだ」
「え、そりゃ……」
二人組みから情報を聞き出し、玄一は獰猛に笑った。
相手は以前、玄一が絡まれたときに伸した相手で、玄一でも時折話しに聞くくらいには有名な奴だった。それも、卑怯という部分で名が売れている。
玄一の頭で計算が始まった。
いつかあるだろう、と思ってはいたが、まさか事が起こる前に情報が聞けたのは幸いだ。二人組みが罠ということもあるが、具体的に警戒できる機会が与えられたことには違いない。不意打ちと備え有りでは天と地ほどにも差がある。
相手は玄一が「真面目に授業へ取り組んでいる」ともなれば、そりゃもう気に入らないだろう。玄一はそう思っていないが、あちらからすれば玄一もご立派な不良で「同類」だ。
しかし、気に入らないからといって玄一が潰せるか、といえば過去が物語っている。集団で来るか、どうするか。
(彼方に手ぇ出すかもな……)
ぎらり、と光った玄一の目に、二人組みが再び悲鳴を上げるが、それに構わず玄一は計画を立てる。
彼方は自分がついていればいい。集団で来られれば厄介だが、それならばそれで……。
(旗印が旗印になんなきゃあ、いいよな?)
ひとつ頷き、玄一は怯えながらこちらを伺ってくる二人組みに顔を向ける。
「お前ら、名前は?」
「皆川……」
「小楠……」
「やっぱ覚えてねえな……」
金髪が皆川、茶髪が小楠というらしい。いつまで覚えているかは分からないが、次に相対すれば思い出すだろう、と玄一はてきとうに頷く。
「情報提供ありがとよ」
「ドウイタシマシテ」
うっすら微笑み礼を言った玄一に対する返事はぎこちなかったが、気にも留めずに玄一は足を動かした。今度は引き止められることもなく、玄一はスーパーへ辿りつく。豚肉とキャベツが安かったので、今日の夕飯は焼きそばだ。
翌日、朝からきちんと登校したものの、昼からさぼった玄一は腕に痣を作って帰り、彼方をぴゃあぴゃあ騒がせた。




