二十四
なにかするのにあちこち移動するのは面倒という彼方なので、彼方の部屋はイコールで作業場でもある。
大きな刺繍台や馬、糸や資料などが整頓された部屋半分と、もう半分は敷きっ放しの布団と脱ぎ捨てられた寝巻きなど、高校生男子の私生活らしさが伺える。ちなみに、アダルト雑誌らしきものはない。
「はいはい、彼方さんはちょっと着替えますからねっ」
どうせ男同士、恥らう必要もなく彼方はぽいぽいと服を脱いで普段着らしい長袖のTシャツとジャージを穿いた。ジーンズなどは作業をする際、食い込んで痛くなるのだ。
「お前、せめて布団は上げとけよ」
「そんな時間があったら少しでも長く寝たいもん。万年床にしてねえし、休みに干すからいいのー」
「このずぼらでなんで刺繍なんて細かいことができるんだ……」
「彼方、道具の写真撮っていい?」
「どうぞー」
気軽に言って、彼方は準備を始める。
日本刺繍は絹の布に絹の糸で刺す。
しかし、彼方は制服やらバッグやらにも刺しているのだが、それらに刺す場合も絹の糸を使っているわけではない。そも、布と糸の相性が悪ければ、糸は切れてしまうのだ。
今でこそ相性やものをよく見るようになった彼方だが、始めたばかりの頃はよく無茶なことをして、糸も布もだめにした。それが制服にまで刺せるようになったのだから、彼方の成長スピードの凄まじさが伺える。
糸を縒るだけで三年の修行が必要といわれる日本刺繍、彼方はまだまだ荒削りで拙い部分も多くある。しかし、それが年月をかけて洗練されたなら――
「うっし、じゃあ始めますかー」
「茶だのはそこの盆に常時用意する。他に入用あればすぐに言え」
「あいあい」
「僕は話しかけたりしないけど、カメラの音うるさかったらすぐやめるから」
「へいへい」
適当に返事をして、彼方は前髪をカチューシャで上げる。
どこかとぼけていた顔が引き締まり、垂れた眼差しが鋭いものに変わった。
糸と針があって、すぐに刺しましょう、と始められるものではない。
下絵に糸縒り、刺す前にやることは多い。
作業はなるほど、どれだけ手早くてもざくざくと容易に進むことはない。しかし、彼方の集中力は凄まじかった。飲み物は短い休憩のなかで二口三口、普段あれほど賑やかな口が貝のように閉じ、好奇心旺盛で鋭い観察眼は手元に注がれる。
宗司は途中で時間切れだったが、その見送りさえも手をとめないままに一言で終わった。もちろん、宗司も玄一もそれを不快に思ったり、咎めることはない。
「玄一がいてよかったみたい……あれ、下手したら不眠不休で没頭しかねない」
「そうだな」
「玄一も無理しないでね」
「あいつより無理しようがねえよ」
「あはは、それでもだよ。彼方に心配させないであげてね」
意味が分からない、と一瞬眉を寄せた玄一だが、不意に察するものがあり「ああ」と吐息のように声を落とした。
彼方は玄一のもので、玄一は彼方のもの。これはふたりの間で絶対のことではあるが、彼方の恐れが完全に消え失せたわけではないことを、玄一は知っている。
母親という、ある種絶対の存在を得られなかった彼方が、どうして、安穏と玄一はずっと自分といるなどと思えるだろう。
いつか、などと思いたくない。
いつか、など来て欲しくない。
不意に怯えた目をする彼方を、玄一は知っている。
「あいつが俺に心配させることはあっても、逆はねえよ」
「信じてる」
「お前に信じられてもな」
彼方が信じなくては意味がない。
「ひどいなー。じゃ、またね」
「お疲れさん」
宗司を見送って、玄一は彼方のもとへ戻る。
声もなく、ひょっとしたら呼吸すらか細く一心不乱に作業を続ける彼方に声をかけるような邪魔を、玄一はしない。
ただ、当たり前に同じ部屋、彼方の少しだけ丸まった背中を見つめていた。
「びゃ、びゃあああああっ」
すっかり外が暗くなり、テレビ番組がゴールデンタイムも半ば、玄一は彼方を「飯、風呂」と強制的に立たせた。
丁度キリがいいところだったのだろう、大人しく立ち上がった彼方は全身の骨を鳴らし、伸びをして軋んだ体に悲鳴を上げた。
「あーあー、肩から腰が強張ってんじゃねえか。先に風呂入るか?」
「そ、そーする……入浴剤いれる」
「おう、いれろいれろ」
下手に床へ倒れこめば、そのまま寝てしまいそうな彼方の背中を押して、玄一は風呂上りの彼方がすぐに食べられるように食事を用意しに台所へ向かう。
あまり凝ったものではないが、白米、味噌汁、漬物に焼き魚、金平に卵焼きと王道的な和食だ。卵焼きは昼間のが甘かったので、今回は出汁巻きである。鍋のなかの出汁に卵液を落とし、固まってきたらお玉で掬い、巻き簾で巻いていく。甘い卵焼きであれば卵焼き鍋を使う秋田家だが、出し巻きであればこの作り方が定番である。
おかずと箸を盆に乗せて居間へ運んで台所へ戻る途中、風呂場の戸が開く音がする。
「カナー、すぐ食うかーっ?」
「食うーっ」
軽く声を張り上げた玄一に返る声に、玄一は少しだけ早足で台所に戻った。
把握済みの茶碗とお椀に炊き立ての白米と味噌汁をよそい、箸とともに盆に乗せた玄一はまた居間へ取って返す。
「お風呂おさきー」
「おう、さっぱりしたか」
「したー。それ、ご飯? 持ってくよ」
「大丈夫か? 落とすなよ?」
「大丈夫です!」
「んじゃ、俺茶ぁ淹れてくっから、それ並べとけ」
「あーい」
疲れているだろうに、彼方はささやかな玄一の手伝いができてうれしそうだった。
上機嫌に居間へ向かう彼方の背中を危なっかしく思いながら、玄一は洗った湯のみと急須を回収しに台所へ取って返した。
「美味しい!」
味噌汁に口をつけた彼方は、とても喜んだ。
「そいつぁ、よかったな」
「玄ちゃん料理できんの?」
「大したもんはできねえけど、台所に立つくらいはする」
そうでなければ、世話のしようがない。
すまし顔の玄一に対して、彼方はひと口食べるごとににこにこと顔をほころばせた。特に卵焼きに箸を伸ばしたときには、じゅわり、と溢れた出汁に顔を輝かせ、むしゃむしゃと食べている間、まさにほっぺたが落ちそうな顔をしていた。
「昼間のも美味かったけど、これすごいね。じゅわっと! じゅわっと!」
「気に入ったならよかったな」
身振り手振りで感動を伝えようとする彼方にこそばゆいものを感じ、玄一はうっすらと笑う。
自分で作ったものの美味いかどうかを、玄一はよく分からない。不味ければ不味いとは思うのだが、美味いとしても、食べていてなにも思わない、それが美味いものか分からないのだ。
けれど、目の前でうれしそうに平らげていく彼方がいると、いま自分が咀嚼しているものが美味いもののような気がする。
「……いっぱい食えよ」
「あいあい!」
その日、彼方は二回おかわりをして、食事を終えた。




