第三章・5
翌日。ペスカにとって大工房での共同生活、記念すべき一日目です。
彼女らの朝は早くも遅くもなくまちまちです。そもそも起きてこない人もいて、バラバラでしたが、起きたあとにやることは決まっています。
それは歯磨きでした。
職人だって歯が命。ご主人様よりまず歯を磨きます。
ペスカはまだ荷解きが済んでいないので、キャリーバッグから歯ブラシセットを取り出して流しに立つと、ぼんやりした顔を鏡を通して眺めました。
頭頂部から背中に流れて、そこで奇妙に二股に分かれ、しかも毛先が内側にそり返る、彼女そのもののようなワインレッドの濃く艶やかな髪が足元まで伸びています。所々飛び出した寝癖を指先で遊びながら、ペスカは手早く歯磨きを済ませます。
そして顔を洗い、軽く汗を流して、それぞれ部屋に一個ある鏡台で髪をとかすと、ちょっとしたパンやビスケットのようなお菓子で朝食、コラツィオーネをとります。
けれど、ペスカは隣の村出身。朝からオートミールにブロッコリーとゆで卵のサラダをしっかりこしらえます。
「朝からすごいね」
「早く筋肉のやつを喜ばせてやりたくて」
お台所で熱いお湯をオートミールの皿に注ぎながらペスカは得意満面に言いました。
筋トレが最近できたペスカの趣味。毎日の軽微なトレーニングの初めに、起きてからのオートミールが欠かせません。
工房奥のお台所でボンゴレ姉妹を迎えると、四女ヴァンデがいつものように長女の腰のあたりから顔を出して言います。
「これなに?」
「オートミール」
「べっちょりしてる」
と五女ネロも言います。
ペスカは一瞬真顔で二人を見ると、それから何食わぬ顔をして返しました。
「めちゃくちゃ美味しいよ。甘くて香ばしい麦本来の風味が楽しめる。食べてみる?」
そうして一日目がスタートしました。
ペスカはまず工房内を探索して、機材のチェックから入ります。
人数分のかまどに鉄の棒、吹き竿、ジャックという大きな火バサミ。それからセロテープと接着剤に予備の絆創膏、熱いガラスの形状を整えるための特性のミトンなどなどガラス細工職人にとって欠かせない仕事道具は一通り揃っているようでした。
「防暗対策はどうなってるの?」
「ぼうあん? んー、ランプなら表に出てるのと、倉庫に予備もあるよ?」
と、付き添いのビアンゴが答えますが、ペスカは気を遣って相手を否定するような物言いを省き、単語だけで返します。
「防暗殺者対策」
「え、あんさつしゃ……?」
「前の村ではね……」
ペスカが事情を説明しているうち、気づくと起きてきたロンチが会話に加わっていました。
「つまり、ご主人様のハートを狙う不届者は確かにいるんだよ……」
「それってさ……ごしゅ」
「確かにその発想はなかったなー。ロンチ、うちにも入れたほうがいいよ!」
「いやいや、だからそれ、じさ……」
「例えばみんなで筋トレして、毎朝工房の前を通りがかった怪しい奴らを追い払うとか……それでも、ときに空間を超越して電車爆雷を仕掛けてくるのが奴らなんだ……警戒するに越したことはないよ」
「警戒してもどうにもならないね、それはさすがに」
そのようにして、午前中は筒がなく過ぎていきました。
◇
工房はペスカが村に持っていたものよりも一回りも二回りも大きく、それだけで初日の午前は終わってしまいます。
とはいえ正午は昼食、プランゾにはまだ早い時間帯。
一時間ほど直しかけのご主人様をぺたぺたしてやってももちろんいいのですが、それにしても中途半端なところでお腹が空いてきそうです。
そこでビアンゴが提案しました。
「じゃあ、散歩がてら街の案内するよ」
「そうするかなぁ」
職人たちは皆おおらかかつ自由で気まま、そしてのんびり屋さんでした。
ペスカは一度部屋に戻って支度しつつ、改めて枝毛と奥の部屋を気にします。
まずは身なりから。鏡を見てペスカが飛び跳ねた枝毛を気にしていると、いつの間にか背後に立っていたビアンゴがワイン色のエプロンドレス風の衣装を持ち上げながら言いました。
「じゃーん。うちの制服だよ。マーレさんが着てたやつだから合うと思うんだ」
「メイド服だね」
「うん。ペスカのは今日から仕立ててもらうから、出来上がるまではこれ着てて」
ペスカが早速袖を通すや、ビアンゴは満足そうに頷きます。
「うん。やっぱり、ぴったり!」
ペスカも鏡台の鏡で確認します。もともと着ていたのも使用人が着るような衣装でしたので、正直あんまり変わらないと思いつつもビアンゴに気を遣ってそれっぽく"おお"とか言っておきます。
彼女はさらにペスカの元々持っていた衣装を抱えながらこうも言いました。
「こっちも一緒に直してもらっちゃおうね」
「おう」
それから、奥の部屋。
工房の一階はかまどの火が焚かれたりして、窓が少なくとも明るいのですが、二階の廊下は一番奥の突き当たりに小さく窓と小棚があるだけで、日中でもひどく薄暗く、打って変わってじめじめとしています。
その板張りの廊下に部屋は四つほど。手前からペスカとカルボ、ボンゴレ姉妹、ジェノべとベーゼの愛の巣。そして一番向こうがロンチとその相方……昨晩彼女が言った出てこれない職人の部屋になっています。
ペスカもガラス細工職人。他人に興味がないように見えるのは強い警戒心と感じすぎる気の回し方からであって、その実おせわ好きで奉仕好き。好奇心旺盛で関わりたがりな性格です。スキゾイドとはその点ちょっと違います。
その性格が彼女を突き動かして。
みし……みし……。
何気なくきしむ廊下をより暗いほうへと進み、問題の部屋にそっと耳を近づけてみると……。
「……いないほうがいい。私はいないほうが……」
「そんなことないって。ちょっと顔出すだけでも……」
声が聞こえてくるではありませんか。中にはロンチと、もう一人、確かに誰かがいるようです。
ペスカは改めて息を押し殺し、耳をぴたっと部屋のドアに近づけました。
「でもだってほら、私が出ていくとこの世界の存続が……」
「気にしすぎだよ。まぁ確かにヤバいのはヤバいけど、私だって一歩間違えたら即退場でしょ? でもぜーんぜん気にしてない」
「ロンチはまだポピュラーだからいいじゃない。ある意味ネタで笑えることもあるけどさ、私の方はネタにならないんだよ。テレビに出したらヤバい奴、ガチダメ勢。それが私。私の一挙手一投足、一発言はいちいち生々しすぎるんだ……意識しようとしまいとそうなっちゃうの。なら何もしない方がいい」
「確かにデリケートではあるけど」
「私が産まれるその日から世界をやり直せたらいいのに……そうしたら皆、私というヤバい奴と関わらずに済んだのに……あ、ああ……迷惑かけて全世界にご、ごめん……ごめんなさいぃぃぃぃやぁぁぁぁ!」
もう一人が突然発狂するかのごとく叫ぶと同時、パリンパリンとガラスの割れる音が響いて、ペスカは慌てて脱兎のごとく廊下を駆け抜けるのでした。
急いで階段を駆け下り、その脇で息を整えているとほぼ等身大の紙袋を抱えたビアンゴが通りがかります。
「ど、どうしたの?」
「う、ううん……支度できた? 行こう、早いとこ行こう。ここにいては危ない気がする」
「う、うん?」
そうしてペスカは足早に工房を出ようと、ビアンゴを背後から突くようにして急かしつつ玄関に向かいましたが、背後を気にするあまり今度は前方不注意でした。
ペスカが出入り口の大扉に手を伸ばすより一歩早く扉は向こうから開かれて——彼女の目が不意打ちに際して、そちらを見る間隙を縫うように——そこから生白い髪、青白い生気の伴わない能面のような職人が入ってくるではありませんか。……足元の大きな吠え声と一緒に。
ペスカは小さく悲鳴をあげてその場に硬直。完全にフリーズするのと、工房の奥でペスカのハート細工が大きな音を立てて割れたのは同時でした。
「こ、こら……アンチ! アンチ〜、ダ、ダメだよ……」
「あ、アンチー? そこにいるのー? ごめん、今足元見えなくって……」
ビアンゴは紙袋を抱えたまま屈んで器用に手探りしましたが、アンチと呼ばれた柴犬は何よりもまずペスカの新しい匂いに夢中でした。飼い主のリードを完全に無視して、彼女にじゃれつきます。
飼い主の能面はカルボでした。彼女は絵の具のような白色に黒いまだらが特徴的な髪でまるで日に当たったことのないような細い身体つきなのです。それでいて心配そうにペスカに言いました。
「ご、ごめんね〜。もしかして……い、犬、ダメだった?」
「え、そうなの? ペスカ」
「ち、違う。畜生に恐れを抱いたことなどない……今のはいろいろと……」
「おーい、ペスカ君のご主人様が突然爆発したんだが。すごい勢いで弾け飛んだんだが。何かあったかい?」
奥から騒ぎを聞きつけて他の職人たちも駆けつけます。ビアンゴは思いやりという名の誤解を広めつつ、
「やっぱり……ペスカ」
「ち、ちがう! 今のは……ああああごめんなさいぃぃぃぃあぁぁぁ!」
ペスカは再度ジレンマに悲鳴をあげるのでした。




