7.写字生のそんな理由。 (1)
現在の椿は、事なかれ主義である。
平穏と自由を望むただの一市民であるから、権力に逆らうつもりもない。
確かに、小さな不満はある。あるけれど、今の生活を手放してまでどうにかしたいというわけではない。
――守りたいのは、平穏と自由。
自分のことを自分で決める権利を、彼女はなにより守りたかった。
*** *** ***
椿が生まれた村を出たのは、十五歳になる前夜。
檻のような世界で生きるのは、息苦しかった。
他人に決められた未来を生きるのは、死ぬも同じだと思った。
――だから、逃げ出した。
それから一年、街で働きながら勉強し、国家公務員試験を受けたのは十七歳の時だった。
必死に勉強した結果、見事試験に合格。晴れて椿は王宮図書館所属の写字生となれたが、王宮内での格差は甚だしいものだった。
それでも、折角手に入れた職を手放すつもりなど毛頭ない。彼女には、一人で生きるすべが必要だから。
国家公務員になったことで定住した椿のもとに、定期的に届くようになった手紙。
それは、彼女の村からだった。
手紙に同封される見合いの釣り書きには、いつだって同じ名前が記されている。
――どこに行っても逃げられないと、言われている気がした。
――まるで、覚悟の程を試されているような気がした。
*** *** ***
――その集落は、国の中でも珍しく、中央権力がもっとも弱く働く土地である。
それは、過去の歴史があったからだ。
村ができたのは二百年前。
二百年前までは国同士の大きな戦が幾多も起こり、どこもかしこも焼け野原状態であった。
そうして終戦を迎えると、戦に疲れた一部魔術師はその土地に住みつき、集落として拡大していく。
彼らは皆保守的であり、その性格が影響しているのか魔法も防衛術を得意としていた。そのため、村をつくると中央から距離を置いた。
何度も王宮からは魔術師を輩出するよう要請された。
けれど、かつての功績を盾にして、拒み続けた。
――本当は、穏やかに、静かに生きられるようつくった村だった。
しかし、二百年という月日は、色々なものを変えてしまった。
村では、幼い子どもたちが集って遊ぶ姿が見受けられる。
太陽が頂上にある日中は、村にただ一つある学び舎にまだ通えない年頃の子どもたちが集まって遊ぶのだ。
その村では、魔力の強い者は防犯等の道具作りを、魔力の弱い者は野良仕事を生業として生活している。
内、村でも指折りの魔力を有す者は、集落内を治める一種の貴族的権力を持つことができたが、能力主義であるため、権力者の子どももそうでない子どもも共に遊ぶことが多い。
幼い頃の椿は、そうしてよく同世代の子どもたちと遊んだ。
二つのおさげを靡かせて駆け、日が暮れるまで友達と過ごした。
帰りが遅くなれば、両親は帰ってきた娘に苦笑し、優しく叱る。
痛くない拳骨を見舞う手は、よく日に焼けていた。
椿の両親は魔力が弱いため、農作業で生活をたてていたのだ。
――村は、平和だった。
犯罪など、遠い世界の事柄であるように。
いつだって秩序は守られていた。
それは閉鎖的であるがゆえであり、部外者が簡単に立ちいることはできない場所であったからに他ならない。
その閉鎖的社会がどう守られていたのか、当時の椿はまだ知りえなかった。
*** *** ***
椿の日常が地獄へと変わったのは、学び舎へ通い始めた頃だった。
初めての魔法の授業。
その日の内容は、箒で空を飛ぶ、というものだ。
初歩中の初歩。集落の者ならば誰しもできた。
はじめは戸惑った子どもたちであったが、魔法に慣れればすぐにできた。時間と共に上達した生徒たちは、どこまで高く浮くことができるか、という競い合いを始める者までいた。
――ただ一人、椿だけが、いつまでも空を飛ぶことができなかった。
能力主義の社会。
それゆえに、椿と同世代の子どもたちの間には大きな隔たりが生まれた。
ギクシャクした関係は、やがて虐めに発展する。
防護魔法を学び舎で教われば、帰りに彼らは、椿が加われない遊びをはじめる。
一人を標的にして小石を投げる遊び。危険極まりないが、防護魔法さえ使えれば小石は標的には当たらないから、子どもたちは誰も恐れることはなかった。
しかし、魔力が弱い椿は防護魔法が使えない。
椿が標的になれば、小石はいやおうなく彼女の小さな体を襲う。
魔法では身が守れず、手で頭を覆って蹲る。腰ほどまで伸びた黒髪のおさげは、小石についた土で汚れた。昔から視力が悪かったためにかけていた、黒縁の瓶底メガネは田舎村では高価であるため、必死に守らねばならなかった。
そんな彼女を取り囲み、子どもたちは暴言を吐き続ける。
「やくたたず! 村のはじだ! 出ていけ!」
「のうなしつばき!」
「まりょくが弱いやつは出てけ! 村のつらよごし!」
能無し、役立たず、恥さらし、面汚し。
常に言われ続けるその言葉に、幼い椿は耳を塞いで震えることしかできなかった。
石をぶつけられて、隙を見て逃げて、転んで。
起き上がることも億劫になって、うつぶせのまま生理的に流れる涙を地面に落とした。
不思議と、椿は当時、苛められて悔しい、という感情を抱いてはいなかった。”悔しい”と感じるのに必要な自尊心は、とうに喪失していたのだ。……恐怖心ばかりが、当時の彼女の心を占めていた。
虐められるようになってから、傷だらけで家に帰ると、両親はそっと椿を抱きしめるようになった。
「椿が悪いんじゃないわ」
そう言った母は、いつだってそっと頭を撫でた。
「大人になったらきっと、魔法がもっと使えるようになるさ」
そう言った父は、いつだって柔らかく慰めた。
けれど、椿は知っていた。
それは、椿が深い眠りについた頃。
厠に行きたくなって起きた折に、偶然見てしまったのだ。
――夜な夜な、両親は嘆いていた。
「私のせいだわ――っ。私の魔力が弱いから……」
そう言って、泣き崩れる母。
「君だけのせいじゃないっ。俺のせいでもある! 俺の魔力だって……っ」
そう言って、母を抱き寄せ震える父。
それを見た時、椿の心は凍りついた。
まさか、自分の魔力の弱さが家族まで不幸にするとは思っていなかったのだ。
――知ってしまった。
魔力が自分の人生も、家族の人生さえも左右する社会。
穏やかな両親の、本当の顔。
だから、椿は一人になると魔法の練習を死に物狂いで始めた。




