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広辞苑女

作者: 香南

 アパートの郵便受けをあけると、一枚のはがきが入っていた。寒いので、内容は見ずに手に持ったまま部屋への階段を駆け上がる。鍵を開け、中に入ると、暗くて冷えた部屋が迎える。

(せめて彼女がいればなー…)

 寒くなるたびに思うことを、今年も正樹は考える。考えても今の状況は変わらないので、電気をつけ、はがきをこたつテーブルの上に置く。続けてこたつとストーブの電源を入れた。

 作業着から、セーターとジーパンのラフな格好に着替え、こたつに入るとほっと一息ついた。テーブルに置いておいたはがきを手に取ってみる。

『南西小学校同窓会のおしらせ』とある。

「同窓会…」

小学校の頃を思い出すと、急速にある少女のことが脳裏によみがえった。


 小学校の5・6年生の頃だったと思う。その年頃になると、徐々に男女間が色めき立っていた。それまで普通に仲良くしていた男の子と女の子が、何となく違う雰囲気になっていたり。どの子がかわいいとかそうでないとか、話題になったり。正樹はどちらかというと奥手の方だったので、そのような話題の時は、一般論的な話に終始した。

 けれど、クラス替えである少女と一緒になってから、正樹の関心の大きな部分は、彼女に注がれた。名前はよく覚えていない。それよりも浸透していたあだ名があったからだ。

「広辞苑女」。そう呼ばれていた。


 彼女はランドセルに常に分厚い「広辞苑」を入れて毎日持ち歩いていた。広辞苑を入れればランドセルはいっぱいなので、教科書やノートは全て机の中やロッカーに置きっぱなしだった。

 授業中は先生の話を聞きながら、時折広辞苑をめくり、一人うなずいている。そのページをめくる早さ、音のほとんどしない紙さばきは、相当手慣れていることをうかがわせた。

そんなことをしていれば、当然先生は注意する。注意されると、彼女は黙ってうなずき広辞苑を元に戻す。が、しばらく経つとまたパラパラやりだす。

 それは先生を困らせようとか、そういうことではなく、もう習慣のようだった。その証拠に、彼女の広辞苑引きは全ての授業時間のみならず、休み時間や登下校時も続いていた。読んでいる本の中の言葉、道中の看板にある単語の意味などを調べていたのだろう。時々、電信柱の標識を見て、広辞苑をめくっているのをみかけた。

 そんな偏った行動をしているにも関わらず、彼女のテストはほぼ満点ばかりだった。授業中に指されても、返答はいつも的確。先生はそのうちに、彼女の広辞苑引きを黙認するようになっていった。


 外見は地味で口数の少ない彼女には、親しい友人はいないようだった。必要なことは話すし、はっきりした物言いは内気な印象がなく、人を拒絶する雰囲気も感じられない。けれど自分の世界に没頭するのが好きなようで、周りには興味を示していなかった。

 

 一度、クラスの乱暴な男子生徒が、彼女にちょっかいを出したことがある。常に広辞苑ばかり見ている彼女をからかい、広辞苑にいたずらしようと思ったのだろう、片手で本を取り上げた。すると、男子生徒は予想外の重さに手をふらつかせ、本を落とした。本は自分の左足に落下した。指先を直撃し、男子生徒はしゃがみこんだ後、倒れてしまった。

彼女は男子生徒にかけより、広辞苑を軽々とどかすと、近くの生徒に先生を呼んでくるよう簡潔に指示した。幸い男子生徒のけがは軽かったが、以来彼女に用なく話しかける者はほぼなくなった。


 正樹はこの一件以来、前より彼女の存在を意識するようになった。周りがどうしたらいいか戸惑う中で、冷静な態度を取っていた彼女は、正樹にある種尊敬のような気持ちを抱かせた。同時に知りたくなった。彼女の思っていること、見ていること、好きなことは何だろう。あの分厚い辞書で、何を調べているんだろう。


 話しかけるほどの度胸は正樹にはなかった。もし話しかければ、たちまちクラスのからかいの対象になってしまう。せめて席が隣ならやりようもあるが、結局一度も隣になることはなかった。正樹のやったことと言えば、授業中密かに観察すること、放課後図書室で広辞苑を手に取ってみたくらいだ。広辞苑はずっしりと重く、よくこれを毎日しょってくるものだと正樹は感心した。

 中身は字が細かく、さほど本好きでない正樹は数秒眺めただけで本を閉じてしまった。彼女は自分とは少し違う世界を生きていると、子供ながらに感じた。多分彼女が、自分と仲良くなることはないだろう。


 一度だけ、偶然彼女と言葉をかわしたことがある。図書室だった。広辞苑目当てに図書室に行って以来、少しだが本に興味を持ち始めた正樹は、時々通うようになっていた。

 その日、中に入ると、テーブルに座っている彼女がいた。別の本を読みつつ、時折広辞苑を素早くめくる。教室と同じ光景があった。

 正樹は驚いてその場に硬直した。正樹から彼女までは障害物がないため、お互いが丸見えだ。彼女が少し顔を上げれば正樹に気づく。正樹は見ていたいという思いと、こちらに気づかれたくない思いとで、身動きが取れなくなった。

 だが、彼女は読書に夢中でこちらに気づく様子がない。正樹はほっと体の力を抜いた。少しだけ落胆しつつも、本を見るために移動した。移動しながらもう一度ちらっと彼女の方を向くと、目が合った。

 その途端、正樹はロボットのようにガチリと止まった。正樹が移動した少しの間に、彼女はこちらに気づいたようだった。正樹の目をじっと見ると、次の瞬間歯を見せて笑った。

「何か探し物?」

予想外に朗らかな、気さくな言い方で、彼女が話しかけてきた。一瞬自分でない者に話しかけているのかと思ったが、周りには誰もいない。

「いや…特に何ってこともないけど…」

だいぶ間があいてから、正樹がつぶやく。心臓がどくどくいっているのがわかる。顔も赤くなっている気がして、隠すようにうつむいた。

 彼女は笑みをそのままに、ふうん、と言った。馬鹿にするでもあきれるでもない言い方は、正樹を安心させた。読書に戻ろうとする彼女に言う。

「あ、あのさ。それ面白いの?」

正樹は、黒くて分厚い広辞苑を指で示した。距離が遠かったのか、彼女は広辞苑でない方の本を見やった。

「わかんない」

あっさりという彼女に面食らう。

その本は国語の教科書に載っているたぐいのもので、正樹にはよくわからないものだ。だが、わざわざ読んでいる彼女にもわからないのだろうか。

「昔の話だから、よくイメージできないところが多くて、調べてる。けど余計な単語に寄り道しちゃって、どんどん本筋から逸れてるな」

楽しげに笑って彼女は広辞苑をなぞった。

「……その黒い本さ、よく見てるけど…面白いの?」

正樹が尋ねると、彼女はきょとんと目を丸くする。

「ああ!面白いかどうかって、こっちの広辞苑のことだったのか?申し訳ない!的外れなことを言ってしまった」

どこか古風な言い方に、正樹はぷっと吹き出してしまう。

「え?なんだ?何か変なこと言ったか?」

焦ったような彼女に、正樹は首を横に振る。

「いや…ごめんなんか…口調が時代劇っぽくて…」

そう言われて思い当たったのだろう、照れたように笑った。

和やかな空気が流れる。

 彼女が左手で手招きした。不思議に思いながら、彼女のかたわらに立つ。

「何か好きな言葉言って。何でもいいよ」

彼女は広辞苑に視線を落としながら言った。実際に調べてみようと言うのだろう。

「………りんご」

とっさにそう答えてから、そう言えば腹減ったなと思った。

 彼女は口元だけ笑うと、広辞苑に指をかけ素早くページを送った。あるところでピタリと止めると、両開きにする。左上を指でなぞりながら、内容を読み上げた。

「林檎…うーん、難しい漢字だ。読めるけど書けないね!『バラ科の落葉高木、およびその果実』へえ、バラ科なのか」

リズムを取るようにうなずきながら、つらつらと読む声を、正樹はあっけにとられて眺めていた。一発で単語を探し当てたことへの驚きと、正樹には意味不明な説明文を当然のように理解している姿に戸惑った。

 全文を読み終わったらしい彼女は、広辞苑を正樹に見えるように方向転換し、顔を上げた。

「ほら!面白い。林檎がバラ科だったなんて、知らなかった!」

まさに花が咲いたように笑う彼女が、そのときとても憎らしく思った。それは、自分との違いをはっきりと見せつけられたからかもしれなかったし、広辞苑にばかり夢中なのが嫌だったのかもしれない。とにかく正樹はもやもやして、それを外に発した。

「……それって、りんごを知らない人が、りんごって何か調べるためのものでしょ」

正樹のかたい物言いに、彼女の笑顔が徐々に戸惑った表情に変わった。その変化に気づくが、正樹はむしろむきになって言葉を進める。

「でも、それじゃ、赤い色とか、しゃくしゃくした感じとか、水っぽい感じとか、大きさも全然わからないじゃない。意味あんの?」

最後の言葉で、彼女が凍り付いたのがわかった。

(傷つけた)

とっさに正樹は感じ取り、逃げるようにすぐさま図書室を出た。


 それが、彼女との最初で最後のやりとり。罪悪感のある正樹だったが、元々ほぼ接触のないもの同士であるし、彼女の様子は変わることがなかった。相変わらず広辞苑と付きっきりだ。

 そうこうしているうちに時は過ぎ、クラス替えか卒業かでもう会うことはなくなった。風の噂で私立中学校に行ったらしいと聞いたのが最後だ。


 思い返すと鮮やかにその時の感情がよみがえった。印象深い出来事だったようだ。

(初恋ってやつだったか?)

はがきをテーブルに伏せると、すぐ脇の本棚から分厚い本を取り出す。パラパラめくって「は」行を探す。

(は…で、た、ち、つ…)

該当の単語を見つけ、苦笑する。

「まんまじゃん」

『はつ―こい[初恋]:はじめての恋』

手に取った広辞苑には、そう書かれていた。


 しばらく経った日の夜。正樹は、同窓会会場である居酒屋へ向かっていた。小学校のそばにある店で、正樹が通っていた頃からあった。今は店主が代替わりし、外装もきれいになっている。

 中へ入ると、15・6人の面々がこちらを向いた。視線の一斉放火にいたたまれなくなる。ひるんだ正樹に、男性が声をかける。

「正樹!こっち!」

見慣れた顔にほっとした。当時、近所でよくつるんでいた友人の姿だった。中学までは一緒だったので、姿もさほど変わっておらず、違和感がない。

「大ちゃん。久しぶりだね」

人垣をぬって、大助の隣に座った。小さい頃の友人というのは、年月が経ってから会っても安心するものだなと感じた。

 大助や周りの面々とやりとりしながら、ざっとテーブルのメンバーを見渡す。そこに、彼女―広辞苑女―の姿はなかった。安堵する一方、残念さも大きかった。

 ビールを注文し、大助とお互いの近況を報告し合う。彼も独身彼女なしと知り、あからさまにほっとすると、小突かれた。笑って受ける。正樹よりもだいぶ早くついていたらしい大助は、周りを示しながら説明してくれた。やれ、誰々はもう子供がいるだの、どこの会社に勤めてるだの。そういえば小学生の時も妙に情報通だったなと思い出した。

 一通り話を聞いたところで、何気ない風を装って切り出した。

「…そういえば、広辞苑女って覚えてる?」

これまでの大助の話の中では、それらしい人物が出なかったので、こちらから話を振った。

「ああ!香坂な!覚えてる覚えてる。」

楽しげに答えた大助を、意外な気分で眺める。

(名字…覚えてんだ…おれも覚えてなかったのに)

彼女が誰とも親しくない、と思っていたのは、自分の思い込みだったのかもしれない。大助と仲が良かったのかと思うと、少し面白くなかった。

「何、仲良かったの?」

意識せず固い声が出てしまい、正樹は自分にうろたえた。大助の方は酔っているようで、気にも留めない。

「いやいや!あの人と仲良くなれる人は滅多にいないでしょ!」

彼女―香坂の話は大助にとって笑いのタネらしく、笑顔が崩れない。

「香坂来んのかなー。来なさそうだよなあ。でも今どうなってんのか見てみたいかもなあ」

博士とかになってそうだ、と語る大助に、正樹も同意する。小学生であれだけ偏った行動の者が、一般的な企業に勤めているとは思えない。専門の研究職についていそうな感じがする。

 大助が、そうだ、と何かがひらめいたように席を立った。5人隔てた席にいる男に近づき、話しかけ始めた。相手の顔を見て思い出す。学級長だ。生徒会役員もやっていた位の、目立つ生徒だった。そのまま成長して、優良企業に入ったような雰囲気があった。

 正樹が自分の考えに没頭している間に、大助と学級長の話は終わったようだ。気がつくと大助が隣にいた。

「香坂からは、返事なかったってさ」

どうやら学級長が幹事らしい。出席の連絡はメールでしていたので、正樹はそこまでチェックしていなかった。

 返事がなかったということは、来るつもりがないか、そもそも連絡先にいないということだろうか。十年以上経てば、色々環境も変わるだろう。

「その…今どうしてるかとか、そういうこともわからない?」

「小学校の名簿にある住所にはがき出しただけだから、詳しいことはわからんってさ。誰か仲がいいやつがいたとも思えんから…来ないんじゃね」

少々残念そうに大助は言った。ここで彼女に関する話題は打ち切りになり、後は他の懐かしい面々も交えて、近況報告やたわいもない昔話に花を咲かせた。飲んで食べて笑いながらも、どこか寂しい心持ちがしていた。


 しばらく時間が経ち、場はある程度グループに分かれ、仲が良かった集団で固まり始めた。正樹も大助を含む男子数人とほろ酔い気分で話をしていた。

 そのとき、勢い良く部屋のドアが開き、席を外していた同級生の一人が戻ってきた。ご機嫌な様子で皆に言う。

「みんなみんな〜!一人来ましたよ大物がっ」

彼の背後に、人影が見える。え〜だれ〜先生〜?などとヤジが飛び交う部屋に入ってきたのは、グレーのスーツを着た、セミロングの女性。

「我がクラスの天才少女、香坂ちゃんで〜す!」

少し困ったような笑顔で立つ彼女だった。

 周りが急にどよめく。広辞苑女、と呼ぶ人もいる。彼女は背も伸び、大人の体型になっていたものの、全体の雰囲気は変わっていなかった。髪も少々伸びたくらいであまり変化がなく、化粧も薄めだ。ただ、グレーのビジネススーツに黒いバッグが、社会人であることを思わせた。

 ざわめきたったクラスメイトたちの中、正樹は思わず香坂をじっとみつめる。来るとは思わなかったため、驚きが大きかったこともあるが、それよりも正樹に衝撃を与えたのは、彼女の態度だった。

 遅れたことを謝りながら、周りに対して笑顔で接する如才ない行動。場の途中から来たにもかかわらず、自然にとけ込む社交性。着慣れているスーツ姿からは、しっかりした社会人であることを伺わせた。

「意外だなあ〜ずいぶん人当たり良くなってんじゃん」

隣から聞こえた声に驚き、正樹は我にかえった。声の主―大助は、正樹に同意を求めるように目を合わせた。

「あーうん…そうだな」

動揺を隠せず、しどろもどろな正樹を見、大助は軽く吹き出した。笑いながら正樹との距離を詰めると、肩を組み、小声で言った。

「お前、香坂となんかあんの?」

思わずびくりと肩が動き、大助にダイレクトに伝わってしまった。面白そうににやりと笑うのが気配で分かった。さらに小声で言う。

「正樹、トイレいく振りして外で待ってろよ」

今まで背けていた視線を、大助の方へ戻す。大助は正樹から腕を外すと、行け、という風に部屋の扉を指差した。訳が分からず正樹は問うように大助を見ると、歯を見せて笑い、追い払うように右手を振った。正樹がしぶしぶ扉へ向かうと、大助が再び移動するのが目の端に見えた。


 部屋を出、一応トイレにも行ってから店の出口へ向かう。宴会場の他に一般客用のテーブルとカウンターもあり、年配の男性グループが酒を片手に語り合っているのが見えた。そのかたわらを通り過ぎドアを開けると、急に外の冷えた空気が入ってきた。酒で暖まった体には寒さがしみる。部屋の中が冷えては行けないと、外に出てすぐにドアを閉めた。思わず吐いた息が白い。

 正樹は壁に寄りかかって立つと、腕を組んだ。駐車場や道路を行き交う車をぼんやりと眺めながら思考し始める。

(大ちゃん…なんかめんどくさいことする気じゃないよなあ…。あの人になんか余計なこと言ったり…。いやでもあいつは意外に義理堅いとこあるし…。せいぜい結婚してるかとか聞くくらいか)

当時の彼女では想像できないが、今の彼女ならば相手がいてもおかしくないと正樹は思う。小学生の頃一人でいた彼女は、成長する間に大切な人たちと出会えたのだろう。その中の一人とパートナーになっている可能性も想像できる。そう考えることは、正樹にはさほど苦なことではなかった。

 話をしたい、と思った。自分のことなど全く覚えていないかもしれないけど。小学生の頃の正樹に強い印象を残した彼女が今どうしているのか知りたかった。

 ふと、ドアの向こうに気配がしたかと思うと、勢い良くドアが開いた。現れたのは彼女の横顔。そのまま駐車場の方へ進みかけて、はっとしたように正樹の方を向いた。

「うわ!」化け物でも見たかのように、香坂がのけぞった。あまりの驚きように正樹も目を丸くする

「古川、正樹君?」

名を呼ばれてどきりとする。嬉しさと少しの罪悪感。

「…香坂さん?」

さも知っていたかのように名字を口にすると、香坂は嬉しそうに笑った。

「覚えててくれたのか。でもあいにく、今は香坂じゃないんだ」

先制のカウンターパンチ。そうではないかと思っていたとはいえ、出会い頭はショックが大きかった。

 弱々しく正樹は言葉を発した。

「…結婚したの?」

「ああ。君のおかげだ」

香坂の即答に、正樹は目を見開いて彼女を見た。そこにある、笑顔。

「今日は君に礼を言いたくて来たんだ」


 外で立ち話もなんだからと、中に入りカウンターに座った。大助たちが待ち構えているのではないかと思ったが、その気配はなかった。どうやらまじめに手を回してくれたらしい。

 飲み物もそこそこに、香坂は話を始めた。

「図書室で話した時のことを覚えている?」

正樹は力強くうなずく。自分にとっては苦く、恥ずかしい記憶でもある。

「あのとき君に言われて気づいたんだ。私はただ言葉というデータを溜め込むだけで、言葉が表す実際のものに興味を示してこなかったって」

 それから、彼女はそのものについても深く調べるようになったと言う。文献だけでなく、実物を触ってみたり。そのために海外へ行き、海外でまた知らぬ言葉を見つけ、実物を探し…ということを繰り返すうちに、世界中を飛び回るようになったという。その道中で伴侶に出会ったのだそうだ。

「世界を回ってたから色々な国の言葉を話せる。おかげで今も翻訳の仕事をしていられる」

「ほ、翻訳…すごいね」

「君のおかげだ。感謝している」

香坂は再びそう言った。本心から言っているのだと思える誠実な態度。正樹は、自分ではない誰かに言われているような違和感を覚えた。

 そんなつもりで言ったんじゃない。ただ自分は悔しかっただけだ。自分より遥かに優れた彼女に対して。

 正樹は香坂の顔を見ず、言葉を絞り出した。

「…感謝することなんてないよ。おれは、ただ単に子供っぽい感情をぶつけただけだ。もし、それをきっかけに香坂が変わったのなら、それは香坂が努力したおかげだ」

そう言いきると、沈黙がおりた。香坂を見ることができず、目の前のウーロン茶グラスをみつめる。

 しばらくのち、ぽつりと彼女が言った。

「…それでも、あの時の私にそう言ってくれたのは君だけだ」

静かだがはっきりした意思のある声に、正樹は思わず顔を上げる。

「私が友人だと思えたのは君だけだったから…」

いいながら、香坂はごまかすように笑みを深くした。友人ってほど仲良くないか、とつぶやくのが聞こえ、彼女は顔をそらした。

 正樹は胸が苦しくなる。また傷つけてしまったのだろう。自分の態度が、言葉が。

 しばしの沈黙の後、正樹が口を開いた。

「……うちに、広辞苑があって」

香坂は不意をつかれたように顔を上げた。正樹はその目を見ながら続ける。

「…そんなに使うことはないんだけど、でも分厚いし黒いし、目立ってさ。使わなくても目にとまることがあって。そういう時に…今どうしてるかなーとか思うんだよね」

香坂は、私?というふうに自分を指差す。正樹は軽く頷くと、続けた。

「…会ったり、話したりすることはないけど、そんな風に時々思い出したり…心配したり…そういうのは、友人とは言わない?」

正樹は香坂の顔をまっすぐ見ていった。傷つけるためでなく、大事にするための言葉が届くように。

 香坂は笑った。

「言う」

声と同時に、正樹に抱きついてきた。

「うっわっ!」

飛びつかれた方はバランスを崩しかけ、カウンターに手をついて体制を保った。香坂はあわてて離れる。

「あっ!すまない!日本人はハグの習慣はないんだったな。驚かせて申し訳ない」

かつてと変わらぬ古風な言い方に、正樹は笑ってしまう。香坂もつられたように笑った。

「やっぱり、君はいいな」

香坂は感心したように言う。何がいいのかはわからないが、どうやらお気に召したらしい。「喜んでいただけて光栄です」といったらまた笑われた。

「君は結婚していないのか?」

ひとしきり笑った後、香坂が切り出した。正樹は滅相もないと否定する。何しろ相手の候補すらいない。

「そうか…残念だな。君の感性を継ぐものを見てみたかったんだが」

残念そうに香坂が言う。独特のいい方だが、子供のことを指しているのだろう。

「…子供がいるの?」

「ああ。9歳と5歳と2歳の男の子だ」

「9!?しかも3人!?」

思わず大声を出してしまう。逆算すれば、10代後半で出産したことになる。普通の人生ではないだろうと思っていたが、世界中を回り、結婚し、3人の子供、と予想以上ににぎやかな年月のようだ。

「君の子供と私たちの子がどんな話をするのか見てみたかったんだがなー」

子供がいるとしてもまともに話せるほど大きくないだろうな、と思いながらも彼女に同調しておいた。


 その後、正樹の仕事についてや、香坂の家族についてなどひとしきり話すと、沈黙が訪れた。気まずくはなく、自然な柔らかい沈黙。遠く部屋越しに聞こえるにぎやかな声を感じながら、正樹は不思議な気分でいた。

(こんな風に、この人と話せるとは思わなかったな…)

気付かれないように隣をちらっと見ながら思う。一方的に気になっていただけの彼女とまるで古くからの友人のように話している。そしてそれを違和感なく自然に受け入れている自分がいる。

 正樹は苦笑気味に言った。

「小学生の時、もっと香坂さんと話しておけばよかったな。もっと仲良くなれたかもしれない」

香坂は不思議そうに言う。

「今からでは遅いのか?」

「えっ」

「友人だと言ってくれただろう。私はこれっきりにするつもりはない」

香坂は身を乗り出すように畳み掛けた。

「君が広辞苑を見て私を思い出してくれたように、私も君を心配していた。どうしているか、何か困っていることはないかと。もし困っているなら手を貸したいと思ってここに来たんだ」

「いや、別に困ってることないけど…」

「今はなくてもっ!この先、何か会ったら必ず助けに行くから!」

強い口調で言う香坂に、正樹はあっけにとられた。香坂は正樹の表情を見て我にかえり、うつむき加減で声を落とした。

「…君は、私にとって特別なんだ。恩人のような…でもそんな遠い存在ではなくて…。とにかく、大事なんだ。君が困ったら、是非私に助けさせてほしい」

後半は正樹をまっすぐ見ながら言った。

 正樹は、彼女のあまりに実直な言葉に顔が熱くなるのを感じる。心臓が強く脈打つのを実感した。思わず顔を隠すように、カウンターに突っ伏す。

「どうしたんだ!?大丈夫か!?」

心配げな香坂に、正樹は言った。

「日本人はシャイだから、そういう直球の言葉に慣れてないんだよ…」


 正樹が宴会場の皆の元へ戻ると、意味ありげな視線に出迎えられた。

「香坂さんは?」

元学級長に問われ、帰ったと答えると、大助から抗議の声が上がった。

「何だよー自分ばっか話して。あっ、もしかしてこの後個人的に会ったりすんのかー?」

「あいにくだけど、旦那さんと子供が待ってるから帰るってさ」

大助の表情が凍り付く。正樹はあきれたように笑いながら言った。

「お前、なんか勘違いしてない?おれと香坂は純粋な友人同士だ」

「えー何だよ…。香坂の方も正樹のこと気にしてたっぽかったから…」

意気消沈する大助の肩を叩き、隣に座った。

「ありがとう、大ちゃん。久々に話せて楽しかった」

「…そうか」

お世辞でなく、本心から言った正樹に、大助がほっとしたようにつぶやいた。

 正樹は香坂の帰り際の言葉を思い出す。

「君の感性を継ぐものが早く現れることを、私も祈っているよ」

そう言って、香坂は笑顔で去って行った。

「婚活でもしよっかなー」

正樹が誰に言うでもなくつぶやくと、大助がぎょっとしたように振り返った。

「なにをいきなり!?え、やっぱなんか香坂とあったんじゃー…」

「違うって。そーゆーんじゃないけどさ」

焦ったように言う大助に、正樹は笑って返した。

「つながってく人生ってのも、悪くないと思ってさ」



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― 新着の感想 ―
[良い点] 早速読ませていただきました。 大人な感じがしますね。とても自然で、引き込まれてしまいました。 正樹も香坂もきちんと年を取った、ちゃんと小学生から年をとり、考えが育っていった、そんな感じを受…
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