幕間 王子のそんな理由。 (3)
留守番中のフローは、独り昼食をとる。
ご飯は食卓に用意されていた。
席につき、皿にかけられた薄布をとる。
現れた料理――野菜を挟んだパン――を手にとると、口いっぱいに頬張った。
――王宮で作法に慣れている彼は、頬張る、という食べ方をするのははじめてだ。
だが、食べ方は知っている。
かつて、王宮の片隅にある使用人用裏庭で、椿がそうしてこの料理を食べる姿をずっと見ていたから。
「おいしい」
口ずさみ、口元を和ませる。
独りでたべるご飯がこんなにおいしく感じたのは、生まれて初めてだった。
*** *** ***
フローが初めて椿と逢ったのは、彼の魔力が王らに知られる少し前。
彼が王子であるがゆえに決して表には出さず、けれど瞳はいつだって見下していることを物語っていた官吏たち。
ぺこぺこしながら、時には根も葉もない噂と陰口を零す貴族。
――辟易としていた。
しかし、フローは己の魔力の力量を隠し続けた。
国のことを考えたから、だけではない。そんな割合は、心を占める内の、ほんの爪の垢程度。
――逃れたかった。この、汚い世界から。
国民の税で生きていることは知っていた。それでも。
己を隠し続け、嘲られて生きるのは、呼吸も侭ならないほど息苦しかった。
当時の王宮は、フローにとっての娯楽はなにもない。
仕事はほどほどだけこなせばいい。
否、ほどほどだけでなければならない。
いつだって皆の前では馬鹿かつ怠惰で。
……こんな彼に付きまとうのは、容姿のみに群がる高慢な娘。
それすらも、鬱陶しくてたまらない。遊ぶことすらも、なにもかも。
そうして、人の目から逃れるように足を向けた先は、なんの気まぐれか使用人用裏庭だった。
普段、そこに人はあまりいない。
騎士見習いたちが訓練に使う以外用途がない、廃れた場所ゆえに。
それでも、人目につかない場所を探していたフローは安堵した。
それは、腰ほどの高さしかない木の前を陣取り、腰を下ろ――そうとした時。
鼻歌がきこえた。
きいたことのない、曲調だった。
歌詞をきこうと耳を澄ませば――きいてはいけない歌なのだと気づく。
フローは肩を小刻みに揺らし、笑う口を拳で隠す。
そっと身を隠し、木陰から歌の主を探した。
(彼女、ですかね?)
視線が捉えたのは、肩ほどの長さの黒髪を持つ、娘。
大きな金網に書物を干していることからして、写字生だろう、と察する。
あ~たま~に まぁ~るいお月様~
ち~がうの それは月じゃないの~
残念~ 無念なハゲ頭~
立派な~口ひげ~頭につけろ~
もじゃもじゃ顎ひげ頭につけろ~
細かい~性格ハゲのもと~
残念無念なハゲおやじ~
嗤う魔術師のハゲ上司
でっぷりお腹の我が上司
曲調から、おそらく童歌のようだ。ゆえに、きっとこれは替え歌だろう。こんな歌詞の童歌は存在するはずがない。
もくもくと書物を並べながら、人目がないと信じて歌う娘に笑いがこみあげた。
歌が下手ならば失笑ものだが、これがまたなかなか上手だ。
「魔術師のでっぷりお腹のハゲ上司……ですか」
小さく呟き、図書館所属の魔術師を思い浮かべる。
しばし瞑目して思考に耽ると、思いあたったのは一人の中年。
そういえば、彼は頻繁に写字生に対し憂さ晴らしをすると、風の噂で度々耳にした。
つい、噴出しそうになり、口を手で覆う。
慌てて腰を曲げ、木陰に身を隠し、地面にうずくまって笑い転げた。
(た、確かに、的を射ていますね……っ)
こんなに笑ったのは久しぶりだ。
腹筋が痛くなり、地面に仰向けに寝転がる。
そして――今さら気づいた。
(ああ、今日は晴れてたんですねぇ)と。
以降、フローは使用人用裏庭にこっそり通うようになる。
いつだって探すのは、替え歌の娘。
彼女はいつも昼食をそこでとっていた。
よく食べているのは、野菜を挟んだパン。
……彼女はいつだって、フローの期待を裏切らなかった。
たまに日干ししている本を手にとり笑って、時に眉を顰め、時に涙をこらえて。
表面上の付き合いばかりで、フロー自身喜怒哀楽が乏しいために、彼女のころころ変わる表情はとても新鮮だった。
娘を見ていると、生きていることを実感できた。
そうして転機が訪れたのは、娘が落ち込んだ表情で大きな封筒を抱えていた時のこと。
彼女は、封筒を開けることなく、悔しそうに唇を噛みしめていた。
――こんな表情は、初めてみた。
潤む目は俯く拍子に流れた、黒い髪に隠れる。
「――私は、絶対に」
思い通りになんてなってやらない。
続く言葉は、涙と共にこぼれた。
その娘の姿は、それまで傍観を決め込んでいたフローの心を切なく締めつける。
(苦しい――)
そう、感じた。
それから、フローは娘が立ち去った後も彼女がいた場所をただ見つめ続けた。
知りたいと。
守りたいと。
傍にいたいと。
あんな顔は、させたくないと。
思った。
そんなフローの気持ちは、思わぬ形で成就することとなる。
*** *** ***
フローは食事を終えると、食器を流し台へと運ぶ。
――食器を洗う。
その作業さえ、王子として育った彼は初めてのことだ。
それでも、椿を見ていたから、できる。
そして、ふと、思う。
(夕食を用意しておいたら、椿は喜びますかね?)
思いつくと、胸が躍った。
フローは椿の笑みを思い浮かべ、拍子に満面の笑みを浮かべる。
浮かれる心で尻尾をふり、作業へと取り掛かることを決めた。




