第1話 運と最強
世界は、ある日突然「穴」に呑まれた。
空が裂け、地面が沈み、街は荒波に飲まれ、文明は一夜で海底に沈んだ。
ただ、それこそが、新たな始まりだった。
建物も、人の営みも、歴史すらも、海の底へと消えた頃──その中心に巨大な黒い「穴」──ダンジョンが口を開けた。
魔物が溢れ、人々は逃げ惑う。
魔王が頂点に立つ混沌の世界が築かれていった。
それから数十年が過ぎ、数百年が過ぎた。
いまだ人類は魔王を倒せず、ただ挑んでは、敗れ続けている。
「うわああああああああああああ!!」
そんな世界の片隅で、俺──ミル・ミクロは、底の見えない暗闇へ真っ逆さまに落ちていた。
──死ぬ。
風が耳を裂き、胃が浮き、背骨を氷の指がなぞったかのような感覚が走る。
視界に影が差し、ズドン、と、衝撃が地底を揺らした。
……痛くない。
血の匂いも、しなかった。土の匂いが、する。
「いや、落ち方。ヘタすぎだろ」
低く呆れた声が、天から降ってきた。
そっと見上げると、銀髪の屈強な青年が俺を抱えている。
「……え?」
「ほら、立て。俺の名はマク・マクロ。ダンジョン潜りだ」
相手の声を聞いた瞬間、胸の奥がひどく、痛んだ。
初対面のはずなのに──失った何かを思い出しそうな痛みが走る。
「お前の名は……?」
「……ミル・ミクロ」
そう名乗った瞬間、マクの輪郭が一瞬だけ二重にぶれた。
まるで別の時間のマクが重なったように見え、俺は思わず瞬きを、した。
マクの輪郭が、一つに戻っている。
気のせいだったのかもしれない。俺はすぐにダンジョン全体を、眺めた。
魔物がいる。冒険者たちがいる。
そして、
「よし、行くぞ。立ち話はここまでだ」
と、マクが拳をゆっくりと握っている。
空気が震えた。
「グギャアアアアア!!」
巨大な魔物が咆哮し、俺たちに飛びかかってくる。
ああ──死ぬんだ。
そう思って目を閉じた。が、一向に痛みはやって来なかった。
ゆっくり目を開けると、マクが指一本で魔物の動きを止めていた。
魔物の怯えた目が、マクをじっと見据えた。
口の端を上げたマクとは対照的に、魔物は気勢を削がれたかのように、ただ、だらりと両腕を地に落としている。
「ちょっと、そこでじっとしてろよ、ミル」
マクが軽く手を上げた。
気配が消え、次の瞬間──。
爆音がダンジョン全体を大きく揺らし、視界が白く弾けていた。
砂塵が爆風のように巻き上がり、俺の髪も逆立っている。
「雑魚だな」
──なんだ、この人間兵器は。
マクの拳から、煙が上がっている。
魔物はマクに攻撃を加えようとし、鎌のような武器で、マクの首元を狙っていた。
今。
鎌がマクの首を裂こうと迫った――が、マクの姿がふっと沈んだ。
マクの足元で白い弧が閃き、光の輪が爆ぜる。
「ギイヤアア!!」
次の瞬間、魔物は地面に沈んでいた。
「戦った感触すらしねえな」
マクは白い歯を見せる。
魔物はアイテムに変わり、すでにマクの手中にあった。
「いやあ、余裕だったなあ」
──本当に一瞬だった。
俺が何かする前に、戦いは終わっていた。
今度は、頭上から、ゴロゴロと音がする。
そのゴロゴロの音が、段々と大きくなってくる。
「ま、俺はこれでなんとかなるけどな」
ポケットから取り出した小瓶をマクが割ると、頭上に灰色の膜が広がっていった。
岩はその上を通っていく。
「いいアイテムだけど、これ一個しかねえんだよなあ。だから、ミル。自力で、頑張れ」
「えっ」
もう巨大な岩が落ちてきていた。
眼前に、茶色一色――避けられない。
その瞬間、耳鳴りがした。
世界の色が一瞬だけ青白く反転し、空気が逆流していた。
「うわっ──!」
なぜか岩は、俺の頭上で逸れていく。
地面に砕け散っていた。
「……おい、ミル。今のは……運、よすぎだろ」
いや、そんなわけ──震える手でステータスを開く。
【ミル・ミクロ】
攻撃:F/防御:F/敏捷:F/魔力:F/運:A
──運はともかく、他が弱っ……!
ふと嫌な予感がした。
首を捻った。
背筋がぞわりとした。
もう一度、首を捻った。冷や汗が、出た。
やっぱり──壁の一部に、目があった。
石壁の模様に紛れて、確かにじっと俺を見ている。
こちらが瞬きを何度しても、その目だけは動かない。
時間から取り残されたように、じっと俺を見ていた。
なぜこんなに胸がざわつくのか、自分でも説明できなかった。
しばらくその目を凝視していると、音もなく、消えていった。
「おい、ぼーっとすんな。また岩に襲われるぜ?」
マクが俺の肩をぽん、と叩く。
その笑顔に、胸が締め付けられた。
──とにかく、単独では危ない。
マクの背中を追って歩き出す。
そのわずかな瞬間、空気が、ひゅ、と細く震えた気がした。
俺の心も、ひゅっ、と縮む。
足元の地面が、内側から膨らむように盛り上がっていた。
「おお、またか!」
マクが嬉しそうに拳を地に向ける。
「ギョボォォォォォ!!」
緑の棘だらけの巨体、その中心には大きな「目」があった。
高身長のマクと同じくらいの体型をした魔物──ああ、さっき壁にあった目だ。
皮膚の下を虫が這うような悪寒が走っていた。
「こいつは五十階層のボス、ミルモンだ」
対峙するなり、ミルモンが棘を一斉に射出した。
避けられない──!
その瞬間、心臓が一拍遅れた。
音が遠のき、世界がスローモーションになる。
俺の足が勝手に滑り、体が横へと跳ねた。
無数の棘が頬をかすめ、地面に突き刺さっていく。
「……ミル。やっぱりお前の運、ただの幸運じゃねえな」
まただ。
──俺、なんで生きてる?
「ミルモン。お前の弱点は──」
マクが地面を蹴った。
空気が裂けるのではなく、消えた。
視界が白く、儚く、奪われ、次に見えた光景は──ミルモンの巨体が宙に浮く姿だった。
「中心の目だ」
爆発のような衝撃波と共に、ミルモンは黒い霧となって消えた。
アイテムが、地に転がる。
「なあ、ミル。普通の初心者なら即、人生終わりだったぜ?」
「……うん。ていうか……色々あって頭が追いつかないんだけど」
マクは一瞬だけ、言葉を失ったように俺を見た。
その目の奥に理解されてはいけないものを隠すような影が、揺れた。
「まあ……そうだろうな」
マクは笑った。
けれど、その笑みはどこかぎこちない。
「で、そんな軽装でどうしてダンジョンに来た?」
意図して、マクは話題を変えた。
とは、分かっていたが、俺は指摘しなかった。
「なんか……大事なこと忘れてる気がしてさ」
「ふーん。そうか。ミル、お前は面白い。だったら一緒にダンジョンの上まで行こうぜ」
「はあ!? なんでそうなる!」
「いや、なんか俺と名前が似てて」
その瞬間、胸がぎゅっと締めつけられていた。「……悪くねえ」




