第三章・6
ペスカは一回気持ちをリセットすると、足元の凛々しい顔したケダモノをわしゃわしゃやりつつ、ビアンゴが言います。
「ねー? 全然平気でしょ?」
「なんだ、ロンチの部屋覗いちゃったって、初めからそう言えばいいのに」
「触れてはいけない話題かと」
「まぁ……うーん、そうなんだけどね。ラビ……うーん、確かにちょっと……言いにくいんだよね、あはは」
そうしてカルボがアンチを外の小屋に連れていくと、二人もいよいよ出発です。
お見送りには四姉妹も揃っていました。ロッソ、ヴァンデ、ネロの順に行儀良く並んでいますがロゼは先ほどのペスカの珍プレーに笑いを堪えきれません。
「じゃあ、お留守番お願いね」
「うん。お土産お願いね!」
とロッソ。当たり前のように指を折りつつ言います。
「わたがしとークレープとーアイスの実とーみかん! 凍ってる奴! あとミスド!」
「それは良い子にしてたらね」
ビアンゴとペスカは一人ずつ行ってきますの挨拶をしていきますが——しかし、そこでついにロゼが牙をむきました。
ロゼは器用にビアンゴにだけ笑顔を見せ、その一方ペスカにはそっぽを向いて応えます。
「……おや?」
「つーん!」
「こら、ロゼ。何してるの? 同じ職人なんだから仲良くしなきゃダメ——」
すぐさまビアンゴが言いますが、ロゼはそれにも聞く耳持たず。
「出会い頭に拷問してきた奴と仲良くなんかできるか!」
そう言ってビアンゴの腕を振り払い室内に駆け出すや、彼女はなんと下瞼を指で伸ばしてべっと小さく舌を出すジェスチャーをしました。
そうです。幻のパーフェクトあっかんべーです。
諸説ありますが、指で下瞼を下げ赤い部分……『赤目』を見せることから訛ったものとされ、べかこう、べっかんこうとも呼ばれる由緒正しき侮辱の作法です。
「ロゼ!」
「べろべろばー。おしーりぺーんぺーん」
なんと。この三女は絶滅危惧種であったべろべろばー、おしりぺんぺんまでも解禁してペスカをこれでもかというくらい挑発しているのでした。
——が、ペスカは現代っ子。その意味はよくわかりません。
「里が違えばこんな見送りの仕方もあるのだろうか? ちょっと子供っぽくてはしたない気がするけど……ふふ、かわいい」
などと考え、やれやれと内心肩をすくめると、
「行ってきます! べー!」
同じく舌を出しながら、何事もなかったかのようにビアンゴと街の散策に出るのでした。
◇
二人がまず目指したのは仕立て職人さんのお店でした。
ビアンゴの抱える荷物、ペスカの服をクリーニングに出すのと改めてペスカ用の制服をあつらえてもらうためです。
「シュ……」
「ペスカ。大丈夫だから。初対面でシャドーボクシングはしちゃダメ」
「……人間を見たら構えてないと腕が震えてくるんだ。落ち着かない」
「禁断症状とかあるんだ……あ、じゃあ!」
ビアンゴは閃いて、近くの雑貨屋に入ると小さなリュックサックを用意します。
「これを」
「入れるものとかないよ」
「いいのいいの」
そのリュックサックをペスカに背負わせてビアンゴは続けました。
「この紐のとこを握ってみて」
「こう?」
「ほら。ちょっと構えてるみたいにならない?」
これは名案でした。確かにそうしてリュックサックのストラップを握っていると、ペスカの腕の震えがおさまります。
「おお!」
「うん。バックパッカーみたいでかわいい! しばらくそれで慣らしてこ」
「ビア——」
歓喜のあまり、とっさにビアンゴを抱擁しかけてペスカは間一髪、理性を保ちます。
「ん?」
「……ううん、なんでもない」
そうは言ったものの、次は別の震えがペスカを襲うのでした。
それにシャドーボクシングは何も拳を構えるだけではありません。前後左右に対するステップや身体をのけぞらせるスウェー、反対に上体をかがめるダッキング……からのアッパーで顎を割ってやりたい浪漫と衝動もあるのです……。
『おいおい、いいのか? 鳩尾から頭の先まで正中線がガラ空きだぜ、ペスカ。あ、いま——危なかったな……。奴がプロなら、お前は今頃マウントに沈んでた……あ! あの歩き方、体格……間違いない。気をつけろ、ペスカ。ヤツは帰還兵だ。隙を見せたらその瞬間殺られるぞ! ペスカ、ペスカーーーー!』
人間とすれ違うたび、そんなふうに頭の中のセコンド・ペスカが彼女の耳元で囁くのです。
「避けようともしなくていいから」
「考えるより感じたらすぐ動くようになってるんだ」
「なかなかだね……」
ペスカはこう見えて理論派で本格的でした。
それから、道々、ビアンゴは橋やお店、目につくシンボルを次から次へと指差して説明していきました。
この街『村のイーハトーブ』は川が多く、小さな川から大きな河川まであってレンガの橋が至る所に架けられて、たくさんの島をつなぎあわせて形成されます。
教会が二つあって、そのどちらにも美しいガラス細工のモザイク工芸が足元の床からステンドグラスにまで見られ、窓や小テラスにはマリア像が飾ってあります。そして毎週日曜にはこの二つの教会でミサが開かれ、敬虔な神の信者たちは神父様のありがたい聖書や黙示録を聴きながら、お祈りを捧げるのでした。
けれども不思議なことに、街には木々が無数に生い茂っています。まるで妖精のすむ深い森のように、細かな根が建築物の表面を這いまわり、時には街の塀よりも大きな樹木が伸びて、適度に影を大地におとし、海風に洗われるさわやかな島国というよりはジャングルの秘境といった雰囲気。
夜になるとたくさんの虫たちが発光して、それが街一番の大通りに絢爛に咲くただ一本の桜の木と映えて、世にも幻想的な理想郷の風景を見せるのです。
街の花はその桜。
そして街の動物はまんぼうでした。
昨日はマイケルとの連行やロゼとの喧騒で見る間もなく過ぎてしまっていたのですが、改めて見ると工房を出たその瞬間からペスカは驚きっぱなしでした。
なんと、この街のまんぼうは宙に浮かぶのです。
そうして目に映る光景のどこを見ても、器用に木々の間を抜けて、またぼんやりと気ままに漂っているではありませんか。
「まんぼうはこの街のシンボルにもなってる生き物で神聖視されてるの」
「まんぼうが?!」
買い物の最中、ビアンゴはそうして得意げに言いました。
「そう。この街ではね、まんぼうは親愛の象徴。富と名誉と健康と平和と愛と幸福と縁結びと成功と慈しみと優しさの情の使者と呼ばれて尊ばれているんだよ」
「まんぼうが?!」
「そして同じように漂っているオオベニクラゲを食べるから、私たちには危害を加えないの」
「まんぼうが?!」
オオベニクラゲもまたこの街の不思議な生き物の一つでした。
本来4〜10cm程度のサイズのベニクラゲですが、この街の中空に浮くベニクラゲはその十数倍の大きさになり、オオベニクラゲと呼ばれています。
どこからともなくと増え続けるので、まんぼうが食べ尽くしてしまうということもなく、そうして循環しているのでした。
さて、街を一巡りして二人が最後に来たのはsheriffs officeでした。こじんまりとした事務所の戸を叩くと、中からマイケルが出てきて、二人の……いえ特にペスカの顔を見るや言いました。
「あ、ペスカ!」
「あれ、おかしいな。初対面のはずなのに、なぜ私の名を知っているんだろうか。ひょっとして敵かもしれない……ビアンゴ、警戒を」
「おかしいのはお前の思考回路だろ」
マイケルはゲンコツを落としたいのをギリギリこらえて腕を振るわせながら言うのでした。




