6.写字生、また犬(仮)を拾う? (3)
「椿、戻ってきたならさっさと入ればよかろうに」
渋い声で呟いたのは、死にそうな大型犬よりも犬によく似た上司。
(あ、番犬)と心中で思うも、口を閉ざしてなんとか押さえ込み、椿は上司を見上げた。
「写字長。この大型犬さん、魔法をかけられたフロー殿下の側近らしいんです」
言うと、いまだ死にそうな大型犬を上司は見やる。険しい……それはもう、紙が挟めそうなほどの深い皺を眉間に刻んだ上司は「……うむ」とだけ発して長い溜息をついた。
「……ど、どうしましょう?」
本来ならば、椿がこの大型犬を令嬢のところまで届けるべきだろう。
しかし、椿は令嬢と顔見知りになりたくなかった。接する機会が増えれば増えるほど、危機的状況に陥る率が高い気がするのだ。
そうした理由で上司へと指示を仰ぐと、上司は死にそうな大型犬を持ち上げた。
それはまるで、番犬が大型犬を持ち上げる図。
椿は直視してはいけない感情に駆られながら、上司の顔だけは視界の隅に映す。
「彼は私が連れていこう」
「あ、ありがとうございます。よろしくお願いします」
「わぉぉぉんっ。くぅ~ん、くぅ~ん」
何を言っているのかわからないが、大型犬が嫌がっていることだけはわかる。
大型犬が椿へと前足を伸ばす。
椿は顔を引き攣らせながら、「いってらっしゃい」と手を振った。
そうして「行ってくる」と歩みだした上司であったが、ふとなにかを思い出したように椿へと振り返った。
首を傾げる椿に、彼は言った。
「椿、来客だ。中にいるから早くしなさい」
誰が、という言葉もないまま、彼はまた前を向いて行ってしまった。
「……お前もほとほと男運が悪いな」という小さな小さな呟きが椿に聞こえることはなかった。
椿は図書室の扉から、静かに中へと入る。
――嫌な予感がした。否、嫌な予感しかしなかった。
直感があてになったことなど片手で数えるほどしかないが、珍しくその片手の日になるような、予感。
客がいるというのなら、おそらく仕事の邪魔にならない閲覧専用区域にある卓だろう。
そうあたりをつけ、拳を強く握りしめながら進む。
――そこは、本棚に隠れた閲覧専用区域。
本棚に隠れたそこに一歩踏み入れた椿は、刹那瞠目し、歩をとめた。
半開きの唇は微かに震える。
椿の黒い瞳が捉えたのは、闇色の長衣を纏った青年。
灰茶の髪はクセがついており、柔らかくうねる。青に近い紫の瞳は優しい色を帯びて細められる。
純朴で無害――整った顔立ちからは、そう窺える。
だが、椿が抱いたのは恐怖と当惑、そしてわずかな絶望だった。
顔色を失って佇む椿に、青年は穏やかに微笑んで席を立つ。
逃げたいのに、椿の体は凍りついたように動けない。
冷や汗が背筋を伝った。
ゆっくりと青年が歩み寄るたびに縮む、二人の距離。
緊張と動揺で痛いくらい激しい慟哭。
呼吸すらうまくできなかった。
目の前に立った青年は、椿の記憶にあるものよりも背丈が伸びていた。
彼の手が、椿の漆黒の髪を撫で、滑りおりるようにして頬を包み込んだ。
吐息がかかるほどの距離で、彼は囁く。
「――久しぶり、椿」
彼の瞳に映る椿は、怯えていた。
「……あず…さ」
なんとか言葉を紡ぐと、声は喉にひっかかって掠れた。
名を呼ばれたことに満足したのか、青年はクスリと破顔して一歩離れる。異性間で話す距離としてはこれが妥当だろう。
硬直する椿をほだそうとしているのか、青年は自分の頭へと手を伸ばす。
そしてつまんだのは――椿の見覚えのないものだった。
「ほら、椿、見て。犬耳」
見ればわかる。
だが、よく知っているはずの青年の頭に垂れた犬耳がついていることに、今初めて気づいた。それくらい、動揺していたのだ。
「どうしたの……それ」と小さく問えば、彼は苦笑を漏らす。
「ここへくる途中、なんか官吏同士で揉めてて。その一人が魔術師だったらしくて、流れ弾魔法でこうなったんだ。完全に犬になる前に魔法で身を守ったけどね」
答えを得た椿は訝った。
「……梓なら、そんな魔法くらい解けるんじゃないの?」
すると青年は肩を竦める。
「小さな村で一番の魔力を持ってたって、国一とは限らないってことだよ。俺でもこの魔法は完全には解けない」
彼の言葉を椿は信じられなかった。睨むように見据えれば、観念したかのように梓は言葉をつぐ。
「……それに、椿、犬、好きだよね?」
「……は?」
目を点にしながら、椿は考える。
(私、犬好きだったっけ? 嫌いではないけど、好きだった?)
記憶にはないが、どうやら彼の中ではそうなっているらしい。
「それに」と梓は続けた。
「それに、好きな人と両思いになれば魔法は解けるらしいから、問題ないよね? 椿」
梓はそう言うと、灰茶の髪を揺らして凄艶な笑みを浮かべた。