4.写字生、身震いする。
王宮の使用人用裏庭で、椿は一人、もくもくと昼食をとっていた。
そこは木陰。
(……こわい……権力者こわい…貴族こわい)と、寒さからではなく恐怖にガクガクぶるぶる震えているのは秘密である。
結局、先日の雨でドロドロになってしまった制服は、フローが簡単な魔法で汚れを落としてくれた。……さすがは魔術師である。椿にはできない所業だ。
ちなみに、フローの魔力がどれだけのものなのか、椿は知らない。というより、知ることができない。魔力というものは、魔力が強い者は己より弱い者の力量を知ることができるが、弱い者は強い者の力量を知ることができないのだ。格闘技の世界となんら変わりのないことである。
そんなこんなで、今椿が着ている写字生の制服は、フローがきれいにしたものだった。
昼食である野菜を挟んだパンを食べながら、家にこもっているだろうフローのことを考える。
(外出禁止だとは言ったけど……変なことになってないよね? ご飯は用意してきたし……フローだって大人だし……大丈夫大丈夫)
もはや、”大丈夫”という単語は椿にとって、己の精神安定のための、魔法の呪文であった。
不意に、声が聞こえた。
椿は耳を傾ける。と――それは、どうやら回廊を通る官吏の話し声のようである。内容は、現在王宮で一番有名な噂だった。
だが、椿は今日の今日までその噂を知らなかった。末端官吏で、他官吏とも繋がりがなかったためだ。
――その噂いわく。
『なぁ、フローライト殿下の噂、知ってるか?』
『ああ、あのぐぅたらな第二王子の? まだきいてない』
『じゃあ教えてやるよ。なんでも、あの王宮でも随一の魔術師兼某公爵令嬢が、殿下に迫ったそうだ』
『いつものことじゃん。彼女、いっつも王子に迫ってるよなぁ。……顔か? やっぱり顔なのか? だからオレには彼女ができんのか!?』
『じゃね? そうじゃなくて。おい、涙ぐむなよ……悪かったって』
『うう……続けてくれ』
『で。殿下が例によって例のごとく、拒んだんだってよ。そしたらさ――』
『うんうん』
『なんで素直にならないのです!? だったら、わたくしの傍にずっといられるよう忠犬になっているといいですわ! 反省するまで元に戻して差し上げませんから!』
『……前々から思ってたけど、彼女、美女なのに中身痛いよなぁ』
『いうな。オレらもやられるぞ。で、とにかく、そういって殿下を犬に変える魔法をかけたんだ』
『げぇっっ、マジで!?』
『まぁ、殿下側近の魔術師がなんとか解呪しようとしたらしいけどさ……彼女の魔力、ハンパねぇじゃん? 殿下、犬耳と犬尻尾だけ生えたまんまなんだよ』
『……彼女は? 王族に魔法やらかしたら、やばいだろう……』
『いんや……殿下は…ほら、王様から跡継ぎとしては捨て置かれてるしさ……令嬢は王様の側近の公爵兼宰相の娘だからさ……』
『ああ、王子かわいそう……』
『なんでも、ちゃんと解呪するには、好きな人の愛が必要なんだってよ。……彼女、殿下が自分のこと好きだって思い込んじゃってるから…そういう付加要素つけちゃったんだよ』
『……う、うわぁ。で、今、王子はどこに?』
『……さあ? なんでも、噂では側近が安全な場所に匿ったとか』
(我が家だよ!!)
椿は心中つっこんだ。
いったいどこが安全だというのか。
(むしろ危険だ――私の身がな!!)
――ああ、なんていう厄介ごとを持ちかけてくれたのか。危険な令嬢を敵にまわすことになりかねない。
考えながら、彼女は蒼ざめる。
やがて、昼休憩を終える予鈴が無情にも鳴り響いた。
*** *** ***
(もうさ、フロー様をその公爵令嬢に引き渡すのがいいんじゃない?)
名案だ! と一人うなずきながらも、椿は図書館へと続く廊下をこそこそ歩く。
それは、ようやっと図書館の扉が視界に入る頃だった。
「……なさいよ。しばくわよ?」
「ひぃぃぃ、知りませんってばっっ。ぎぃやぁぁぁ」
椿の耳に、断末魔の悲鳴が届く。
俯けていた顔をつい……つい、あげて、深く後悔した。
(ななな、なんか殺人事件が目の前でぇぇぇっっ)
椿の視線に気づいたのか、悲鳴をあげていた男は視線で助けをもとめてきた。
だが、(無理!)と即断した椿は目線を斜め下へと向け、その現場を通り抜けることを誓う。
視界の端に映るのは、妖艶な色香を醸す美女。彼女は王宮魔術師の制服を着ていた。
そして、そんな彼女に締め上げられているのは、中年の優男。なにやら、大きな鞄を手に持っていた。ちなみに、彼も王宮魔術師の制服を着ていた。
(魔術師同士でなにやらがあったに違いない。他部署のことに下っ端写字生が口を挟むことじゃないし? ……挟ものなら、私も殺されかねないし!)
――無関心は、罪悪だ。
いったい誰の言葉かは忘れたが――自分の命が一番大切。それが椿の考えである。
「フローライト様の居所を教えろと申し上げているんです!!」という美女の怒号には、故意に気づかぬふりを貫いた。
*** *** ***
その後、いつものように、椿は職務を全うする。
左手には鎖に繋がれた文献、右手には羊皮紙に文字を連ねるペン。
嫌なことすべてを忘れるように、没頭した。
かつて、ここまで仕事熱心だったことがあっただろうか。――いや、ない。
同僚、上司たちは、皆珍獣でも見るような目で椿に視線を送った。
ふと、視界が陰る。
(いやいやいや、気のせい気のせい)
椿は無視した。
「椿殿」
(幻聴幻聴)
「私を先ほど無視した椿殿っ」
同時に仕事の机片隅に、どこかで見たような大きな鞄がドンッ! と置かれた。
椿は苦虫を噛み潰す表情で顔を上げると、そこには――先ほど、美女に首をしめられていた中年王宮魔術師がいた。しっかり椿を睨み据えている。
「すみません!!」
長いものに巻かれる彼女は真っ先に謝った。――なにがなんだかわからなくても謝る、これは権力持たない虫けら(=つまり椿)の鉄則。もちろん椿の信条でもある。
「謝るのなら助けてくださいよ」
ぶつくさいう王宮魔術師に、もう一度「すみません」と頭をさげた。
(だが無理)と心の中でつけたして。
椿は眉間に皺を寄せ、机に置かれた大きな鞄を凝視しながらも、あえて口には出さなかった。
(訊かない。絶対に訊くもんか!!)
そんな心を察したのか、わざわざ王宮魔術師自ら教えてくれる。
「これは某美貌のお方の、服を含めた生活用品です」
「…………」
視線をおもいっきり外す椿。
彼は目を細めてうっすらと笑った。まるで狙いを定めた蛇の目をしている。
「――知っていますよ。あなたの家にいるのでしょう?」
「ひぃっ」
「安心してください。私はあの方からの手紙で知っているだけです。公爵令嬢はご存知ありませんよ。あの方の追跡は、彼女には不可能です」
その言葉に反応したのは椿だった。
「え、つまり、彼女より強い魔力の持ち主が追跡を不可能に?」
魔術師はうなずく。
椿は勢いよく席をたった。
「ならっ! 例の呪いも解いてくださいよ!」
けれど、それに彼は首をふった。
「不可能です」
「なぜ……っ」
すると、魔術師はにやりと口角を上げた。優しい顔して腹黒い、と椿は判じる。
「別に、理由を教えてもいいですけど――知ったら、あなたは間違いなくゴタゴタに巻き込まれますよ? それでもいいのな――」
「よくないです! 断固拒否します! 前言撤回!!」
叫び、大人しく椅子に座る。と、魔術師は穏やかに「よろしい」とカラカラ笑った。
「まぁ、そういうわけなので、彼をよろしくお願いしますね」
それは、実に慈悲深い笑み。
温厚な微笑を残し、彼は去っていった。
――ちなみに、魔術師の置き土産を見つめながら小刻みに震え、視点定まらぬ遠い目をして涙を流す椿の姿は、まるで珍獣のように同僚、上司から見られていたという。




