第二章・2
その日ペスカは、街の牛丼屋さんで満面の笑顔を見せながら大好きな紅しょうが丼を心ゆくまで頬張っているところでした。
と、そこへ——。
「Freeeeeze!」
周りの席にいた大人の男性二、三人が怖い顔をしてそう言い、ペスカを囲んで、突然チャカを突きつけてきたのです。
訳もわからず、とっさに両手をあげるペスカ。
「?!?!?!」
「You're not wearing a mask! Why aren't you wearing a mask? Do you have any idea what's going on?(マスクをしていないぞ! お前、なぜマスクをつけていないんだ? どういう事態か分かってんのか!)」
「あ——あいむいーてぃ……」
「Not セクハラ。This is a job」
マスク警察は実在しました。
しかも彼らはお客様に偽装して一般人の中に隠れ潜んでいたのです。ダブルミーニングでマスクでした。
ペスカはちょうど良いところで飲みきれず、口の中に残ってしまったしょうがの薬のような苦味を噛み締めながら、彼らの言うことに従います。
手を頭の後ろに回すと、テーブルに押さえつけられ、ボディチェックを受けました。男はポケットから食券の領収書部分を見つけると、それを仲間内で見せ合い、にやにやと笑い合ってペスカの眼前に突きつけてきます。
「You choose 並。But you put on many many 紅しょうが。What does this mean?」
「あ——あい、らいく……」
「カケスギダ! オマエ、コレ、モウ並二杯分クライアンジャネェカ! ノーマスクハコレダカラ!」
男はそう言って、悔しさに震えるペスカを力づくで押さえつけながら、仲間内でしこたま笑うのでした。
特に復讐を誓うようなことはありませんが、それ以来、ペスカは欠かさずマスクを持ち歩くようにしているのです。
「あ、いっけね……ご主人様、ご主人様」
と、追想もそこそこにペスカは目の前の現実をふりかえると、再びまだ一酸化炭素のこもる工房内へ。
オブジェの元に駆けつけると、そのガラス細工は取り急ぎ高所からの落下から手当していたままの姿で残されていました。
本当のことを言うと、全体的に紫がかっていてチアノーゼの症状もはっきり見られましたが、決してペスカが外でのんびりやっていたせいではありません。それにまだ慌てる時間でもない、とペスカは心を落ち着かせると、それをトロッコで使うような車輪のついた箱に入れ替えて、工房から無事に運び出したのでした。
再び緑豊かな大自然の新鮮で健やかな大気を大きく吸い込み、軒先でふぅっと一息。ペスカは腰に手を当て、額の汗を拭います。
「素材を直で殺りにきやがった……しかも科学の知識もあって、私の習性もよく知っている……いったい何者なんだ……ご主人様、そんなに恨み買うようなことしてんのかな……悪い人なのかな」
そんな風に思案していてふと気づくと、手元にオブジェの残骸をまとめた滑車付きの箱がありません。
ペスカが手を離した隙に、それは坂を下って海の見える断崖絶壁の方に滑っていってしまい、ペスカは慌てて追いかけるのでした。
どうにか箱に追いついて息を整えると、それ自体はペスカの不注意であったものの、彼女はいよいよ覚悟を決めてこう言いました。
「完全に場所が割れている……もうこんなところには一秒だっていられない!」
そうして工房に蜻蛉返りしたのですが、その日はもう遅く、特に灯りがなければ外などおちおち出歩けません。
ペスカは一回冷静になって、明日の自分にバトンタッチすることに決め、そうと決めたら早々に工房の灯りを落として回り、二階の寝床につくのでした。
さよなら、今日の私。
明日の私がきっとうまくやることを祈りつつ。
朝、野望に満ちた自分が目を覚まします。
「そうだ。まずは歯磨きだ」
ペスカだって女の子。例え工房はいつも一人で、他に会う人がいないとしても、顔を洗い、歯を磨き、軽く汗を流して、鏡台の前で髪を梳かして身嗜みを整えることはとても大事でした。
それから朝食を食べ終え、今日はどんなことしようか考えながら口を拭ったところで、ふと壁の古い時計がその窓から、ぽっぽー! と勢いよく鳩を飛び出させ、ぴんと来ました。
「そうだ。旅立ちの朝だ!」
決まれば後は早いのがペスカの良いところです。素早く大学生が留学で使うようなピンク色のキャリーバッグに荷物をありったけ詰めこんで、ガラス細工と作業道具に加えて箱車に乗せ、いよいよ出発——と工房を一歩でた次の瞬間でした。
「あれ、引っ越しちゃうの?」
そんな涼しげな女性の声が聞こえて、ペスカは振り向くやすぐさまファイティングポーズを取ります。ご主人様のハートを狙う暗殺者かもしれないからです。
けれどそこにいたのは、以前交友のあった大人の、あの女性でした。
女性は最初は驚いた様子でしたが、すぐに心配そうな顔になってペスカに言います。
「びっくり。最近はどうしちゃったの? 人が変わったみたいに通行人に絡んでるって……せっかく仲良くなれそうだったのに」
嬉しいはずの来訪が、その時はもう夜明け前のさざなみのように静かで……ペスカは一息つくと、言いました。
「私、毎日夜に死ぬんだ」
「え」
からから、からから。
街道に向かい、荷物だらけでがちゃがちゃ鳴る箱車を押しながら。
「そして朝に新しい私になって生まれ変わる。毎日変わる。違う私になる。昨日までの私はもう死んだ。今を生きてるのは、今日の私だけだ。それで混乱することもあるけれど……」
からから、からから。
「だから、今日も変わらず頑張れるんだ」
そしてそこに立つ大人の女性とすれ違い様、続けます。
「ごめんね。だから私、もうあなたのことは思い出せないよ。私は明日に、私を届けなくちゃ」
「そっか……」
女性がそれを惜別の挨拶だと思って俯くと、しかし、ペスカはちらっと一瞥して立ち止まり、
「でも……それでも、変わらないこともあるよ。昨日までの私が好きだった人とか。ご主人様には内緒でね」
そう言うとふっと一息——そして女性が顔をあげたタイミングで、ゆるく口元を和らげ、優しく笑いかけたのでした。
女性もまた一息ついて、やわらかく微笑みかけます。
「まぁ」
二人、あの日と同じようにそう言い合って、ささやかな笑い声が朝から軒先に木霊するのでした。
女性は思い出したように言います。
「そうだ。忘れてた。隣町にね、実はあなたみたいなガラス細工職人が集まる大きな工房があるんだって。その話を聞かせたくてきたんだった」
「私みたいな……私が二人もいてたまるかと思うけど、見物ではある。行ってみるよ。ありがとうね」
「うん。じゃあ……」
「うん。またね」
けれどもそれは……それこそが、ペスカの精一杯の心配りでした。
ペスカは日々人間たちの傷つきやすいハートを癒すガラス細工職人です。だから、別れ際にもそれを感じさせないように、そしてつい先ほども、女性の心に後ろ暗いものを残してしまわないようにと方便を吐いたのです。
ペスカはそれきり後ろを振り返ることはなく、ひたすら隣町の方角へ、南の方へと街道を、箱車を押して進んでいきます。
「私は不屈のガラス細工職人だからね。ご主人様のためにも、私が倒れるわけにはいかないから。もう二度と私が傷つくわけにはいかない」
それもまたペスカの経験則から至った結論でした。
ペスカは見晴らしのいい丘の上までくると、視界の彼方に小さくなった自分の元工房を眺め——しかし、驚きに目を大きく見開きました。
まだいました。
あの大人の女性はまだ自分の工房を離れることなく、そこで何をするでもなく、ただ壁に背を預けて、じっと佇んでいるではありませんか。
「あ——」
戻りたい。
その瞬間、ペスカは痛切に思いました。
また何事もなかったように、戻って——そうして今度は工房に蜻蛉返り。頭をかきながらけらけら笑って誤魔化すペスカ。それをゆるりと微笑んで女性が迎えて、ペスカは彼女の出勤を見送り——というところまで想像して、けれども、はたと思考が止まったのです。
私の影は、人とは重ならない。
その理をまた突きつけられ、また傷つくだけだ。
あと何回、繰り返せばいい?
先ほど自分で言ったばかりの言葉と共に、そのことを思い出すと……ペスカはぎゅうっと目を閉じ、ぎゅうっと手を握りしめて、ぎゅうっと伸びをしたのです。
「んー良い天気!」
そして、きっぱりと前を向くと、また箱車の取っ手を握りしめ、何事もなかったように言います。
「聞いた? ご主人様。ガラス細工職人が他にもたくさんいるんだって……どんな奴らだろうね。考えてたら、ねぇ? 新しいことってわくわくしてこない? するだろ? わくわくしろよ、ねぇ、ご主人様!」
まるで乳母車に話しかける母親のようにして、箱車を押しながら進むのでした。
ペスカにとっての変わらないものとは、ご主人様への無償の愛だけ。ペスカはガラス細工職人ですから、それでいいのだと心に決めて。
こうしてペスカは故郷を旅立ったのでした。
隣町にあるというガラス細工職人たちの秘密の工房を目指して。
日々も暮らしも、場所も出会う人も、変わっていくこともあるけれど、きっと変わらないものもある。新しい出会いが未知なる私を覚ますこともあるでしょう。
著名な博士の研究によっても不安ごとの87%は起こりません。しかも実際に起きた残り13%も、そのうち80%は自力で解決できるものという話です。
だから怖がらないで。きっと大丈夫。
新しいことに怖がりな私たちだから、いつも心にガラス細工職人。
そうして彼女らの日々は続いていくのでした。




