8.写字生、犬(仮)をまた拾う。※決定。 (2)
椿は、自分の借家の前で立ちすくんでいた。
隣には、梓がいる。
扉を叩き、帰宅したことを知らせようとする拳は、空に浮いたまま動かない。
そうしてどれくらいの時間が経っただろうか。椿のお腹が自己主張し、空腹を音で報せるのをきっかけに、梓は声をかけた。
「椿、かわろうか?」
梓は気遣ってくれたのかもしれない。
だがしかし、椿は首がもげるほど横に激しく振った。
(いやいやいや、気遣いみせるべきは、今じゃないから! 王宮でみせて、一人でさっさと村に帰るっていう選択をしてほしかった! というか、今からでも遅くないから、どこか行ってくれないだろうかっ)
冷や汗が流れるのを感じる。なぜ、自分が浮気をして、しかもうっかり浮気相手、もしくは隠し子を連れてきちゃった人のような立場になっているのか。
(おかしい……これはおかしい……。これから、針の筵体験ができる未来しか今の私には想像できない)
家は、癒しの空間であるはずだったのに。
いったいどうしてなぜこうなったのか。椿は回想に耽った。嫌なことは後回し。そんな性格ゆえに。
ちなみにその原因は、かれこれ数刻前――つまりは、王宮図書館で椿と梓の会話に区切りがついた頃にまで遡る。
*** *** ***
王宮図書館で会話をしていた椿と梓であったが、主張したいことはひとしきり済んだ。
したがって、椿は仕事に戻ろうとした――その時である。
椿は顔をあげ、目を瞬いた。
写字長が戻ってきたのだ。しかも、鎮痛な面持ちで。
あの番犬のような顔を、痛ましいくらい歪めている写字長。これが声をかけずにいられるだろうか。――椿には、できない。できなかった。
「もう今日は家の番しなくていいから、お休み」とうっかり言いそうになったが、彼は上司。犬ではない。なんとか言葉を呑み込み、「も――……も……も、戻られたんですね、写字長」と口にする。
(危ない危ない)と冷や汗を滂沱と流しつつ、平静を装うことに全力を注いだ。
なにやら隣にいる梓は椿の心内を察したのか、笑いを堪えているようだが、それが余計に恨めしかった。椿が横目で睨むと、「ごめんね」というように梓は片目を瞑った。
写字長はこめかみを揉んでいたが、梓へと視線を向ける。
「……防衛局長殿、でよろしいですか?」
梓はにっこりと笑んで「はい、以後お見知りおきを。写字長殿」と返す。
「……こちらこそ、よろしくお願い致します。防衛局長殿は、今日はこれから仕事ですかな?」
「いいえ、今日は下見だけです」
梓の答えを受けると、写字長は彼に生えた犬耳と犬尻尾を哀れそうな目で見つめた。写字長はきっと、梓の愛嬌ある容姿であるからこのふわふわとした、垂れた犬耳犬尻尾が似合っているが、自分に生えたら……と考えたのだろう、と椿は上司の心を深読みする。
「その犬耳と犬尻尾は、ご自分で治せますか?」
あの直球な番犬写字長がなにやら躊躇いながら紡いだ言葉に、椿は驚きながらも梓を見やる。彼は肩を竦めて見せた。
「そうですねぇ……どっちにしろ、俺にはこれが必要なので、魔法を解く必要はありません」
そこで、椿はハッと顔をあげた。
思えば、椿と梓の出身村は、防護力を謳う集落である。油断した結果とはいえ、魔法がかけられたまま集落に帰れば、村は梓を不名誉だと言い、立ち入りを許さない可能性が高い。これは、梓にとって、こちらに残る言い訳になるのだ。犬耳犬尻尾を持った彼に対し、集落の者たちは無理に帰って来いといわないだろうから。
(……つまり、梓の犬耳犬尻尾をなくせば、こっちに残る言い訳はできない。つまりのつまり……追い出したいなら、梓を令嬢のところに連れて行くべし。……いやいや、それは危険か。フロー様に関するなにやらがもしなんらかのきっかけでバレでもしたら…………ひぃぃぃぃっ)
独り、蒼白になりながらも顎に拳をあてて椿が考え込んでいると、写字長はようやくこめかみから手を離した。
「……わかりました。……椿、もう帰りなさい」
「はい――――――――えっっ!?」
ついうっかり考え事をしていたがために頷いていまったが、突然の早退命令に椿は驚愕する。
目を白黒させる彼女に、写字長は告げた。
「魔術師は皆、魔法をかけられた犬……否、フローライト殿下のご側近殿を追いかける方に貸し出されている。本にかかっている魔法を解いている場合ではないということでな……仕事が打ち止め状態だ。他の者ももう帰らせるから、お前も帰りなさい」
そうして苦笑した写字長は、やつれていた。
実は初めて椿の前で笑んだ写字長は、本来ならば口から心臓が飛び出るほどの衝撃と価値があるが、どうにも今回は悲壮感甚だしいため、うっかり流してしまった。
椿と梓の前から去り行く写字長の後姿を眺めて、梓は呟いた。
「……きっと、彼もこれから犬の捜索なんだろうね」
その言葉に、ふと、椿は思い出す。それは、他部署の青年官吏がしていたしがない会話。
『……なんだろうね、もう、犬だらけな王宮とか。やっとこさ国家公務員になって、両親も涙目で喜んでたのに……こんな現状知ったら違う意味で泣くだろうなぁ』
きっと、写字長も心の中でこう思っているだろう、と椿は同情した。
そうして、写字長の命令通り、帰ろうと箒通勤者用の箒置き場に向かっていると、なぜか隣を梓が並んで歩いている。
椿は歩をとめることなく、ただ前だけを見て言った。
「梓、下見するならここで解散。帰るなら、自分の家にさっさと帰りなよ。防衛局長なら、下っ端官吏みたいな寮じゃなくて、お邸とか与えられてるでしょ?」
皮肉を込めてみたが、さすが防護力を誇る梓である。魔法を使わずして嫌味からをも身を守る精神力と聞き流し力を持っているようだ。
「下見は終わった。言い忘れてたけど、椿の家に住むことにするから、一緒に帰ろうと思って」
――突如、椿の足は止まった。
(ちょ……え、え? 今、なんて?)
椿は聞き間違いだろう、と耳の穴に小指を突っ込み、ほじってみた。年頃の乙女が王宮の回廊のど真ん中でする行為ではないが、椿にはどうでもよいことだ。
小指の先を見て、耳垢がついていないことを確認すると、一応首を傾げて頭を叩き、奥に溜まっている耳垢をとる努力もしてみる。が、耳垢がとれてくる様子はなかった。
(まぁ、こまめに耳掃除してるし。……じゃあ、空耳か、そうか、そうに違いない)
腕を組みながら独り頷いている椿に、長年の付き合いである梓は続けた。
「ちなみに、聞き間違いでも空耳でも幻聴でもないよ。俺は、椿の家に、一緒に住むからね」
区切って強調するように言った梓の言葉に、椿は頭を抱えた。
「ちょっ――なに勝手言ってるの!? あの家は一人用! つまり、もう定員いっぱいなの! だから」
「ああ、そっか。でも、大丈夫だよ。人間は椿一人だから」
「え」
「――犬(仮)がもう一人増えるくらい、いいよね?」
「…………」
椿の顔色は蒼白を通り越し、土気色に変色していった。
この口ぶり……明らかに、梓はフローの存在を知っている。しかも、椿の家に住みついていることを、だ。
ごくり、と唾を呑み込み、引き攣る口元をなんとか押し上げて笑みをつくる。
「……あ、あの……梓、さん? なんで知って……」
下手に出てみると、見慣れた無邪気な笑みで返された。犬耳もうきうきと揺れている。
「城に来る前に、椿の家に寄ったんだ。黄金色の毛並みに灰青の瞳のきれいな犬(仮)だ――」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!!」
椿はあわてて梓の口をふさぐと、挙動不審に周囲を見回した。
(だだだ大丈夫だよね、誰もいないよね、ご令嬢とその関係者いないよねっ。フロー様のことを知られでもしらたら……私は殺されるかもしれない!!)
知らず、目に涙が溜まる。
殺されるために、村を出たわけではないのに――なぜか幸せな未来が思い描けなかった。
涙目で梓の目を見つめ、首をがくがくと左右に振る。
そのあまりにも必死な椿の様子を見受け、梓は椿が秘密にしたいことを察する。口を塞ぐ彼女の手に己のものを重ね、ゆっくりと外す。
そして、紫の瞳に心の声をのせ、口角をあげた。
「一緒に住んでいいよね?」
「……………………はい」
梓の(頷かないと、喋っちゃうよ?)という心の声は、一言一句違えることなく、椿の心に届いた。
*** *** ***
そうして、現在に至るのである。
椿は意を決し、自分の住処である扉を叩く。
「つ、つつつ椿です……」
もはや、凶悪ななにかの巣窟の扉を叩いた、そんな心境だ。
祈るように手を組み、扉を見つめていると、それは少しずつ開かれた。
「おかえりなさい、椿」
そう言って迎えてくれたのは、女性ならば見惚れずにはいられない色気を放つ青年。ただし、犬耳と犬尻尾を持っているが。
だが、椿の視線は、彼の犬耳と犬尻尾にそそがれた。
(……ひぃぃぃっ。いつもは尻尾がちぎれそうなほど振られてるのにっ。今、全っ然まったくこれっぽっちも揺れてないんですけどっ! むしろ牽制するかのごとく毛が逆立ってるんですけどっ!)
胃がきりきりと痛み、悲鳴をあげはじめた。椿が無言を貫いていると、フローは梓を一瞥し、ため息をついてまた視線を椿に戻した。
「――椿、変なものを拾ってきて、駄目じゃないですか」
まるでおどけたような口調だが、騙されてはいけない。今、彼の表情は生きる冷酷非道が微笑んでみました、という人と環境に易しくない笑みが浮かべられているのだ。
「は、ははは、はぁ……すみません」とは答えたものの、椿は(あの、ご自分は棚上げですか?)と心中で突っ込んでしまう。
それでも、もはや独り地震を体験しているかのごとく、がくがくと身震いしている椿が瞬間冷凍できるだろう笑みから視線を逸らそうと俯くと、梓が一歩前に出た。
「さっきぶり、だよね? 俺は梓っていうんだ」
フローとは異なる無垢な微笑に好感を持ってしまいそうになるが、彼の口にはいつだって手榴弾が仕込まれていることを忘れてはならない。
梓は隣で地面を見つめている椿を見下ろすと、和やかに言い放った。
「なんかこういうのもいいね、椿。小さな一軒家に、新婚ほやほや夫婦。蜜月を味わいたいから子どもはまだといいとして、でもかわりに大きな犬(仮)で生活に香辛料、みたいな」
(ひぃぃぃぃぃぃぃ!! あず……あずささんっ、あなたなんてことをぶちかましてくれちゃってんですかぁぁぁぁぁ)
牽制なのか、素なのか。椿にはわかりたくもなかった。ゆえに、顔を見れば真実がわかってしまうと悟り、顔はひたすら地面と対面中である。
それでも、冷気は感じてしまう。くすり、という小さな笑声は、間違いなくフローのものだった。
「…………もちろん、犬(仮)というのは、あなたのことですよね? 梓さん?」
(やややややや、もう、このわざとらしい疑問符口調とか、おやめになってぇぇぇぇぇぇ)
いったいなぜ自分はこんな事態に陥っているのか、と椿は独り現実逃避する。
一人の女に二人の男。この展開、乙女が好む物語ならば、「私のために争わないでぇ~」という女と、「それでも男にはやらなきゃならない時があるんダゼ」「必ずお前を取り戻すゼ」という、なにやら乙女が憧れるだろうものが待っているはずなのに。
(憧れない。断じて私は憧れない!! というか、あの「拳で勝者を決めるゼ」な展開は筋肉系男子同士じゃないと成立しない展開なんじゃないだろうかっ! な、なんてことだとぉぉぉ)
現実世界では、梓がくすくすと笑って「冗談がうまいなぁ」と言っているが、椿は悟りを開いている真っ只中。
それでも、突っ込みはかかさなかった。
(筋肉、拳以前に、どっちも犬(仮)だしね? ちゃんとした人間、私だけだしね? 第三者が見たら……私、危ない趣味の人に見られるんじゃ…………)
考えてみれば、椿は美青年に犬耳犬尻尾を強要している風にみられないこともない。いまさらながら、ここ最近、箒通勤中に向けられる近隣住民の視線が鋭い気がする。
冷や汗は、もはや脂汗に変わっていた。
(あああああ! ご近所付き合いがぁぁぁぁぁぁ! 村八分にされたらどうしようぅぅぅぅぅぅ!)
集落を飛び出してきた椿であるが、今の生活が気に入っているため、今住んでいる場所での村八分は困る。情報網は生活するうえで非常に重要なのだ。
(これは……どうするべき? やっぱり梓とフロー様に贈る、恋の媚薬作戦しか……っ)
氷河期を招きかねない犬(仮)、そして、心を守ろうと現実逃避した結果、独り恐慌状態に陥った写字生。
こうして、椿の気苦労は増え、彼女は犬(仮)二人との生活が始まるのであった。
彼女らが今後どのような顛末になるのかは、このときはまだ、誰も知りえないことである。