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3.写字生、自宅にこもる。



(ああ田舎にいるお父さん、お母さん。椿はついに、男性と同じ屋根の下に暮らします)


 待ちに待った、素敵な公休日の早朝。

 窓辺で降り注ぐ日光を浴びながら、椿は遠い目をしていた。

 田舎を捨てて、上京した娘。

 田舎では色々あったが――ここでも色々あったりする。

(平凡な日常、戻っておいでー)

 あはは、うふふ、と無気力になりながら、眠れず真っ赤になった目で朝日を睨みつけた。



「おはようございます、椿」

 耳に心地よい低音に、椿は振り返る。

 そこには、元凶がいた。

 引き攣りそうになる顔を必死に笑みへと変え、返答を試みる。

「おはようございます、殿下」

 けれど、一刀両断されてしまった。

「椿、顔、引き攣ってます。あと、呼び名はフローです。敬語もいりません。同じ屋根の下に住んでいるのに、敬語はおかしいでしょう?」

(いやむしろ、同じ屋根の下に殿下といることがおかしいんですけど)というのは椿の心の声。

「でも、殿下も敬語じゃないですか」とビビリながら小声で反駁すれば、彼は肩をすくませた。

「フローです。……敬語はクセですので気にしないでください。これも権謀術と処世術のひとつですよ。ほら、口調がやわらかいだけで、印象が違うでしょう?」

 椿は(確かに)とうなずきながら、(だがしかし。私にはいらぬ情報です)と心中で付け足すのを忘れない。

 ついで、彼女は左右に揺れる尻尾を見つめた。

 その視線に気づいたフローは苦笑する。

「見ての通り、尻尾と耳に気持ちが反映するので、残念ながら王宮に戻れないのです。――なので、末永くよろしくお願いします、椿」

(見なきゃよかった!! 気づかなきゃよかった!! しかも殿下、尻尾むちゃくちゃ振ってるし!! どこが残念かっ!!)

 心の中で激しくツッコミつつも、椿は無言を貫いた。




***   ***   ***




 椿は朝食の準備に取り掛かる。

 すると、フローも庖廚までついてきた。

 じぃーっと見つめるフローの視線。

(居候だし、手伝ってくれるの?)

 野菜を刻みながら思う。


 料理を作る手さばきを凝視するフローの視線。

(手伝ってくれる、の?)

 鍋を火にかけながら思う。


 鍋をふるう姿に驚くフローの視線。

(手伝わないんかい!)

 心の中でツッコミながら、椿は料理を皿に盛りつけた。



 出来上がった料理は、野菜の入った卵料理。パンは買い置きのものを用意した。

 汁物をつくるのは面倒だったため、喉に詰まったならば水で流し込めばいいだろう。

 食卓に並ぶ朝食に目を丸くするフローの心は、表情そのままのようだ。そう尻尾と耳が物語っている。

 王宮の料理で口が肥えているだろう彼が「おいしい」と口にした時は、(王宮料理人を目指そうか。……給料高そうだし)と本気で椿は考えた。


 食事が一段落し、一箇所に食器を重ねると、椿は姿勢を正す。

 空気を読んだのか、フローも正した。

 そして腕を組んだ椿は眉根を寄せて向かい席に座る青年を見据える。

「殿下」

「フローです」

「……フロー殿下」

「殿下はいりません。フローです」

「…………フロー様」

「様もいりません。フローで結構です」

「………………それだけはご勘弁ください!! もう、お名前を呼ばせていただくだけで胃がキリキリっと痛むんです! 平民なんです小市民なんです、私! すみませんんん」

 土下座する勢いで卓に両手をついて頭を下げれば、美貌の青年は溜息をついて「……わかりました。でも、敬語はいりません」と顔を上げさせた。

 助かったのか助かっていないのか微妙だが、椿は涙目で礼を述べた。

(……ああ、フロー様の尻尾と耳が垂れてる)

 気づくと、なんだかこちらが切なくも愛おしく感じてしまう不思議。

(耐えろ耐えろ耐えろ萌えを見せるな耐えろむしろ絶えろ!!)と葛藤しながら、咳払いをして己の心を誤魔化した。

「じゃあ、本題です」

「敬語はいりません」と会話の行く手を遮るフローの発言に、「努力します」とだけ返した。

「フロー様、王宮に戻らなくていいんですか? 今頃王宮、『フロー殿下行方不明、身代金で一攫千金?』事件で大騒ぎですよ?」

 問えば、青年は涼しい顔で答える。

「身近な者は僕がここにいると知っていますよ。ほら、僕、王子なので。周囲は優秀な魔術師いっぱいいますから、追跡探索なんて余裕です」

「……じゃあ、なんでお迎えが来ないんですか」

 椿が肩を落とすと、フローは己の犬耳を指さした。

「これ、です」

「は?」

 首を捻る椿。フローは深い溜息をついた。

「この耳と尻尾があるために、王宮にいるとむしろ今の僕は命取りなわけです」

「はぁ?」

 曖昧にうなずけば、彼は説明をはじめた。

「王宮は、腹黒狸と陰険狐の温床でしょう? そんな場所では、上辺付き合いは当たり前です。ですが、僕はこの犬耳と尻尾は、せっかく身につけた権謀術も処世術も無意味にしてくれるんです」

(……感情が見事に尻尾と耳にでるからか)と椿は目線を犬耳に向けた。

 そこで、ふと、脳裏に疑問がよぎる。

(……あれ? フロー様、昔からあんな耳あったっけ?)

 記憶をまさぐり、過去のフローを想像する。が、わからなかった。

(……末端官吏の私が王子様をお目にかかったことなんぞなかったっけ)

 椿の心はしょっぱくなった。出世の道はまだ遠い。

(でも、私の知る限り、物語の中じゃなくて現実で犬耳と犬尻尾を持つ獣人間なんて聞いたこともない)

 つまり、彼はなんらかの理由でそれらを手に入れた、と考えるべきだろう。

 ここで、迷う。

(つまり、犬耳と犬尻尾がなくなれば、王宮に戻ってもいい、ということか。じゃあ…………犬耳と犬尻尾がなんで生えたかまずは知るべき、と?)

 即座に首を横にふって否定する。

(やめやめやめ。なんだか色々嫌な予感がする。それはもう、もくもくと!)

 一人もんもんと思考にふける椿に、フローは熱烈な視線を向けた。

「……な、なんですか、フロー様。あ、別に犬耳と犬尻尾が生えた理由とか、全然気になってませんからね!」

 フローの耳が、ぴくり、と揺れた。それを椿は無視して耳をふさ――ごうとしたが、フローの手に阻まれ、失敗した。

「手、手を離してくださいっ」

「椿、他人の話は一部始終聴きましょうね? はい、続けます」

「いやぁぁぁ、ききたくないですっ。もうお腹いっぱい!」

「つまり、側近たちに言われたんです」

「あ――――……聞こえなぁーい」

「犬耳と犬尻尾をなくすまで、危険なので戻ってこないでくださいと」

「聞ーこーえーなーい――――――」

「犬耳と犬尻尾は、とある魔術師の呪いによって生えました」

「呪いっっ!? ぎゃぁぁぁっ。……あ、フロー様も魔術師じゃないですか! だったらご自分で解いてさっさとお帰りくださいよ!」

「解呪するには、解く者の魔力がかけた者の魔力を上回っていなければ無理なわけです。――この呪いをかけた魔術師は、王宮きっての有能魔術師です」

「…………」

 そして、フローはにっこり笑った。ちゃんと比例して尻尾も揺れている。

「王命です。呪いを解くもうひとつの条件」

「え、おうめい……追う姪?」

「王命」

「…………」

「愛しく想う者の愛で呪いを解いてください」

「…………哀」

「愛」

 黄金の髪をさらりと揺らして微笑んだご尊顔は、とてつもない破壊力を持つ美しさだったが――硬直して石像と化した椿には、無効化した。




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