第1話 研究室でお昼寝中です 3
翌日の午後。
私は聖女らしく――つまり、清楚で優雅で神々しく――研究室の椅子に座っていた。
レオンハルトさんを迎える準備に一時間かかった。
まず、床に散らばった魔法書を全部片付けた。いや、「片付けた」っていうか、ベッドの下に押し込んだ。見えなければOK。実験道具も一箇所にまとめた。
脱ぎ捨てた服も回収、食器も片付けた、侍女のマリアが。彼女はいつも私の世話をしてくれる優しい女性だ。
髪は丁寧にとかして、聖女の証である白いローブを着て、背筋を伸ばす。
白いローブは絹のような柔らかい生地で作られていて、胸元には金色の刺繍が施されている。聖女の象徴である光の紋章だ。
内心では「早く帰ってくれないかな」と思いながら彼を待ち受ける。
コンコン、とノックの音。
「セリア様、レオンハルト団長がお見えです」
マリアの声が聞こえる。
「どうぞ」
できるだけ優しげな声で答える。この声の使い分けも、もう慣れたものだ。
扉が開き、レオンハルトが入ってきた。
銀色の鎧に、王国騎士団の紋章が刻まれたマント。深い青色のマントは、彼の碧い瞳と同じ色だ。腰には立派な剣。柄には宝石が埋め込まれていて、それが光を反射して輝いている。完璧な騎士の装いだ。
そして、その姿は絵画のように美しい。
「失礼いたします、聖女様」
彼は片膝をついて、恭しく頭を下げる。金色の髪が、動きに合わせて揺れる。
うわぁ、やっぱり重い。
「レオンハルト団長、どうぞお顔を上げてください」
「ありがとうございます」
彼が顔を上げる。相変わらず、絵に描いたような美青年だ。金色の髪が陽の光を反射して輝いている。碧い瞳は真っ直ぐで、嘘をつけなさそうな誠実さに満ちている。整った顔立ちは、まるで彫刻のようだ。
ああ、こういう人、苦手だ。眩しすぎる。
「昨日の魔物退治の件で、心よりお礼を申し上げたく参りました」
レオンハルトの声は低く、落ち着いている。騎士らしい、力強い声だ。
「いえ、当然のことをしただけですから」
聖女スマイルを浮かべながら答える。この笑顔も、何度も練習したものだ。内心では「クッキー食べてただけだけどね」と思いながら。
「いいえ! あの距離から、しかも一撃で中級魔物を……まさに神の御業でした。おかげで、町の人々も騎士たちも無事でした。本当に、ありがとうございます」
レオンハルトの目がキラキラしている。その碧い瞳には、純粋な尊敬の念が宿っている。
やばい、これ以上崇拝されたら、本性がバレた時の反動が怖い。
「それほどでも……」
「いえ、それほどです。私は改めて、聖女様の偉大さを実感いたしました」
どうしよう、止まらない。彼の熱意は本物で、言葉一つ一つに真剣さが込められている。
「あの、レオンハルト団長……」
「はい!」
彼が即座に反応する。その姿勢は、まるで兵士のようだ。
「お忙しい中、わざわざありがとうございました。でも、もうお戻りになって大丈夫ですよ」
早く帰ってくれないかな、というオーラを全開にする。でも、彼には伝わらないかもしれない。
でも、レオンハルトは首を横に振った。
「実は、もう一つお話が」
「はい?」
「来週、王城で舞踏会が開かれます。そこで、聖女様にご出席いただきたいのです」
舞踏会。
その単語を聞いた瞬間、私の脳内で警報が鳴り響いた。
面倒くさいイベントの匂いがする。
王城の舞踏会は年に数回開催される。春の舞踏会、夏の舞踏会、秋の収穫祭、冬の祝祭――それぞれの季節に合わせて、貴族たちが集まって、踊って、社交する場だ。
私も聖女として、時々出席を求められる。正直、苦手だ。知らない人に話しかけられるし、ずっと「聖女様」を演じなきゃいけないし。しかも、ドレスを着て、ハイヒールを履いて、何時間も立ちっぱなし。疲れるんだよね。
「あの、私、踊りとか得意じゃなくて……」
「大丈夫です。私がエスコートさせていただきます」
レオンハルトが立ち上がり、私の前まで歩いてきた。その足音は重厚で、でも優雅だ。
そして、すっと手を差し伸べる。その手は大きくて、騎士らしく力強い。
「聖女様、どうか私に、貴女様をお守りする栄誉をお与えください」
その真っ直ぐな瞳。
その誠実な微笑み。
その騎士らしい立ち振る舞い。
ああ、これ、物語だったら絶対に王子様役だ。でも私は姫様じゃなくて、魔法オタクのぐうたら聖女なんだよね。
「……わかりました。お受けします」
断る理由も思いつかなかったし、これ以上話を長引かせたくなかった。それに、あの真っ直ぐな瞳で見つめられると、断りにくい。
「ありがとうございます!」
レオンハルトの顔がぱあっと明るくなる。
まるで少年のように無邪気な笑顔。その笑顔は、さっきまでの真面目な表情とは違って、とても柔らかい。
その瞬間、私の心臓が、小さく跳ねた。
え。
今の、何?
「それでは、来週を楽しみにしております。失礼いたします、聖女様」
レオンハルトは再び恭しく礼をして、部屋を出ていった。マントが優雅に翻り、扉が静かに閉まる。
私は一人、椅子に座ったまま、自分の胸に手を当てる。
ドクドクと、いつもより速く鼓動している。
「……なんで?」
私、こういうの興味ないはずなのに。
恋愛とか、今まで全然縁がなかったのに。孤児院にいた頃も、聖女になってからも、そういう感情を抱いたことはなかった。
魔法研究以外に興味を持ったことなんて、なかったのに。
なんで、あんな笑顔一つで、心臓が騒ぐの?
私は頭を抱えた。
「これ、もしかして……」
恋、ってやつ?
いやいやいや、ないない。絶対ない。
私はぐうたら魔法オタクで、聖女の仮面を被ってるだけの普通の女の子で。
騎士団長なんて、高嶺の花すぎるでしょ。身分も違うし、立場も違う。彼は名門貴族の出身で、私は孤児院育ち。
それに、私の本性を知ったら、絶対に幻滅される。
床に転がってクッキー食べてる姿とか、見られたら終わりだ。
「……うん、気のせい。絶対気のせい」
そう自分に言い聞かせて、私は魔法書を開いた。
でも、文字が全然頭に入ってこない。
頭の中には、あの金色の髪と、碧い瞳と、無邪気な笑顔ばかりが浮かんでくる。その笑顔が、心の中で何度も再生される。
「……やばい」
私は顔を覆った。
「これ、本当にやばいかもしれない」
その時、窓の外から、また騒ぎ声が聞こえてきた。
「魔物だ! 南門に!」
「誰か、聖女様を!」
はぁ……。
また森から魔物が出てきたのかな。最近、本当に多い。
私は立ち上がり、窓を開ける。
南門には、昨日より大きな魔物――「レッドベア」が暴れていた。体長五メートルはある、真っ赤な巨大熊。上級魔物だ。その毛皮は炎のように赤く、鋭い爪は岩をも砕く。
でも、私にとっては変わらない。落ち着いて狙えば問題ない。
「はいはい、聖なる光よ、闇を払いたまえー」
光の矢を放つ。一撃。
レッドベアは消滅。金色の光に包まれて、空気に溶けていく。
はい、終わり。
「聖女様、ありがとうございます!」
下から感謝の声が響く。
私は手を振って、窓を閉める。
そしてふと、さっきレオンハルトが立っていた場所を見た。
「……舞踏会、か」
面倒くさいけど。
でも、ちょっとだけ。
ほんのちょっとだけ。
あの人と踊るの、悪くないかもしれない。
そんなことを思ってしまった自分に、私は頭を振った。
「だめだめ、私は魔法研究に専念するんだから!」
そう言いながら、私は再び床に座り込み、クッキーを頬張る。
でも、心の奥底では。
来週の舞踏会を、少しだけ楽しみにしている自分がいた。
――――――――
その夜、私は研究室で新しい魔法の開発に取り組んでいた。
月明かりが窓から差し込み、部屋を柔らかく照らしている。机の上には、魔法陣を描いた羊皮紙が広げられている。
「ドレスを自動的に着付けてくれる魔法」。
来週の舞踏会のために。
面倒くさいから、じゃない。
ちょっとだけ、綺麗に見せたいから。
誰に、とは言わないけど。
金色の髪で、碧い瞳で、無邪気な笑顔の――。
「……やめやめ、考えるな」
私は頭を振って、魔法陣に集中する。
羽根ペンを走らせる。複雑な幾何学模様が、少しずつ形になっていく。
物を動かす魔法と、形状認識の魔法を組み合わせて――。
「ここの魔力の流れをこうして……」
描きながら、どんどんアイデアが湧いてくる。
楽しい。
やっぱり魔法研究は楽しい。
恋とか、そういうのより、魔法の方が百倍面白い。
……多分。
――――――――
そんな様子を、廊下の影から見ている人物がいた。
宮廷魔術師のアレックス・ブラック。
彼は壁に寄りかかり、腕を組んでセリアを見ている。その表情は、いつもの飄々とした様子とは違う。真剣で、どこか寂しげ。
彼は小さく笑うと、誰にも聞こえない声で呟いた。
「ようやく、か」
そして、懐から一冊の古い魔法書を取り出す。
表紙は黒く、ところどころ擦り切れている。古代文字が刻まれていて、触れるだけで魔力を感じる。
表紙には、古代文字でこう書かれていた。
『聖女の祝福と、失われし真実について』
「セリア、お前は……」
アレックスの紫の瞳が、月明かりを受けて妖しく光った。その瞳には、複雑な感情が宿っている。期待、不安、そして――少しの悲しみ。
彼は魔法書を懐にしまうと、静かに廊下を歩いていった。その足音は、夜の静寂に溶けていった。
―第1話 終―




