片桐浩三1
片桐浩三は、人生八十とすれば半分は過ぎて峠はもう越えている。しかし定年や年金の支給が六十半ばなら彼は人生峠の一番急な登り坂に差し掛かっている。その道を余計に峻険な坂にしたのがかつての伴侶、別れた妻の優香だった。優香がこの脱サラして五年前に始めた店へ顔を出すようになって片桐の心が複雑になった。
別れて遠のいていた優香が三千院の参拝帰り道で偶然にこの店を見つけた。最初の言葉が、いつ前の会社を辞めてこんな所に店を出したの、と云われた。余計なお世話だと思いながらも、客だと思えば真面に対応できた。それがここに喫茶店を開業して三年目で、別れて十年目だった。
ちょうど今頃だが、晴れていると思ったら急に雪雲に覆われて、案の定、雪が降ってきた。春にしては珍しいボタン雪だ。これでは参拝者は真っ直ぐ駐車場に行くから、今日はお客さんはないだろうと、カウンターの奥で雑誌を読んでいると、けたたましくカウベルが鳴った。
首を伸ばせば中年の女性が勢いよく、頭や肩に降り積もった雪を払いながら、寒そうに近くのテーブル席に、こちらに背を向けて座った。片桐は彼女のテーブルに飲み水を置いて注文を聞いた。メニューを置きながら彼女がふと振り向いて顔を上げると、二人の視線が合った。刹那にどちらもエッ! と感嘆の声を挙げた。彼女は注がれたコップを持ったままカウンター席へ移って来た。そこで二人は外の雪ではないが積もる話をした。
先ず息子の秀樹はどうしているか聞くと、大学受験に落ちて予備校に申し込んだそうだ。当然ながら娘は受かっていると聞いて、放任主義のあのババアが育ててどうしてこの差なの、と優香は相当に落ち込んだようだ。お前の詰め込み主義が秀樹には合わなかったそれだけだと言って聞かせた。どう言う訳かそれから店に来るようになって今に至っている。




