第三章・4
どこからともなく祭囃子のような音が聞こえてきて、ペスカの意識はゆったりと覚めていきました。
ずるずると起き上がり目尻をこすって辺りを見回すと、一変、寂しいくらいの真っ暗な空間が視界には広がっています。
見たことのない部屋でした。
狭くて煤臭いけれど、決して嫌いな匂いではありません。それどころか、どこか懐かしい。
ペスカは二段ベッドの下から這い出ると、自分の寝ていたベッドの足元にご主人様が変わりなく置かれているのを見つけ、駆け寄り、抱きしめて一安心。それを傍らに抱いたまま、静かに部屋を抜けます。
部屋の外には木造りの古めかしい廊下が、右手の向こう、廊下の端からは光が漏れています。それから美味しそうな匂いも漂ってきます。
ペスカが壁をつたいながらゆっくり進むと、光の袂には下に続く階段があり、祭囃子のような音もこの先から聞こえてきます。
ペスカはなんだかよく分からないまま、けれど少しの勇気を出して、また壁をつたい、階段を少しずつ降りていきます、と——すると、そこには——。
ランタンや暖炉の火。
オレンジ色の、肌触りにもあたたかな光に満ちたガラス細工工房が、そして中央の大きなテーブルの上には美味しそうなスープや肉料理、ほかほかのパンが色とりどりと並んでいるではありませんか。
ペスカが驚き、目を瞬かせていると、
「あらあらあら。ねぼすけさんがお目覚めのようですわねオホ」
工房の中央で飲み食いしていた小さな職人の一人が彼女の存在に気づいて、エレガントに言いました。
「オホ……?」
ペスカが不思議に思っていると、
「あ、ペスカ!」
と、さらに別の一人が彼女の名前を呼んで、颯爽と駆けつけてくれます。その子のことは、ペスカの記憶にもありました。
白ワインのように透き通った髪色に、ふんわりと大きな三つ編みを二つ束ねた母性満面の女の子——ビアンゴです。
「おはよう。ペスカ。調子はどう?」
夢の中で見たマリア様だ。直感してペスカは思いましたが、かと言って出会い頭にまた抱擁を求めては良くない印象を与えてしまうかもしれない。最悪、嫌われてしまうかもしれない。と、ここでは我慢します。
「えっと……悪くない」
「そう。良かった」
ビアンゴはペスカの手を取り、微笑みかけて続けます。
「私、ビアンゴ。私もそうなんだけどね。ここにいるみんな——あなたと同じガラス細工職人だよ」
ペスカはペリカンのように目をまんまるくして、いま一度、ゆっくりと工房を、それから中央のテーブルの料理を眺めました。
季節の野菜をふんだんに取り込んで細かく刻み、煮込んだミネストローネ。ほうれん草やベーコンを卵で固めたキッシュ・ロレーヌに、玉ねぎと牛筋・胸肉をやわらかくなるまでひたすら煮詰めたシンプルなジェノヴェーゼ。小麦の香ばしさを鼻からも楽しめるほかほかのブールにバゲット。見てるだけで涎が垂れ、おなかがぐるぐる鳴ってくるメニューです。
ですが、今はそちらではありませんね。ペスカは気を取り直すと改めて職人たちを眺めました。
右の奥から、褐色の肌にすっきり曲がり気のないブロンドが眩しい、陽気そうな職人。その向かいで黒目をひたすら外に向ける奥手そうなヤツ。そして先ほどペスカに声をかけてきた横ロールの令嬢。その対面で、距離感が他の面子より近く、初見ですでにあれ? できてる? と思わせてくる美少年と、隣の少し気難しそうにこちらを見る淑女。
さらに目の前でビアンゴを取り巻く四人の一層小さな子供たち。
いずれも劣らず一癖も二癖もありそうな顔ぶれ。けれどそれでいいのです。
職人とはそのくらいがちょうどいい。それをペスカはよく知っていました。
彼女はそうしてどこか満足そうに、
「なんだ……めんどくさそうな奴ばっかだ……」
「え!」
こう呟くと、面食らうビアンゴに笑いかけました。
「——私といっしょ」
一瞬ドギマギしたビアンゴでしたが、その次の瞬間のペスカの表情に圧倒されていました。
ガラス細工職人は小さく、人間からすると10〜12歳前後の見た目が一般的。
にも関わらず、その時ペスカが見せた表情は得意げでいて恍惚にも満ちていて、そしてどこか儚げで、女神を思わせるような底知れない美しさに溢れていたのです。
ペスカがビアンゴの母性にマリア様を重ねるように、そうしてビアンゴもまたペスカに見惚れていると、ペスカはふと気付いたように言いました。
「あ——え? 待って。みんな、ガラス細工職人?」
「そうだよ。ペスカもそうでしょ?」
「うん、そうだけど……」
ペスカは額をこづいて、唸ります。
なにか、たいせつなことを、わすれている、ような。
——すること数秒、ペスカの寝起きの脳髄にびりっと明るい電子が走り、ぴんぽんぱんぽんと各部署の電球を灯していきました。
「あ、そっか。ここがあの人の言ってた——秘密の大工房だ!」
今しか見えないペスカにとって昨日の記憶は前世のそれに匹敵します。数日前ともなるともはや忘却の彼方、回路をつなぐのにも一手間かかるのです。
突然の発言にビアンゴがきょとん、として首を傾げる一方で、
「なんだかよく分からんが、腑に落ちたようでよかったよかった。じゃもうツェーナの続きにしよう。せっかくの料理が冷めちゃう」
令嬢の奥からそう言ったのは陽気そうな褐色職人です。なんとなくその辺の馬が合いそうだとペスカは直感して思いました。
「賛成!」
「ま、挨拶は食べながら適当でいいよね。私、ロンチ。よろしく」
「ペスカだ、よろしく!」
というより何より、ペスカはもう目の前の料理を食べたくて仕方がなかったのです。
「あの人って?」
——が、ビアンゴが何気なく尋ねました。
それは甲斐甲斐しさをこえて索敵……ソナー的ななにか……いえ、詮索の範疇のように見受けられる何かを感じるものでしたが、ペスカはまだ気付きません。で、胸の前で手を組み、あからさまに遠い目をしてこう答えてしまったのです。
「私の、魂を置いてきた前世の何か」
「え、前世って? 魂って? なにがあったのー? って突っ込んでほしそう〜」
にやにやして口を挟んだのは陽気そうなお姉さん職人ですが、ペスカはさらに続けました。
「見たところ、ビアンゴにはまだ早い」
「——へぇ」
「あはは、面白い子だね」
立食パーリーのようなノリで、すがすがしく笑いかけて寄ってきたのは美少年風の職人。左右に流れる髪の色はあざやかなターコイズ色でいて、しかも彼女自身からも香草のさわやかな匂いが漂ってきます。ペスカよりもよっぽどヒーローっぽい職人でした。
「ボクはジェノべ。よろしくね、ペスカ」
「ういっす」
「ベーゼよ。よろしく」
そのすぐ横から気難しそうな濃いブラウン色の髪の職人が——ジェノべと名乗った職人に付かず離れず、手を伸ばしてきます。こちらもこちらでジェノべに負けず劣らず、甘い匂いがして、大人びた雰囲気を醸しています。
「ういうい」
次いでビアンゴが奥を指しました。
「それから、向こうでおろおろしてるのがカルボだよ」
「よ、よろ……」
「——そして、このわたくしこそがロネーゼですわオホ」
カルボの発言を待たずに令嬢が名乗りあげると、工房の奥でガラスの割れる音がしましたが、比較的令嬢の方が近くにいたこともあってペスカは気にせず、ロネーゼと握手を交わします。
「よろしくお願いしますわねオホ」
「ペスカですオホ。こちらこそよろしくオホ」
「あらあら。案外ノリがよろしいのねオホ」
「オホホ」
ペスカは初対面のノリはなかなかでした。それなりに打ち解けてきたころに怪しくなってくるのが彼女なのです。
奥からロンチがだらしなくテーブルに手をついて付け加えます。
「実はあともう一人、いるんだけど、なかなか出てこれないんだよねー」
「シャイなの?」
「うーん。そういうわけじゃないんだけど、なんていうか、生々しい奴でさ。出てくること自体がある意味挑戦になるっていうか……まぁ、私は好きなんだけど」
「ふーん」
「さて、それから——」
続けてビアンゴがいよいよ自分の周りを示すと、彼女の腰に隠れて二人、普通に二人、合わせて四人のさらに小さな職人が顔を見せます。
「この子たちが、ロッソ。ロゼ。後ろに隠れてるのが、ヴァンデ、ネロ。みんな、私の妹なの」
「姉妹のガラス細工職人?」
「そう、まとめてボンゴレ姉妹って呼ばれてるよ。ヴァンデとネロはまだだけど、ロッソとロゼにはそれぞれもうご主人様もいるんだよ」
「はぇー世界は広いなー」
そうして皆の紹介が済んで、一段落。というところでペスカはテーブルに手を置くと改めて言いました。
「よし。名前、分かった。覚えた。私はペスカです。あっちの村から来ました。こんな感じですが、よろしくお願いします! では、いただきます!」
ペスカは欲望に忠実でした。
ようやく食事にありつきながら、彼女は隣のビアンゴにこっそり言いました。
「でも、この恩は忘れません。ビアンゴ、本当に……見つけてくれてありがとう」
「いえいえ。それにここまで運んだのは、あのおまわりさんだよ」
「? ……記憶にございませんね」
「明日、街、案内してあげるから。その時にも挨拶に行こうね」
「忙しくなってきやがったな」
「いそがしい?」
「いそがしいってなにー?」
ビアンゴの連れ子が言って、工房の夜がふけていく中、ボンゴレの三女ロゼはしかし、まだ納得していませんでした。
その夜。ペスカは新しい寝床、二段ベッドの下段で寝転がりながら、まだ手付かずのご主人様を抱きしめて囁きます。
「……そう。面白かった。ダブルミーニングでいろいろあったし、疲れたけどね。うん。——え? 不安だって? 平気だよ。怖くないよ。言ったじゃん。大丈夫、私がついてんだから。——私だけはいなくならないから。だって、私はあなただけのガラス細工職人だからね。ふふ」
一方、上のベッドで臆病なカルボは震えを押し殺していました。
「ご、ご主人様とし、喋るの、私もやるからわかる! 分かるんだけど……部屋でやられるのこえぇ!」
一階の工房ではそのガラス細工がぴきぴき音を立てて崩れるのでした。




