第三章・3
街の背景がぼんやりとした赤みに包まれ、紫がそれを追いかけるように足を伸ばし、親子が手を引きながら帰っていく頃。
ビアンゴはやはり昼間見た彼女のことが気になって、ロッソと二人、箱車を押しながらSheriffs officeに向かっていました。保安官事務所、警察署、どちらでも良いそうですが、間をとって英語で表記しました。
さてその頃、Sheriffs officeの入口ではまたしてもペスカの被害者ぶった悲鳴が木霊していました。あのハンサムガイも一緒です。
「いーやー! 人間と一夜を共にするなんて絶対にいや! 穢れる! ご主人様はどこいったの! 野宿の方がマシ!」
「あのさー俺だって、本当のこと言うと何が哀しくて彼女とのデート断って、お前みたいなちんちくりんと一緒にいなきゃなんないんだよって心境なの! でも仕方ないだろ、お前行くとこないんだろう? ちったぁ譲歩しろ!」
「そう言って私を飼い慣らそうったってそうはいかないぞ! 人間め!」
「してないだろ……あーもういい加減めんどうになってきた……」
そのやりとりだけでビアンゴは全てを察して白目をむいましたし、ロッソは箱車を押す手を緩めていました。
本当だったら素知らぬ顔をしてこの場を通り過ぎたい……。
けれど、そうも言ってられません。
なぜなら、ビアンゴは不屈のガラス細工職人。神たる人間のハートのおせわを焼くのが使命であり、それは本来、主たる個人を超えて、哀れな人間全てに隔てなく分け与えられるものだからです。
主は言いません。けれども慈悲深いマリア様は言うかもしれないし、ガラス細工職人としての魂が囁くのです。
「あの」
ビアンゴが清水の舞台から飛び降りるような勇気をふりしぼって二人に声をかけると、マイケルはいつもの営業スマイルを浮かべ、ペスカはとっさにファイティングポーズを取って応じます。
「こら」
「いて」
が、間もなくマイケルはペスカの頭に軽くゲンコツを落とします。
ペスカはギリギリ届く両手で頭のてっぺんを押さえながら嘆きました。
「あぁ、専守防衛の理念も守らせてもらえないなんて! 私はただ! 積極的自衛権を、当たり前の人権を行使しただけなのに! またしても悪しき人間どもの脅威によって妨害されてしまった!」
「また非難がましいことを言うな!」
そんなやりとりのあとでマイケルはため息をつきながら、ようやっとビアンゴに応対します。
年相応の女の子にするように、彼は腰を屈めて尋ね返しました。
「やぁ、嬢ちゃん。それで……なにか困りごとかな?」
「あー……えっと、昼間に街のすぐ外で、妹がこんなものを拾って……」
ビアンゴの言葉に続いてロッソが箱車を押し、二人に見せると、ペスカの目が輝きました。
「ご主人様!」
ペスカはとたんに明るい、いつもの女の子らしい声を取り戻して、箱車にすり寄ります。まだ直しかけで半壊状態ではあるものの、ハートの細工を持ち上げると、大事そうに、彼女はその小さな身体で抱きしめるのでした。
「やっぱり……」
満足そうにビアンゴが呟くその前で、マイケルは首を傾げます。
「え……それが君のご主人様? これを狙ったって?」
「そうだ! ご主人様は常に何者かにお命を狙われるようになって久しい。その下手人を探して、この街に辿り着いたんだ。あとなんか別に目的があった気がするけど、寝たら忘れた」
「なんだ。そうか。じゃあ、まぁ別に俺はそんなガラス細工に興味はないから、俺ん家なら安全だよ」
マイケルはそう言うと、ビアンゴ、ロッソの二人の方にも向き直ります。
「君たちもありがとうね。わざわざ届けてくれて。お礼にお駄賃をやろう。帰りにクレープかわたがしでも買って帰るといい」
「あ……いえ、それで」
ビアンゴが提案しかけたのですが、ロッソがスイーツの単語群に耳をぴくつかせると、わざとらしく咳払いしてそれを遮ります。
「こほ、こほん。あーおまわりさん? そもそもうちの妹がその娘に大変世話になったようでして、彼女の犠牲がなければ人間に被害が及んでいたかも……? さらに下宿先にはあと二人の妹も待ってます。これでは取り合いになるかもなぁ」
チラ見のロッソの図々しさ……いえ、強かさにマイケルは舌を巻き、呆れ果てて言いました。
「……君らって皆、そうなの? はぁ、分かったよ。あと三人分? まぁ大した額じゃないしね」
「わぁーありがとう! これからもこの街を守ってね! お兄さん! ちゅっちゅ、大好き!」
ロッソも頭の中身はペスカと大差ないようでした。お金の音に目を煌めかせるととたんに元気になって、マイケルに天使の笑顔を見せます。しかも、投げちゅっちゅ付きです。
「なんて奴らだ……まぁ悪い気はしないし、こんくらい別にいいけど」
小銭をむしり取られてマイケルは呆れながら言うと、今度こそペスカの手を引きます。——しかし。
「ん? どうした? 俺ん家はこっちだよ、行こう」
「……いやだ」
ペスカはハートを抱えたままその場を離れようとしません。
「ここまで来て、なにわがまま言ってんだ。野宿させられないんだって」
「人間の家なら安全なんて保証はない。信用できない。だったら野宿で、一人で寝ずに守ってた方が疲れるけどまだマシだ……」
「あのな! お前、いい加減にしろよ! どんだけ人に迷惑かけたか——」
「そんなもん知らない!」
「お前——」
マイケルもいよいよ我慢の限界でしたが、その時ペスカはそれ以上に強く、強く慟哭しました。
「いやなもんはいやだ! そうやって優しいふりして、助けるふりして、勇気を出させて、信じさせて、最後にはまたご主人様を——私を傷つけるんだろ!」
小さな涙の粒が、ぽろり、ぽろりと職人の少女の目元を流れ、舞っていました。
「勇気とか信じるとか、そんな人間の綺麗事や言葉が私を助けてくれたことなんかない! 守ってくれたことなんかない! そうしていつも思うんだ。ああ、やっぱり誰かを頼りにするべきじゃなかった! 私は最初から私だけを信じていればよかったんだって!」
「ペスカ。君……」
「私を守ってきたのはずっと私だ! 私はずっとそうして一人で乗り越えてきたんだ! 人間なんていらない! 私はもう二度と——絶対に人間を信用しないっ! 私はそうしてずっと、一人で生きていくんだっ——!」
少しの間。
マイケルも、通行人も、ロッソも呆気に取られて。
だれも、なにも——それこそ風さえ止んで、いいませんでした。
ペスカの胸には傷があったのです。
ご主人様の壊れやすいハートと同じような傷が。
「——な。ど、どうしろっていうんだ」
マイケルはそれこそ困惑しました。ペスカの慟哭は確かにマイケルの心にも響いていましたが、だからこそ、自分は人間だから、となおのこと手を貸してあげられないのです。
「——っ!」
動いたのはビアンゴでした。
彼女は痛い沈黙の中を飛び出すと、ペスカをその抱えたハートの細工ごと、ぎゅうっと強く抱きしめました。
いつもたくさんの妹たちにしているように。
「大丈夫。もう大丈夫だよ……怖かった。怖かったね……悔しかったね。嫌だったよね。いいんだよ。ここでは怖がらなくていい。強がらなくていいんだよ」
「……おや?」
ペスカがビアンゴの顔を見上げると、ビアンゴは筆舌に尽くしがたい、マリア様のような慈愛の表情を浮かべて彼女にこう言いました。
「私も、不屈のガラス細工職人だからね。分かるから。あなたの気持ち……」
ペスカは何よりもまず懐かしさを覚えました。
労り。慈しみ。産まれたときのあたたかさ。すなわち——無償の愛というものを。
そんな記憶がペスカにあればの話ですが、もしあったとしたら、母性というのはこういう感じなのかしら? とこっそり魂が囁くのです。
それからペスカはこうも想いました。
「ガラス細工職人にも魂があるんだろうか——」
でもそしたら、人間の心を直すガラス細工職人の心を直すガラス細工職人もいることになって、いずれ観測の有無次第で波になったり、単一であったりと紐がもつれ……また、とすると観測者とは何か? という難解な問いが浮かび上がり、形而上から我々を見つめている存在があるという証左になり得るか? この世界はやはりシミュレーションなのか? という命題につながっていき、よく分からなくなります……。
ペスカはそんな難しいことを考えて、考えて。考えるうち、ころんと寝てしまいました。
そこは通りの端っこ。
地べたでしたが、ビアンゴはまったく気にせずペスカに膝枕をしながらくすくすと笑います。
「あらあら……」
「寝た?」
「寝ちゃったみたい、です」
ペスカの寝顔を伺うマイケルにもビアンゴは持ち前の母性を満面にして答え、さらに続けました。
「ねぇ、おまわりさん? この子、ウチで引き取っちゃダメですか?」
「え?」
「ガラス細工職人なんです。この子も」




