十九
休日、家を出たと思えば彼方のほかに二人のクラスメイトを連れて帰ってきた玄一に、昨夜話を聞いていた文江はうれしそうな顔をした。言葉や態度にしてはいなかったが、玄一の他者をそばにおきたがらない性質を心配していたらしい。
「染料ややり方の説明は大丈夫よね?」
「ああ。あくまで課題みたいなもんだし、自分らでやらなきゃ仕方ねえ」
それとなく手を貸すか問う文江に、玄一は首を振る。もっともな言い分と息子の性格に文江はそれ以上踏み込まず「あとで麦茶でも持っていくわね」と返した。
時間が限られているので、玄一は腰を落ち着ける間もなく動こうとする。慣れている彼方はもちろん、宗司たちもそれに不満はない。それぞれ単独での創作に理解があるというのは幸運だ。
「じゃ、お前らこっち。カナ、ほんとうにいいのか?」
「俺だって邪魔しないことくらいできますー」
元々手伝いの名目でやってきた駿と、作業のレポートを担当する宗司は玄一と作業場へ、彼方は邪魔をしないことが最大の手伝いとばかりに、玄一の部屋で図案を緻密なものにする。
よどみない彼方の足取りをしっかり見送ってから歩き出した玄一に、宗司は少しだけ笑った。
「ほんと仲良しだね。玄一、なんか心配性のお母さんみたい」
「心配性のお母さんだったら、自分の目の届かないところでひとりにさせないよ」
「薄ら寒いこと言ってんじゃねえ」
玄一はぎっちりと眉間に皺を作りながら、台所よりも少しだけ広い流しのある部屋へ二人を通した。
当然のことながら、仕事場である工房を使うことはできないが、秋田家には工房や台所とは別にこうして作業のできる場所がある。文江が仕事とは別に試し初めなどをこちらですることも多い。
昨日のうちに用意しておいた材料がしっかりと作業代に揃っているのを一つひとつ確認して、玄一は頷いた。
「秋田、ぼくはなにすればいいの」
「力作業。腕使いもんにならなくなったら洒落にならねえから、ほどほどに頼むわ。まあ、今のとこはないから座っとけ」
示した椅子に駿が落ち着いたのを横目に、玄一はステンレスの鍋に水を張り、コンロの上に置く。恐る恐る近づいてきた宗司は玄一の邪魔にならない程度の距離で立ち止まると、興味深そうに染料や鍋を見比べる。黒っぽい色をした植物の根の入った袋を、玄一は軽く振った。
「これが今回使うやつ」
「紫根だよね?」
文字通り、紫草の根である。
染料としても古いが、薬として用いられることも多い紫根は、現代でもその活躍を見せている。最近では化粧品としての注目も高いようだ。
玄一が今回使う染料はほぼ全てが紫根だ。媒染液や染料液に漬け込む回数を調整して、何種類かの色を作る。
草木染というのは必ずしも同じ色を出すことは難しく、そこは長年の職人の業であり、玄一にはできない。しかし、今回必要なのは既にあるものと同じ色を作ることではない。季節や水、糸や布の精練ですら違う顔を見せる染めだが、媒染液を変えれば、その違いは同じ染料を使ったと思えないほど素人目にも劇的だ。
だからといって、媒染液任せに色が出るわけではない。玄一が杜撰な仕事をすれば、それは発色によく現れるだろう。
勉強を始め、趣味の範囲といえるほどには染めに親しむようになった玄一だが、きちんと作品を作るというのは初めてに近い。玄一の作品が、また誰かの、彼方の作品の素材となる。
玄一は張り詰めたようにすら見えるほど真面目な顔で、紫根を洗い始める。
ひとを殴ることにもつかわれた手だが、今はとてもそんな乱暴さは見えず、丁寧に、繊細に、紫根を一つひとつ扱っていた。
「シャッター音煩かったらごめん」
宗司の潜められた声のあと、かしゃ、と軽い音がする。作業風景を撮っているようだが、玄一は返事もしない。ただ、やるべき作業に全力を尽くすだけだ。
玄一は洗い終わった紫根から水気を切ると、鋏と木槌を取り出した。
「切るの続けてると手痛くなるから、終わった奴これで潰してくれ」
差し出された木槌を受け取り、駿は頷いた。
シャッター音とは別に物騒な音が続き、紫根を切り終わった玄一は鍋に火をかけて、駿の作業を手伝う。慣れと力の差だろう。鍋に張った水が丁度いい温度になるころには作業が終わり、玄一は鍋の湯を大きなボールに移すと麻の袋に入れた紫根を沈めた。
「ひったすら揉んで染料液作る。これ手袋な」
宗司が写真を撮っている音をBGMに、玄一は用意していたゴム手袋を駿に渡す。ステンレス製のボールを直接火にかけなかったのは、これを使うからだ。湯の温度は平気かもしれないが、火に熱せられた金属は用心したほうがいい。
「ああ、花びら染めならまだしも、根だものね。確かに力仕事だ」
「そういうことだ」
ぐ、ぐ、と掌で力強く揉んでいく作業は辛い。さっそく腕が辛くなった駿は顔を顰めるが、不満を言う気配はなかった。
「わ、色出てきた。ってか、ごめんね、僕だけ楽してて」
「レポートしっかり頼むわ」
「うん、頑張る」
少しずつ色の混じり始めた湯を撮りながら、宗司はしっかり頷いた。
「結構赤いんだね」
「紫雲膏なんかもそうだろ」
「ごめん、僕の家だと使ったことない。火傷は馬の油だし」
「ぼくの家は熊の油だよ。あれ、イラクサで腕やっちゃったときもすぐ治って、よく効くんだ」
「へえ、すごいね。イラクサって痛かったでしょ」
「うん。指じゃないだけマシだけど、それでもやっぱりね」
「イラクサでも色って出るの?」
「そりゃ出るが……確か、ぜんまい紬みたいに繊維として紡ぐ方が多かったんじゃねえかな……」
一瞬止めた手を再開しながら、玄一は頷く。
文江が使っているところは見たことがないが、彼方があの色この色と興味を出すので、植物を片っ端から調べたとき、そんな記述を見つけたことがあったような気がする。
ぜんまい紬もそうだが、少しでも、という昔のひとの思いを垣間見て、玄一は現代に生まれたことへの感謝と、過去の風化へ感傷を覚えた。
いま玄一が必死に出している色も、昔は高貴な色として早々使えるものではなかった。現代でも紫は劣化が激しい色なので扱いは慎重になるが、それとは意味が違う。
「かなり出てきたね」
「ああ、だがまだまだ」
「ほんと手伝えなくてごめん、なんかあれば言ってね」
「いいから写真とメモでもとってろ」
「了解です!」
重ねれば濃くなっていく色と、重ねれば薄れていく歴史の記憶。
記憶は染料液に似ている。どんなに色濃くとも、最後繊維へと残るものは少なく、あとは流されてしまう。
過去に携わるものたちが未来へ残せるものは、いったいどれほどなのだろうか。




