1-06 シャーク・エデン~サメたちはどこから来て、どこへ行くのか~
「海に行くんだぞ」
彼女は言った。だけど、無謀だ。だって、海はサメの物だから。
海だけじゃない。市街地の河川だって今やサメまみれ。
サメを駆除できたのも今は昔。今の王は国民よりもサメの命を有難がっている。「鮫王」と皮肉も込めて呼ばれる彼の暴走を止められる者はいない。海はサメ達の楽園で、私達が侵す事は叶わない。
だけど、彼女は行くと言う。禁じられた楽園へ。私達が追われた楽園、全ての命が生まれた場所、海へと。
これは、少女達の出会いの記録、やがて海に至る旅の記録だ。
『私達はどこから来たのか。私達は何者か。私達はどこへ行くのか』
いつだったか、そんなタイトルの油彩画を見た事がある。市内の大きな美術館で、とある画家の特集が企画された時その目玉として喧伝された作品だ。
旧世紀の前衛絵画で、一枚の絵の中に私達フカが生まれ死ぬ迄の姿が描かれている。若い女に壮年の女性、そして老女。その背景には、私達の遠い先祖であるフカの化石が描かれている。現在に至ってもなお発見された中では最古の、二足歩行する鮫の化石だ。
『私達も遠い昔は水の中で生活していたのかな』あの時一緒だったアクラは言った。『海や川を泳いでるサメ達みたいに』
アクラ。幼稚園から高校までずっと一緒だった友達。小柄で、いつもマイペースを崩さなかった女の子。
『海ってどんな所なんだろう』アクラは白い牙を光らせながら言った。『私達でも泳げるかな。サメみたいに自由に』
できっこない。そんな事、彼女にも解っていた筈だ。海は、サメ達の聖域なのだから。遠い昔に、私達と進化の過程で分かたれた同胞達の。いまなおエラで呼吸し、水中でしか生きられないサメ達の。
私達にサメに抗うだけの力なんてない。海に入ったところで、たちまち捕食されるだけだろう。彼らの牙は私達の皮膚と筋肉を引き裂き、骨を砕き、贓物まで届くだろう。
アクラもきっとその様にして死んだ筈だ。サメのひと噛みで致命傷を負い、そのまま川に引きずり込まれて捕食されたのだろう。
【川でサメに襲われて一家死亡】
ニュースは無慈悲にアクラ一家の死を伝えている。初夏の事だった。川辺でのBBQ中に、一家揃ってサメに川に引きずり込まれたのだ。
こういう事故は毎年の様に起こる。サメはこの国を流れる川の至る所でその牙を潜ませている。水鳥や魚を食らいながら、一番のご馳走――間抜けなフカが川辺に近づくのを待っている。
今もほら、私を狙っている。
眼下を流れる川で、サメ達の背ビレが同じ場所を何度も周回している。
あの橋の上にいるフカが落ちてこないか、と。
子供の頃から見慣れた風景だ。アクラとはよく川のサメ達を冷やかす様にして石を投げ込んだものだった。フカならきっと誰もが通る道だろう。当然、オトナ達はいい顔をしない。だけど、オトナ達が脅し文句に使う「サメ」がどれ程恐ろしい物なのか、私達はその身をもって知りたかったのだ。
携帯端末の画面をスクロールさせる。アクラ一家のニュースを画面外に追いやると、別の記事の見出しが現れた。
【サメ殺し続く】
誰かがサメを殺して回っているらしい。最初はヤパナ海側だった。そこから徐々に内陸へと移動し続けている。サメの骸が彼――或いは彼女の足跡だ。官警は必至でホシを追っている。サメ殺しは大罪だ。極刑もありうる。それが鮫王の治世における方針だった。
『我々はどこから来たのか? 海だ。海こそが我らの故郷であり、失われた楽園なのだ』
鮫王の有名な演説が脳裏をよぎる。
『我々は楽園を追われた。エラとヒレを失った。代わりに得た物と言ったら何だ? この手と脚がどれ程の物だという? 大地を踏みしめられるというのが何だという。この星を初めて宇宙から眺めたフカは何と言った? そう、母星は青かった、だ。この星は水で満ちている。我々は陸地という辺境を得て、この星の命である海を失った。なぜか? 我々の祖先が罪を犯したからだ。陸地に夢を見て、悪魔が唆すままにヒレを失ったからだ。我々はその罪を忘れてはならない。神聖なる海に穢れた我らが立ち入る事は許されない。海はサメの住処であるべきだ。悪魔の誘惑に屈しなかった偉大なる兄弟達の。ゆめゆめ覚えておく事だ。我々はサメの愚昧な弟であり妹なのだ。どうして歯向かう事が許されよう。ましてや、これを殺す事が許されよう。今一度言う。サメを殺してはならない。これは王命である。近い内に法整備も整うであろう。サメ殺しは大罪である。その様な傲慢な所業は、この王と神が許さない』
私達が生まれる前、サメを殺す事は罪でも何でもなかった。フカは自身の身を守るため、サメを駆除し、あまつさえ食してきた。そんな時代があった。
鮫王の戴冠以降、全てが変わった。鮫王は国教であるスクァロ教を重んじ、サメを神聖視し、これを傷つける事を禁じた。以降、フカは一方的にサメに捕食される立場となった。
鮫王は狂っている。そう口にするオトナは少なくない。皆、本音ではサメを恐れているし、同時に侮蔑している。自分達の様な知能や倫理を持たない劣等種だと。陸地に進出した自分達こそ星の支配者なのだと。
「馬鹿げてる」
私は呟いた。橋の手すりにもたれながら。相変わらず同じ所をぐるぐると回っている背ビレを見下ろしながら。
サメにしろフカにしろ似た様な物だ。私達は皆同胞を殺して生まれてくるのだから。母の胎内で無数の兄弟達を食らい、最後に残った者のみが胎を出てくる事ができるのだから。
サメにしろフカにしろ、その罪からは逃れえない。私達の牙は等しく血に汚れている。サメがフカを食らうのも、フカがサメを食らうのも自然の摂理であり、生存を懸けた争いなのだ。そこに善悪なんてない。
なのに――
『なら、どうして君は牙を恥じているの?』アクラは問う。『どうして感染症が収まってもずっとマスクをつけているの?』
あの時、私は答えられなかった。本心では解っていたからだ。私はフカもサメも等しく嫌いなのだと。同胞を食らってのうのうと生きているこの命が、牙が、汚らわしく思えてならなかったのだと。
『鮫王はもしかしたら君に似ているのかもね。自分達の存在に罪悪感を覚えているのかも。それで、罪を償いたかったのかも』
『だから、サメを殺す事を禁じた?』
『ズレてると思う?』アクラは悪戯っぽく微笑んだ。『まあ、そうだね。傍迷惑には違いないし。だけど、困るのは彼自身じゃないし、彼にはそのズレた道理を通せるだけの力があった。だから、やった。それだけの話なんじゃないかな?』
『私が王なら、あんな馬鹿な事はしない』
『なら、どうしたい? 君が王なら。その罪悪感とどう折り合いをつける? いっそフカもサメも全て殺してしまう?』
『サメを殺す事を禁じるくらいなら、そっちの方がマシかもね』
アクラは呆れたように笑った。『君なら本当にやりかねないね』と。
『私の事、何だと思ってるの』
『誰よりも優しいフカだと思っているよ』
優しくなんかない。私はただ中途半端なだけだ。サメを神聖視する事も、フカである事を誇る事もできない。自分がどうしたいのかも解らない。
だから――
「もう、いっか」
そう呟いて、私は橋の欄干から身を乗り出した。迷いが生まれるよりも早く、川に身を投じる。
どぶん、と大きな音を立てて、私は川に沈んだ。水は生温く、視界は淀んでいる。サメがどのくらい近くにいるのかも解らない。だけど、きっとすぐに迫ってくるはずだ。この体に牙を立て、内臓を突き破ることだろう。アクラと同じ様に。
俄かに湧き出てきた恐怖を押し殺すようにして固く目を閉ざす。きっとすぐに終わる。痛みは一瞬だと言い聞かせて。
だけど、そうはならなかった。
最初に感じたのは音だった。どぶん、とさっきと同じような音がして、それから、水の動きが激しくなった。そう感じた。そして鼻を突く嫌な匂い――血の匂いだった。
何が起こってるいるのだろう。思わず目を開く。すると、少し遠くでサメがぴくぴくと痙攣しながら水面に浮き上がっていくのが見えた。血が水に溶けて煙のように漂っている。
誰かがサメを殺したのだ。そう理解する。でも、誰が――
次の瞬間、誰かに腰を掴まれた。フカの手だ。振り返ると、そこには、少女らしき顔があった。少女は私を抱える様にして懸命に泳いでいる。岸を目指しているらしい。
とんだお節介もいたものだ。だけど、抵抗する気にもなれない。私の勝手で彼女の命まで危険に晒す道理はなかった。
しかし、サメにはそんな事は関係なかった。さっき死んだのとは別の個体がこちらに迫ってくる。めったにないご馳走が二つセットで落ちてきたのだ。逃す手はないだろう。
岸はまだ遠い。すぐに追いつかれる。私を囮にして逃げるよう少女に伝えようとした。しかし、水の中でどうやって? 藻掻いたところで邪魔になるだけだろう。
どうすればいいのか解らないまま、サメが迫ってきた。今やはっきりと見える、私達の同胞。ざらついた肌と、大きくて鋭い牙の持ち主。この川の支配者。私達フカを食らう者。
サメが口を広げる。
その瞬間だった。何か細長い物が水の中を突き抜け、そのままサメの口内に突き刺さった。銛だ。少女が放った物らしい。彼女はもがき苦しむサメから銛を引き抜くと、再び泳ぎ出した。
「はあはあ、助かったんだぞ」陸に上がると、少女はその場にへたり込んだ。少し鼻にかかった声で言う。「お前、大丈夫か?」
「うんまあ……」
いつの間にかマスクが外れていた。牙を隠す様に小声で答える。
「なら、よかったんだぞ」少女は満面の笑みを浮かべた。「今日はいい日だ。フカを助けられたし、サメの奴を二匹も殺せたんだぞ」
「貴方って、もしかしてニュースの……」
「ああ、話題になってるらしいんだぞ。メアがサメを殺して回ってるって」
「どうしてそんな事をしてるの?」
「どうしてって」少女は自明の事を聞かれた様に首を傾げた。「サメをやっつけて海を取り戻す為なんだぞ」
「海を?」
「そう」少女は頷いた。「メアは海に行きたいんだぞ」
ニカッと白い牙を見せて言う。その牙に、どうしてだろう、私は嫌悪感を覚えなかった。





