変わらぬ意志
その声は、世界の底から響くような重さを持っていた。
黒い霧が揺れ、空気が押し潰される。
『ミル・ミクロ。貴様が魔王になれるなどと……人間どもは、随分と甘い夢を見ておるようだな』
魔王は、鼻で笑った。
その笑いは、世界そのものを嘲るかのようだった。
『魔王とは、強者の証だ。世界に選ばれし、唯一の存在だ。
お前のような若輩者が、簡単になれるものではない』
胸の奥が、ズキリと痛む。
『お前の運など、ただの副産物にすぎん。そもそも世界の境界が歪むのは──ミル・ミクロ。お前が運を吸い寄せる体質であるからだ』
「運を……吸い寄せる……?」
『そうだ。人間の幸運も、不運も、魔物の運命すらも──すべてお前に集まる。
だから魔物はお前を殺せず、人間もお前を殺せず、世界すら……お前を殺せん』
魔王は、俺を見下ろしながら言った。
『だが、それは魔王の資質とは違う。魔王とは、人間より圧倒的に上位の存在だ』
その瞬間──マクの足が、豪快に音を鳴らしながら、前へ出た。
剣と拳を同時に構え、魔王へ向ける。
「……てめぇ……俺を、無視すんなよ」
魔王は、愉快そうに目を細めた。
『そうだ。人間は弱い。脆い。儚い。そして──愚かだ』
その瞳が、マクに向けられる。
『そのように、あの娘も言っておったぞ。マク・マクロ』
「……あの娘?」
マクの拳が、音を立てて震えた。
魔王は、わざとらしく首を傾ける。
『ああ……あの娘だ。お前が守れなかった娘だ』
「なんだと……!!」
マクの呼吸が乱れる。
ひどい頭痛がし、俺は頭に両手を当てる。
「……おい。お前……どこで……彼女を見た」
魔王は、喉の奥でくくっと、笑った。
『ほう。まだ気づいておらんのか。哀れなものだ、人間は』
「答えろ!!」
マクが剣を振り下ろす。
地鳴りがし、魔王に剣技が放たれる。
『ミル・ミクロとは異なり、マク・マクロ。貴様は、前回の記憶を大分、有しているように思えたんだがな?』
マクの渾身の一撃を、魔王は肩をもみほぐすような動作だけで、避けていく。
「恋人のことは、まだ何も思い出せねえ……!」
マクが吠えた瞬間──魔王の周囲には、黒い霧が、爆ぜた。
「……恋人?」
俺の声は震え、ダンジョンもまた、ドグラニスタの威圧により震えていた。
『よかろう。真実を知りたいならば──力ずくで聞き出してみるがよい』
マクの拳が震え、その瞳が朱に染まる。
「……てめぇ……絶対に許さねぇ……!」
魔王は、ゆっくりと手を大きく、前に広げた。
『許すだと? 人間が、魔王を? ふはは……面白い。その怒り……その執念……まるであの娘と同じだな』
「……何だと……?」
『あの娘も言っておった。人間は弱い。だからこそ、まだ強くなれるともな』
マクの拳が震え、血が滴る。
「……ふざけんな……!彼女の言葉を……なんで、てめぇが……!」
魔王は、わざとらしく言葉を重ねた。
『あの娘は、こうも言っておったぞ。マク・マクロ』
マクの瞳が完全に朱に染まった。
魔王は、楽しそうに笑う。
『……きっと私を救えない、とな』
マクの感情の蓋が完全に取れ、爆発する。
「ぶっ殺すぞ……魔王……!!」
マクが地を蹴った瞬間、魔王は愉悦に満ちた笑みを浮かべる。
土の臭いではなく……血の臭いが、した。
『よかろう。人間の限界──見せてみよ』
二人の衝突が、世界を揺らした。
轟音──魔王は心から、楽しそうに笑っていた。
マクの拳は、剣は、ドグラニスタを確実に捉えていた。
『ほう……人間で、ここまでやるか。最も、強く──最も、儚いぞ。マク・マクロ』
マクの剣先が魔王の頬をかすめ、魔王の爪がマクの肩を裂く。
互角だった。
本当に、互角だった。
「マク……!」
俺は叫んだ。
魔王が、ちらりと俺を見る。
『ミル・ミクロ。お前は加勢しないのか?』
その瞬間──胸の奥が、ズキンと痛んだ。
視界が揺れ、世界が二重に見える。
激痛が、脳に走る。
記憶の蓋が、完全に、外れる感覚が、あった。
(……ミル兄……もう何も……思い出さないで……)
俺の脳裏には「別の戦場」があった。
そこでもマクと俺が、魔王と戦っていた。
黒い空。
赤い大地。
巨大な影。
銀髪の戦士。
泣き叫ぶ少女。
そして──俺自身の叫び声。
『ほほう……何かを思い出しかけておるな。ミル・ミクロ』
魔王がマクと戦闘しながらも、俺の方を見て、白い歯を見せた。
マクが暴れながら、叫ぶ。
「ミル!! ぼーっとすんな!!こいつは──!」
その瞬間、魔王がマクの首を掴んでいた。
『マク・マクロ。貴様は、幸せになりたいか?』
「……は……?」
『魔物を完全に駆逐すれば、人間は救われる。貴様の大切な者も──救われる。そう思うのか……?』
途端に、マクの瞳が揺れた。
「……それは……どうかな……」
黒い霧が、マクを包む。
「マク!!」
俺は、「マク!!」
何度も、強く、叫ぶ。
『薄情なものだ。闇に飲まれよ、人間』
マクの瞳が、黒く染まった。
「……ミル……本当に……すまねえ……な……」
嫌な音がして、マクは倒れ、地に伏せた。
刹那──胸の奥の光が、暴れ出す。
「……マク……!」
魔王がマクの方など見もせずに、ゆっくりと俺の方に向き直る。
『さて──ミル・ミクロ。お前はどう思う?
魔物を完全に滅ぼした世界で、人類は幸せになれると思うか?』
胸の奥が、熱くなる。
(……ミル兄……)
俺は、震える足で立ち上がった。
マクの側により、そっと地面に突き刺さった剣を握っていた。
「……俺は……」
魔王の瞳が、わずかに細まる。
「人間が、好きだ。仲間が好きだ。マクが、好きだ」
『ほう? では、魔物はどうだ?』
「……分からない」
魔王に、マクが落とした剣を拾い、向けていた。
例え、最弱でも──戦う意志は、ある。
「ただ俺は……人間も……魔物も」
魔王は、しばらく黙って俺を見つめていた。
「……みんなが共存できる世界にしたい。それだけだ」
『ふははは……!実に面白い』
しばらく場には奇妙な笑い声だけが、充満していった。
「どうして、そんな風に思えるんだ、魔王?」
俺が問うと、魔王はゆっくり視線を下に落とした。
その瞳は、底が見えないほど深く、暗かった。
『どうして、だと? ミル・ミクロ。貴様は……本当に何も覚えておらんのだな』
「……何を……?」
魔王は喉の奥で絞るようにして、笑い、指先で空気をなぞった。
黒い霧がその軌跡に沿って、揺れる。
『ミル・ミクロ。貴様は、人間と魔物の共存などという、愚かで、脆く、儚い理想を──』
魔王は一拍置き、 俺の心の中を見透かすようにして、言った。
『……何度、転生しても、口にする』
皮膚の下で光が暴れ、熱が走る。
楽しそうに、魔王は続けた。
『マク・マクロ。奴もだ。仲間を守る──そのためには手段を選ばない。その選択を、何度、聞いたか分からん』
倒れたマクの方へ、魔王は一瞥すら、向けない。
『だが、結末はいつも同じだ。貴様は誰も守れず、マク・マクロは自らの意志に、迷う』
ふと、魔王が覇気を解いていた。
場から漆黒の色がなくなり、日常であると勘違いした魔物が、ダンジョンの中に現れている。
『ミル・ミクロ。貴様は──壊れない。どれだけ世界が歪もうと、環境が変わろうと……、自らの内側に異変があろうと……』
魔王の瞳が、赤黒く光る。
『変わらない。だから面白いのだ、気に入っているのだ』
魔王は愉悦に満ちたような声で、続ける。
『貴様だけは、いつでも必ず同じ理想を掲げる。……まるで、呪いのようにな』
胸の奥の光が、暴れた。
少女の声が震える。
(……ミル兄……やめて……戻れなくなる……)
俺は息を呑んだ。
「まさか……この少女の声も……」
魔王は、俺の反応を楽しむように笑った。
『そうだ、ミル・ミクロ。貴様等が愛した者の声を、心の中でずっと聞こえるようにした。素晴らしい方策だろう?』
魔王が手を振り下ろす。
『さあ、ミル・ミクロ。 前回と同じように──その理想を、もう一度、体現してみせよ』
世界が歪む。
空気が曲がる。
魔王の周囲だけ、黒い霧が立ちこめ、それが刃となり、俺の身体を切り裂こうと瞬時に迫る。
『……やはり、殺せぬか』
魔王の攻撃は、俺の頬をかすめただけで逸れていた。
黒い霧が渦を巻き、魔王の姿が消え始めている。
『その悪運がどこまで維持できるのか』
ドグラニスタが完全に霧へと溶ける。
その直前──俺の胸の奥で、魔王の声が微かに、震えた。
『……ずっと、見ているぞ』
何事もなかったかのように、ダンジョンは明るさを取り戻していった。
魔王が、消えた。
だが。
ダンジョンが、世界そのものが──まるでまだ震えているかのようだった。
その震えの奥底に、さっきまでここにいた魔王の気配が、まだ微かに残っている。
『……貴様だけは、壊れない』
耳元で言われたような気がし、俺は、はっと振り返った。
視線の先には、攻撃で抉られた壁があり、ダンジョンの奥へと続く闇があるだけだった。
ただ、その空っぽの闇が──まるで俺だけを見つめ返しているように思えて、仕方がなかった。




