十一
飯田橋彼方の育ちは少々複雑だった。
五つにもならない幼少期、彼方自身のせいではない非で実家から出され、祖母に引き取られた。
いつでも帰っておいで、と父親は言ったけれど、まるで刃のような母親の言葉と眼差しが彼方を飯田橋の家から遠ざけ、十を数える頃には、父親から連絡がない限りその顔を見ることもなくなっていた。それすら、母親にいない間に、突然戻ってきてもいいように、と実家ではなく外での面会だったので、彼方はもはや実家の景色も殆ど忘れてしまった。
連れ添った夫に先立たれ、ひとり暮らしていた祖母は元々「ひとりの時間」を愛するひとだったけれど、彼方を邪険にすることはなく、しかし幼い彼方を生活の中心に据えることもなく、いざという時以外はマイペースを貫いた。
「ばあちゃん、ばあちゃん」
「なんだい」
「おかあさんはどうしておれが嫌いなの」
老眼鏡をかけながら新聞を読んでいた祖母に、幼い彼方は問いかけたことがある。
嫌いな理由があるなら、それを直すことができたなら、おかあさんは自分を好きになってくれるんじゃないかしら。
淡い希望を、まだ捨てきれない頃だった。
祖母は幼子特有のくりくりした眼差しと、親に似てほんのり垂れた目尻が合わさり子犬のような彼方の目をじっと見つめた。
「時期が悪かったんだろうね」
幼い彼方には理解し難い理由をひとつ落とし、祖母は皺くちゃの手で彼方の頭を撫でた。
その手があんまりやさしいものだから、彼方はこども特有の「どうして、なんで」と繰り返すことができなくなってしまった。
けれども、こどもは時として無鉄砲なもので、用事があったわけでも、行事があったわけでもない日、それこそ思いつきで幼い彼方は行動する。
――そうだ、おかあさんに訊いてみよう。
きっと初めは怒るだろうけど、あっちへ行けっていうだろうけど、一生懸命訊けば、悪いところを直すからといえば、理由くらいは教えてくれるかもしれない。
十年以上も経ったいまでは、彼方は我ながらよくそんな妄想を抱けたものだ、と自嘲してしまう。
幼い彼方は祖母に「でかけてくる」と言いおき、父親に連絡することなく、当時はこどもの足でもえっちらおっちらがんばれば辿り付ける場所にあった実家へ向かった。誰に対する気休めか、父親は実家に近い場所へ態々住居を用意していたのだ。それに付き合って、住み慣れた家から移り住んだ祖母には感謝するべきだろう。
普段は実家の方面に足を向けることすら無意識に避けていたというのに、その日の幼い彼方は迷うことすらなく実家へたどり着いてしまった。
近づくにつれ、ちらちらと見え始めた緑色の花びらが教えてくれたのかしら。
彼方は出迎えて驚いた家政婦の妙が引き止めるのもきかず、その脇をこどものすばしっこさで走り抜けた。
「おかあさん、おかあさん!」
高い声で呼ぶ声に、果たして母親は応えた。
白藤色の袷を着た母親は、廊下を駆ける幼い彼方の前に姿を現すと、きりきりと唇を引き結んだ。
白っぽい着物でぐ、と立っている母親の姿は、幼い彼方を跳ね除けるような空気をまとっていて、幼い彼方は高揚していた気分もどこへやら、立ち竦んで青褪めた。
「お、おかあさ……」
「誰の許しを得て飯田橋の敷居を跨ぎましたかえ」
「あの、あの、おれ、おかあさんに訊きたいことが……」
「わたくしが何故お前の言葉に付き合わねばなりませんのか、皆目検討つきませぬ」
母親の使う言葉は難しくて、全部の意味を正確に把握したわけではないけれど、母親が幼い彼方を拒絶していることだけは分かった。
目に涙が溜まってきて、視界が酷くぼやけたけれど、これだけは、と幼い彼方は勇気を出した。出してしまった。
「おかあさんは、どうしておれが嫌いなんですか。どこを直せば好きになってくれますか!」
叫ぶように問いかけ、拍子に目に溜まっていた涙が頬を伝って視界が晴れた瞬間、幼い彼方は目前に鬼を見た。
恐ろしい形相で幼い彼方を睨んだ母親は、荒い足取りで歩み寄ると、白藤色の袖をひらめかせた。
気付けば幼い彼方は廊下に転がり、その頬は熱を持ち、赤くなっていた。
「おか、さ……?」
「お前に流れる下賎の女の血が厭わしいということすら察せられぬのかえっ?」
怒鳴り声が返された答えに、幼い彼方は呆然とする。
「床に伏していたわたくしの目が届かぬのをいいことに、秀次様を誑かした女の産んだこどもをどうしてわたくしが好かねばならぬかや。
わたくしには子がないのに、もう、もう秀次様の子を孕むことさえできないのにっ、あの女のこどもがこの家の一子を名乗るなど許せるものか!!」
ばたばたと後ろから足音がして、血相を変えた父親が幼い彼方を抱き上げた。
「絹子、この子に罪はないと何度言えば分かるんだ!」
「秀次様こそ何故! そんなにもあの女が恋しくていらっしゃいますの? そんなにもあの女が可愛くていらっしゃいますの?」
「だから、それは間違いだと……」
「間違いはそのこどもそのものでございましょう!」
「っ……おい、彼方を離れへ」
これ以上聞かせるに堪えない、と父親は幼い彼方をうろたえていた家政婦に預けたが、その親心さえ気に食わぬと母親は声を荒げた。
「お前なんぞ、生まれてこなければよかった!!」
家政婦の腕に抱かれながら、幼い彼方はわああ、と泣き崩れる母親の姿を肩越しに見つめた。
どうしておかあさんはおれが嫌いなの。
どうしたらおかあさんはおれを好きになってくれるの。
健気な疑問は、最悪の答えで埋められた。
「おかあさんは、生まれてきたのが俺だから嫌いなの」
呟いた幼い彼方に家政婦がなにかを言っていた気がするけれど、その後の記憶はぼんやりとして彼方は覚えていない。
その答えは間違っているよ、なんて言葉をかけてくれるひとも、それを信じられる心もない幼い彼方に、父親は母親の解答に混じる明確な間違いをひとつだけ正してくれた。
それが救いであるかといえば、そんなこともなかったのだけれど。




