第2話 舞踏会の準備は面倒です 2
その夜。
私は研究室で、魔法書を読んでいた。
いや、正確には「読もうとしていた」が正しい。文字が全然頭に入ってこない。頭の中は、舞踏会のことでいっぱいだった。
コンコン、とノックの音。
「どうぞ」
扉が開き、入ってきたのは――カイル・アッシュフォードだった。
銀髪に灰色の瞳、眼鏡をかけた知的な雰囲気の男性。王城の侍医として働いている。
「こんばんは、セリア様」
カイルが穏やかに微笑む。
「カイルさん、こんな時間にどうしたんですか?」
「少し、お話ししたいことがありまして」
彼は部屋に入ってくると、椅子に座った。
カイルとは、一年ほど前に知り合った。私が魔法実験で怪我をした時、彼が治療してくれたのだ。
それ以来、時々研究室に遊びに来るようになった。彼は医学だけでなく、魔法にも詳しくて、よく魔法談義をする。
そして――彼も、私の本性を知っている一人だ。
「舞踏会のこと、聞きましたよ」
カイルがにっこり笑う。
「レオンハルト団長とダンスされるとか」
「え、ええ……」
「楽しみですね」
「まあ、そうですね……」
何だか、カイルの笑顔が意味深に見える。
「セリア様」
「はい?」
「一つ、忠告してもよろしいですか?」
カイルが眼鏡を直しながら、真剣な表情になった。
「忠告……?」
「ええ。レオンハルト団長は、とても真面目な方です」
「それは知ってます」
「そして、聖女様を心から崇拝している」
「……それも知ってます」
「では、こうも言えるでしょう。彼は、『聖女』という存在に恋をしているのであって、『セリア』という女性を知らない、と」
「それ、ルークにも同じようなことを言われました」
「そうでしょうね」
でも、実際その通り。
レオンハルトは、聖女様としての私しか知らない。
清楚で、献身的で、神々しい聖女様。
でも、本当の私は――。
「もし、貴女様が彼と本当の関係を築きたいのなら、いつかは本当の自分を見せる必要があります」
「でも、本当の私を見たら、きっと幻滅されます」
私は俯いた。
「私、全然聖女らしくないから。いつも床に転がってるし」
「それが、貴女様の本当の姿です」
カイルが優しく言う。
「そして、それはとても魅力的だと、私は思いますよ」
「え……?」
顔を上げると、カイルが微笑んでいた。
「聖女としての貴女様も素晴らしい。でも、ぐうたらで、魔法愛好家で、クッキーが大好きな貴女様も、とても可愛らしいと思います」
その言葉に、顔が熱くなる。
「か、可愛いって……」
「ええ、可愛いです」
カイルがすっと立ち上がり、私に近づく。
そして、しゃがみ込んで、目線を合わせる。
「ですから、自信を持ってください。本当の貴女様を見せることを、恐れないでください」
そう言いながら手を握られる。
優しくて、温かい手。
その手つきは、医者らしく、優しい。
「レオンハルト団長が、どう反応するかはわかりません。もしかしたら、幻滅されるかもしれない。でも、もしかしたら……」
「もしかしたら?」
「本当の貴女様を、もっと好きになるかもしれませんよ」
カイルがにっこり笑う。
その笑顔は、どこか意味深で。
そして、優しくて。
「では、私はこれで。おやすみなさい、セリア様」
カイルは部屋を出ていった。
私は一人、彼の言葉を反芻する。
本当の自分を見せる。
それは、とても怖いことだ。
でも――。
もし、レオンハルトが本当の私を受け入れてくれたら。
それは、とても嬉しいことだろう。
――――――――
舞踏会の前日。
マダム・ロザリーが、完成したドレスを持ってきてくれた。
大きな箱に丁寧に包まれたドレスを、助手たちが運んでくる。箱を開けると、ふわりと良い香りがした。
水色のドレスは、仮縫いの時よりも更に美しくなっていた。細部まで丁寧に仕上げられていて、まるで芸術品のようだ。レースの一つ一つが完璧で、スカートの裾には小さな刺繍が施されている。
「ありがとうございます、マダム」
「いえいえ。明日、楽しんでいらしてくださいね」
彼女は優しく微笑んで、帰っていった。その後ろ姿は、職人としての誇りに満ちている。
私も部屋に戻り、ドレスがかけられたトルソーと向かい合う。
明日。 舞踏会。
レオンハルトと、踊る。
胸が高鳴る。
怖いけど、でも、楽しみで。期待と不安が、半分ずつ。
その時、窓の外から声が聞こえた。
「魔物だ! 南門に!」
また?
最近、本当に魔物が多い。
私は窓を開けて、外を見る。
南門――いつもと同じ、商人街に近い門だ。また森から魔物が出てきたらしい。遠くに、魔物の魔力を感じる。
嫌な波動が、風に乗って伝わってくる――「ナイトジャガー」だろうか。中級魔物で、夜になると力が増す厄介な相手だ。その黒い毛皮は闇に溶け込み、素早い動きで獲物を襲う。
でも、私にとっては――。
「聖なる光よ、闇を払いたまえー」
光の矢を放つ。
一撃。
ナイトジャガーは消滅。金色の光に包まれて、空気に溶けていく。
はい、終わり。
でも、何だか引っかかる。
最近の魔物、多すぎない?
今週だけで、もう五回も出現してる。月曜日に一回、火曜日に一回、水曜日に二回、そして今日。
普段は、月に一回あるかないかなのに。
まるで、誰かが森から意図的に誘導しているみたいに。
何か、おかしい。
その時、研究室の扉が開いた。
振り向くと、アレックスが立っていた。
彼の表情は、いつになく真剣だった。紫の瞳が、暗く光っている。
「セリア」
「どうしたの、アレックス?」
彼の様子がいつもと違う。いつもの飄々とした雰囲気がない。
「話がある。重要な話だ」
彼は部屋に入ってくると、扉を閉めた。そして、鍵をかける。その動作一つ一つが、今回の話の深刻さを物語っている。
そして、私の目をまっすぐ見つめて言った。
「魔物の出現が増えてる件だが……偶然じゃない」
「え?」
「誰かが、意図的に魔物を王都に誘導してる可能性がある」
その言葉に、背筋が凍った。
意図的に? 誰が? なぜ?
「それって、どういうこと……?」
「ああ、王都に、敵がいるかもしれない」
アレックスの瞳には、深刻な懸念が宿っている。
「そして、その標的は――」
彼は一瞬、口を閉ざした。
そして、重々しく告げた。
「お前かもしれない、セリア」
その瞬間、世界が静止したように感じた。
私が、標的?
頭の中が、疑問でいっぱいになる。心臓が激しく鼓動している。
「詳しいことは、まだわからない。でも、明日の舞踏会、気をつけろ」
「舞踏会……?」
私の声が震える。
「ああ」
アレックスが窓の外を見る。その横顔は、深刻そのものだ。
「明日の舞踏会には、王国の重要人物が大勢集まる。国王陛下、王妃様、王子たち、大臣、貴族」
「それが……何か関係あるの?」
「騎士たちは、その全員を守らなければならない。レオンハルトも、王族や貴族の護衛に人員を割く必要がある」
アレックスが私の方を向く。
「つまり、お前の護衛が手薄になる」
その言葉に、はっとする。
「普段なら、お前が魔物を倒す時は、研究室という安全な場所から魔法を使う。でも、明日は違う。お前は大広間にいて、周りには大勢の人がいて、騎士たちは護衛対象が多すぎて分散している」
「……」
「もし敵がお前を狙っているなら、舞踏会は最高の機会だ。お前は安全な場所にいない。騎士たちは手薄。そして、周りには人質になりうる人間が大勢いる」
アレックスが私の肩に手を置く。その手は力強く、でも優しい。
「俺も、そしてレオンハルトも、お前を守る。でも、警戒は怠るな。何かあったら、すぐに逃げろ」
「でも……みんなを置いて逃げるなんて」
「お前が狙いなら、お前が逃げれば敵もついてくる。その方が、他の人たちは安全だ」
その言葉に、少しだけ納得する。
でも、不安は消えなかった。
明日の舞踏会。
レオンハルトと踊る、あの舞踏会。
楽しみにしていたのに。
今は、恐怖の方が大きくなっていた。
「わかった……気をつける」
「ああ。そして――」
アレックスが少し表情を緩める。
「舞踏会も楽しめ。せっかくのドレスだ。レオンハルトとのダンスも、楽しみにしてたんだろ?」
その言葉に、顔が熱くなる。
「な、何でわかるの?」
「お前の顔を見れば、な」
アレックスが少し笑う。その笑顔は、いつもの飄々とした彼に戻っている。
「だから、楽しめ。俺たちが守る」
「……うん。ありがとう、アレックス」
彼が部屋を出ていく。扉が閉まる音が、静かに響く。
私は一人、窓の外を見つめた。
夜空に、月が浮かんでいる。
満月まで、あと少し。明後日には満月になる。
誰かが、私を狙っている。
魔物を操って、王都に送り込んでいる。森の魔物を、意図的に誘導している。
そして、明日の舞踏会で何かが起こるかもしれない。
楽しみにしていた舞踏会が、今は不安でいっぱいだ。
レオンハルトと踊ること。
それだけを楽しみにしていたのに。
私は深いため息をついた。
でも――負けない。
誰が何を企んでいるのかわからないけれど、私には守りたいものがある。
この王都。
人々。
そして――。
レオンハルトとの、初めてのダンス。
それを、誰にも邪魔させない。
私は拳を握りしめた。
窓の外では、月が静かに輝いている。
その光は美しいけれど、どこか不安を煽るようにも見えた。
―第2話 終―




