十四
表面的には何事もなかったように過ぎた数日の間、玄一は忙しそうだった。
いや、忙しさを装って避けられているのだろうか。
彼方は自身の背景が酷く「面倒くさい」ことを知っている。
賑やかなはずなのに、静かな教室のなか、彼方はぺたり、と頬を机につけて突っ伏した。
(淋しい)
刺繍に没頭していれば、そんなことを考える暇すらなかった。むしろ、誰かといることで、刺繍に割く時間が減ることのほうが嫌だった。
しかし、玄一と一緒にいることは、同時に刺繍と関わることでもあって、彼方にはとても心地よかったのだ。
(いまさら、いなくなるのかよ)
いやだ。そんなのはいやだ。
だって、約束したではないか。
逃げるなら足を切り落とすといった玄一こそがいなくなるのか。そんなのはずるいじゃないか。
どこかでこどもの泣き声がする。
駄々を捏ねたい。
いかないで、とただ泣いて叫んでわがままをいいたい。
玄一がいないだけで、彼方のものを見る目は、たくさんの色を失ってしまうのだ。
「おい、カナ」
ぐるぐると詮無いことを考えていた彼方は、降ってきた声にはっと視線を上げた。
「玄ちゃん」
「いつまでも準備しねえで、なにやってんだ」
「準備?」
「……もう、帰りだぞ」
ぱちぱちと彼方はまばたきをする。
のろのろと教室にかかっている時計を見れば、なるほど、もう夕方だ。季節柄、まだまだ外が明るいものだから気付かなかった。
今日一日の記憶がずいぶん曖昧で、彼方はなんだか現実味がないと思う。
「玄ちゃん、今日は……」
「ああ、ようやく用は済んだ」
ここ数日、ともに帰ることはもちろん、玄一の家を訪れることすらできなかった彼方は、玄一の言葉に一瞬呆ける。
少しだけ、文江の姿を見るのは辛かったのだが、それでも玄一といる時間が少なくなったことはどうしようもなく淋しく、胸には穴が空いたようだったのだ。
避けられているなら、という恐怖すらあって、なにをしているのか、と訊ねることすらできなかった。
彼方の臆病を知らず、玄一はあっさりと彼方のもとに戻ってきた。当たり前に、それが普遍であるように。
「じゃあ、一緒に帰ろ? ね?」
どこか幼い口調で玄一の袖を引く彼方に、玄一は一瞬驚き、それから奇妙な笑みとも呼べない笑みを浮かべた。
「ガキ。待ってるからさっさと準備しろ」
「ガキじゃないです彼方ですー」
軽口を叩きながら、彼方は急ぎ鞄に机のなかの教科書を放り込んだ。
「あ、お前今日予定ねえよな?」
「え、うん」
唐突な問いに彼方は頷く。
友人らしい友人もいないし――実家はあの通りだ。玄一の関わらぬところで、彼方に予定らしいものが立つことは稀である。
「んじゃ、うち寄った後出かけるぞ。ちょっと遠出になるから帰り遅くなるかもしれねえし、今日はうちに泊まれ」
「は? え、なにそれ」
「枕変わると眠れねえとか抜かすんじゃねえだろうな」
「いや、別にそれはないけど……」
あまりにも急な話に、彼方はしどろもどろな返事をするが、玄一の中では決定事項らしい。それにただ従うのは簡単だが、ここ数日放置しておきながら、中々勝手な話である。
「……文江さんとか、会ったことないけどお父さんが嫌がるんじゃないのー」
口を尖らせながら言えば、玄一は「了承済みに決まってんだろ」と片頬をく、と上げた。
「ま、唐突な話でも、うちのお袋は嫌がらねえだろうよ」
さり気なく続けられた言葉に、彼方はほんの少し胸が痛くなった。
文江は「お母さん」だ。
彼方が望むべくもない、やさしいお母さんを見るのは、ほんの少し痛い。
けれど、お母さんが当たり前にこどもを愛するように、文江は当たり前に彼方をやさしい手で撫でてくれる。笑いかけてくれる――厭わないでくれる。
それがどれだけ彼方にとって得難いものであるか、きっと文江は知らないのだろうけど。
「おい、準備終ったのか」
「うえっ、ああ、うん。お待たせ」
「んじゃ帰るぞ、カナ」
くしゃくしゃと、喧嘩慣れした硬い手が彼方の頭を撫でた。
(あ、文江さんと同じだ)
無骨で、不器用そうでさえあるのに、玄一の撫で方は文江と似ている。
やさしいお母さんが育てたこどもは、こんなにもやさしい。
彼方は泣きたい気持ちになりながら、玄一に並んで教室を出た。
随分長いこと訪れていなかったように感じる玄一の家は、まだ登藤が咲いているし、目だった記憶の中から変化していなかった。
「あら、おかえりなさい」
母屋の玄関の戸を開ける玄一に続けば、丁度家に上がるところだったらしい文江が上がり框から軽くかがんでサンダルを揃えているところだった。
きつい顔立ちをしているのに、文江の微笑はいつも穏やかなのが不思議だった。
「ただいま」
「おかえり、玄一。
かなちゃんも、おかえりなさい」
「え、えっと……」
おかえり、と言われたことはたくさんある。
ただいま、と返したこともたくさんある。
だが、何故かこの瞬間、それがとてつもなく特別なことだと彼方は気付いた。
実の親にすら儘ならないことを、やさしい友人を育てた「お母さん」は、当たり前によこしてくれていた。
彼方は、気付かぬうちに、そんな「当たり前の愛情」をもらっていたのだ。
小さく嗚呼が彼方の口から零れた。
ぽん、と頭に置かれた玄一の手に促されるように、彼方は顔を熱くさせながら笑う。
「――ただいま!」
返る微笑みに、上出来というようにもう一度軽くぽん、と頭に置きなおされた手に、彼方の顔はますます熱くなった。
ああ、泣いてしまいそう。




