十三
「あのひとねえ、俺の『お母さん』なんだあ」
玄一は彼方の家にいた。
泣きはらした顔の彼方と、ただでさえ不良に同類として絡まれるような目付きに加え、殺気立った玄一だ。店になど行けば通報されるかもしれない。現に、歩いているだけで周囲の目が痛かった。
何事もなかったのなら、駅で解散するなり、玄一の家に行くなりしただろう。
しかし、こんな状態の彼方を放置する気など玄一には欠片もなく、また、玄一の家には文江がいる。
いまの彼方は、文江を「母親」を見るのは辛いだろう。まして、それが息子の友人というだけで、自分の子供同然にかわいがっている文江ならば、なおさら。
彼方の家は駅から程近く、時間にルーズなところのある彼方が玄一より早く到着していたのも頷ける距離だった。
こじんまりとした一戸建ては、地方の祖父母宅を思わせた。
「あがってねー」
「あー、お邪魔します」
「うはっ、玄ちゃんちょー律儀!」
きゃらきゃら笑う彼方の空元気を、玄一は咎めない。
案内されるまま居間に着き、くつろいでろといい置いて彼方は奥へと姿を消した。
思えば、玄一は友人の家に上がる、というのは小学校以来だと思い出す。
中学にもなれば室内よりも、どこかしら繰り出すことが当たり前だったし、それ以前に絡まれだしたのもこの頃だ。
(……青春、殺伐とし過ぎだろ)
玄一が自嘲したところで、彼方が茶器を乗せた盆とポットを両手に彼方が戻ってきた。
「お待たせ!」
意外なことに美味い煎茶を淹れた彼方は、ひと口ふた口飲んで落ち着いたところで、冒頭の台詞を切り出した。
「それは……」
「愛人とか、浮気相手の子だと思ったでしょ。ふふふ、実はあのひとの実の子なんだぜ!」
おどけてサムズアップした彼方は、その手をおろした瞬間、一気に無表情になった。
「あのひとに、俺を産んだときの記憶はないんだよ」
「記憶がない?」
「『母親』の執念、人体の神秘、奇跡。そんなもんだろうね。
当時、俺を孕んでいたあのひとは、事故に遭ったんだ。車が二台、三台玉突きの酷い事故だったらしいよ。その内の一台が弾き飛ばされた先に、あのひとがいた。
吹っ飛ばされて地面に投げ出されたあのひとは、自分の痛みよりも流れる血に半狂乱になったらしい。
『だれかこの子をたすけて』って、救急車がくるまで……。そんな状態じゃなかったはずなのにね。
病院に運ばれて、まさに母子共に危険な状態。お子さん諦めるか母体を諦めるかの選択を迫られた。まあ、俺優先になったらしくてね、結果、あのひとはかろうじて命繋いだけど、いつ死んでもって状態。
ほっそい糸を繋ぐみたいな時間が暫く、峠を越えて、意識のはっきりしたあのひとは俺の存在そのものを忘れてた。
自分がこども孕んでたことも、命がけで産んだことも、なにもかも。
Q.自分が妊娠してたこともなかったことになってるひとの目に、俺ってどう写ったでしょう? A.どう見ても自分の目を盗んで夫がよそでつくった憎いガキです。産みの母親があの通りだから、乳母みたいなのをつけられてたのもあるだろうねえ。ほら、初乳って免疫だのなんだのあるじゃない? おかげで、そのひとは見事に愛人認定されて辞めてった。
周囲がなにいってもね、書類があってもね、覚えてないんだもん。忘れるなんて、想像できないでしょ?」
彼方は深いため息を吐き、ぬるくなった茶を飲む。
玄一は、ぐるり、と気持ちの悪いものが渦巻く腹に、けく、と喉を鳴らした。
「そんなわけで、俺は早々に飯田橋の家から祖母ちゃんの家に移された。
たまに呼ばれて行くときもね、あのひとはいなかったよ。お父さんしか、いなかった。それに、ほんとちっさい頃だからさあ、まだ誰も話してくれなかったんだよね。なんで俺が『お母さん』に嫌われてるのか、なんて。
俺、馬鹿だからさあ! ほんと、馬鹿で、あのひとに直接訊いちゃったんだよ。そしたらさ、俺は他所の子でしたーなんていわれるじゃん? そんなん、俺にはどうしようもないじゃん。俺のどっかが悪いなら、直す努力しようと思ったけど、ねえ?
まあ、そのあとでお父さんに、ほんとの話教えられたんだけど。余計に酷いと思わね?
親にさあ、生まれてこなければ、なんて……」
彼方は、哀しそうに笑った。
「理不尽、だよねえ……」
理不尽だ。ああ、それはもう理不尽だ。
玄一は湯のみに視線を落とす。
命がけで守ったこどもを忘れた母親。
命と引き換えても惜しくないほどの思いを注がれて生まれてきたこども。
それが、どうしてこんなことになる。どうして、こんな理不尽が起こり得るのか。
滅多に会えない父親の愛情は足りないだろう。
唯一肉親の情を注いでくれた祖母はすでに亡い。
玄一が認識したとき、既に変わり者として評判だった彼方の周囲に、いったい誰がいただろう。
「嗚呼……」
――理不尽だ。
まるで空っぽのような風情で、ぺたん、と床に倒れた彼方を見下ろして、玄一は床に散った茶髪に手を伸ばす。
「そういえば、桜見損なっちゃったなあ」
髪を梳かれる感触に目を細めながら、彼方は呟いた。
言われて、玄一もひらひらと視界を待った緑の花びらを思い出す。
ただ、見せてやりたかったのだ。
結果は苦々しいばかりで、それが酷く悔しい。
きゅ、と唇を噛んだ玄一に気付かず、彼方はかすれる声で呟いた。
「今年はもう、終わりだよねえ……見たかった、な」
玄一は一瞬手を止め、また彼方の髪を梳いた。
もう、良い思いとは結ばれないであろう「緑の桜」を、彼方はまだ望むという。
ならば、いま何一つ言葉にしてやれない玄一にできることは、ひとつだった。




