ドグラニスタ
影の中心には──何かが立っていた。
巨大でもなかった。
派手でもなかった。
ただ、黒く、ただ、静かだ。
ただ、こちらを見ている。
複眼でもない。甲殻でもない。
それは間違いなく、人の形に近い何かだった。
影が、また一歩。こちらに踏み出した。
ダンジョンの空気が、一瞬で凍りつく。
マクがかすれた声で言った。
「……ミル……絶対に……動くな……」
俺は息を呑む。
阿鼻叫喚の冒険者たちが遠くへ逃げていく中、間違いなくその影は俺の方にまっすぐと歩いていた。
影が、ゆっくりと手を伸ばしていた。
間違いなく、その手は、俺に向かっていた。
俺はじわっと、後ずさる。
影の手が、俺の顔の前まで迫った──そこで、止まった。
影が、俺を見ている。
一つの目のような無数の「目」が、闇の中で光っていた。
空気が細く、震えた。
ダンジョンの温度が瞬く間に下がり、俺の吐息が白くなる。
嫌な予感が、背骨を這い上がる。
次の瞬間──ダンジョンの壁が、音もなく裂けた。
空気が重く沈み、肺が動かなくなる。
「……なんでこんなに目ばかりが……?」
眼前には──先ほどとは異なる巨大な「目」が現れていた。
その巨大な目に見られた瞬間、思考が凍りついた。
ただの恐怖じゃない──存在そのものを否定されるような圧が明確に、あった。
「ミル!!」
マクの叫び声が、聞こえた。
闇が、俺を飲み込もうとしている。意識が、遠のいていく。
胸の奥が、ひどく痛い。焼けるように、痛い。
「……な、なんだよ……お前……」
影は答えない。
ただ、俺を見ている。
そして──影が、闇が、ゆっくりと形を成していく。
無数の目が、闇の中で蠢いていた。その全てが──俺を見ている。
俺の意志に反して、足が棒になったように、動かない。
「おい、ミル。こっちに任せろ」
マクが拳を握り、もう片方の手に剣を握っている。
リゼも剣を構えた。「うん、私に任せて」
マクもリゼも強がっているとは、二人の身体の強張りから、よく分かっていた。
先ほどの戦闘を見ていたからこそ、二人の身震いがより顕著に見受けられ、それが──俺の心もひどく揺らしていた。
マクは剣を握りしめたまま、震える声で言った。
「あいつが……このダンジョンを統べる影だ」
マクの言葉に呼応したように、闇の中の目が、ゆっくりと開き、口らしき何かが動いた。
『……ミル……』
頭の中に直接響くような声だった。
「轟覇一閃!!」
「祈刀天裂……」
同時だった。
マクとリゼが必殺技を繰り出そうとした初動が一致し、
「ぐっ……!」
「な、なに……これ……!」
と二人の膝が、崩れ落ちたタイミングもまた、一緒だった。
「マク!? リゼ!?」
闇が、二人の足元から這い上がっていく。
まるで、二人の力そのものを吸い取るようだ。
マクの拳が震え、リゼの剣が床に落ちた。
「……動けねえ……!」
「力が……抜けて……いくわ……!」
俺は震える足で、二人の前に立っていた。それが、精一杯だった。
『……ミル……』
声ではない。音でもない。
思考の奥に直接、冷たい指を差し込まれたかのような感覚だった。
脳をひどく揺らし、俺の見える世界が歪んだ。
床が波打ち、壁がねじれている。
その瞬間──闇が、止まった。
まるで触れてはいけないものに触れそうになったかのように、相手は、唐突に、止まった。
「ミル……お前……」
頭だけを持ち上げたマクが呆然と呟く。
「闇が……避けてる……?」
リゼも震える膝に手を添えたまま、俺を見つめている。
闇の目が、俺を見つめたまま、ゆっくりと後退していった。
『相変わらずだな、ミル・ミクロ。貴様は、厄介だ。滑稽だ』
「どういう意味だっ!」
俺は叫んだ。
マクの呼吸が聞いたことのないほどには、浅かった。
黒い闇が迫ってくる。
『だからこそ……ミル・ミクロ』
マクとリゼは地にひざ小僧をつけたまま、俺の横顔を凝視している。
強い視線を、頬に感じる。
『貴様を転生させたのだ』
「……戯言をほざくなっ!」
『相変わらず威勢がいいな、ミル・ミクロ。この真相を知るには、まだ……早い……。我が名は、ドグラニスタ』
今までより、もっと低い声音だった。
重力すら感じる、声だった。
『ダンジョンの最上階にて、貴様を待つ』
頭の中に、忌々しい声が響いていた。
その瞬間、頭がズキズキと痛み、俺は頭を抱え、悶えた。
『今回は周りの奴らに警告したかっただけだ……今は、ミル・ミクロの邪魔をするな……』
その声だけが、ダンジョン内のすべてを振動させていた。
『……観察は……順調だからな……』
「……ミル。あなた……本当に……何者なの……?」
リゼが青ざめている。
「……分からない。本当に何も……分からない。……記憶がないから」
『ミル・ミクロ……』
「おい、待て!!」
マクが、咆哮する。
『二度目の観察……開始だ……』
闇は霧のようにして、ふっと消えていた。
呼吸が浅くなる。空気が逆流したように感じられ、俺はせき込む。
「助かった……のか……?」
カランと剣を落としたマクの顔には、色が、なかった。
眉間の辺りが痙攣したかのように、小刻みに揺れ続けていた。
「ミル……。あんた本当に……何者……?」
俺は何も、答えられなかった。
ただ胸の奥が焼けるように、痛い。
「……ただの幸運な男だよ」
なんとか俺は笑って見せた。
それに釣られるようにして、リゼも笑い、マクも笑った。
だが二人とも、どこか顔は引きつっていた。
足の震えも止まらないようだった。
それでも三人で笑い続けた。
けれど、その笑い声だけが、俺にはどこか、遠くに聞こえた。




