1.写字生、犬(仮)を拾う。
「おぉっっ」
ビリッと電流のような刺激を受け、奇声をあげる。
その声は、図書館に響き渡った。
奇声の主は、黒髪黒眼の娘。
彼女が着ている服は、王宮図書館所属の写字生を示すものである。
その世界は、魔法が存在していた。
けれど、それと引き換えに、人々は魔法に頼ることで文明の発展を遅らせた。
彼女が職としている”写字生”というのも、それゆえに未だ存在するのだ。
「……椿、また油断したのか。馬鹿もん。女の身なのに怪我をしたらどうする」
そう言って、天井にも届くような高さの、書架の陰から現れたのは上司だった。
「あ、写字長。心配おかけしました。大丈夫ですよ、ちょっとビリッとしただけです」
(相変わらずブルブルした番犬そっくりの顔立ちのくせに、デレおる)と心中呟きつつも、椿は頭を下げた。
すると、「……別にお前の心配なんぞしとらん。……本に問題がないなら、私は写字長室へ戻る」と告げ、そのまま本当に踵を返してしまった。
椿は大柄な後姿を見送りつつ、肩ほどの長さの黒髪を揺らして笑った。
――王宮図書館所属写字生。
それは、王宮の片隅――なんの比喩もない隅っこ――にある、図書館に勤務する写字生のことである。
活版印刷が登場したこの時代。
印刷本が世に蔓延りつつある。
しかし貴重品である古代の本は、鎖によって本棚と繋がれ、いまだ持ち出し不可になっている。きっと一生不可だろうけれども。
しかも、貴重であればあるほど、本には強力な魔法がかけられているため、図書館から持ち出そうものなら命も危うい。
それでも、本の知識を必要とする場合があるため、本が外へ持ち出せないのは大変不便なことだ。ゆえに、貴重な本の複製本を作ることになった。
開くにも魔力を要すこの、本にかけられている魔法を一時的に解く役目は、王宮図書館所属の魔術師に一任されており――では、写字生はなにをするかといえば、活版印刷するための本を羊皮紙に書き写す、という作業を役目としている。
専門用語や古代文字が登場するため、王宮図書館所属写字生になるための国家公務員試験には知識が必要となり、したがって試験は筆記に偏っている。
椿は苦虫を噛み潰した顔をして、手にしている本の表紙を開く。
(王宮魔術師め。……わざとだな)
眉間に皺を寄せたまま、羊皮紙に黒い文字を連ねていった。
王宮勤務といえば、国家公務員。世間ではその単語ひとつで好待遇だと思われがちだが、国家公務員の中にも格差は存在している。
例えば、魔法を駆使する王宮魔術師は高位身分で、魔力を必要としない写字生は下っ端のぺーぺー、というように。
だから、魔術師は腹癒せか、はたまた嫌がらせをする時、わざと本にかけられた魔法を完全に解かない場合があるのだ。今日の”ビリッ”はまさにそれ。
職務怠慢だ、と言ってやりたいが、昔からのことらしく、写字生の誰も口に出す者はいなかった。
――長いものには巻かれろ。
それが椿のここでの生き方。だから、彼女も何も言わない。
文句を言ったところで、「だったら自分で魔法を解け」と言われたなら、土下座して謝るしかないからだ。
奥歯を噛みしめつつ、本文の文字に視線を走らせる。同時に、右手のペンは文字を描き続ける。
椿が訳し書き写すのは、童話や民話といった類の本である。
写字生には担当が決まっており、椿の担当がそれなのだ。他に科学担当や芸術担当もいるが、各々の得意分野に割り振られる。
途端、椿は口を歪ませた。童話や民話が得意分野だといっても――好きな物語傾向と、嫌いな物語傾向がある。ちなみに、今回は後者だ。
「うー……異類婚姻譚、きたぁー」
溜息をこぼす。
文字通り異類と結婚するという異類婚姻物。
今まで椿が訳したものでは、蛙と人間の結婚物語、が挙げられる。
蛙と人間の結婚物語は、蛙に変えられた王子様がお姫様に壁に投げつけられ、人間に戻って結婚した、という内容だ。
椿は思った。
(どんな被虐趣味な王子だ!)と。
理解できなかった。理解したいか、と問われれば別にしようとも思わないが、とにかくできなかった。
(あーあー、またかぁ。……今度は犬)
お姫様が忠犬との子を孕み、その子どもたちが国を救うお話。
(爬虫類よりはいいか。……いや、現実的なところがより駄目だわ)
拒絶反応を払拭させるために首を横に振り、その後椿は盲目的に仕事を続けた。
異類婚姻譚は理解できない。
そう考えていた椿。
そんな彼女がその日、犬(仮)を拾うことになるとは――この時はまだ予想だにしていなかった。