1-05 アメリカ式決闘
彫刻家のヴェロニカは、死んだ友人シュテファンのアトリエを譲り受ける。写真家だった彼は何枚かの写真の裏に不可解な遺言を残しており、作品や蒐集品の並ぶ屋敷は怪物が潜む迷宮のように彼女を惑わす。
「どうか、ここで時を止めないように」
「薔薇を枯らさないで」
「ああ、君を愛せたらよかったのに!」
さらに、密かにアトリエに住み着いていたシュテファンの甥ゲオルクが現れ、若き日の友人に生き写しの男に彼女は動揺する。
「知ってるか、彼が死んだ理由を?」
シュテファンは石像の頭をピストルで撃ち、跳ね返った弾丸により絶命した。その彫刻は彼の依頼によって彼女が作ったもので、青年期のシュテファン──もとい、ゲオルクの姿をしていた。
「つまり、彼は負けくじを引いたんだ」
ゲオルクは、叔父との奇妙な共同生活について語り始める。それを聞きながら、彼女は生前のシュテファンとの幾つかの会話を思い出す。
アメリカ式決闘:
くじ引きで負けくじを引いた者が自殺する。
◆
プラタナスの通りを抜け、植物園の脇の細い階段を登った先に、そのアトリエはひっそりと佇んでいる。
曇り空の下、門を開けて敷地に入った私はすぐに足を止め、握りしめていた封筒から一枚のオートクローム写真を取り出した──夢の中のようにふやけた色で写し取られているのは、慎ましい温室と広いバルコニーのある、くすんだ石造りの屋敷。
私は実物と見比べて、家主を失うとこれほど寂しげに見えるものか、などと考えながら写真を裏返した。少し滲んだインクで「どうか、ここで時を止めないように」と書かれている。
私がベルリンの芸術サロンに顔を出すようになって最初に声をかけてくれたのがシュテファンだった。彼は写真家で私は彫刻家、さらに三十ほど年齢が離れていたにもかかわらず、私たちは不思議と意気投合した。これほどの友情はなかなか得られないものだと思う。
アーティストとして成功していたシュテファンはポツダム郊外に屋敷を持っていて、アトリエとして使っていた。彼は誰もそこに招かず、謎に包まれた屋敷についてさまざまな噂が囁かれていた。
彼が亡くなったのは突然のことで、私は遥か遠い外国にいたため葬儀にも間に合わなかった。だが、帰国してすぐに彼の弁護士がやってきて、私は幾つかの書類にサインを求められた後、あのアトリエはあなたのものになった、と告げられた。そして最後に一通の封筒を渡された。
宛名はこうだった。
「私のゴルゴーン」
ゴルゴーン。正式には《ボヘミアのゴルゴーン》というのが界隈における私のあだ名だった。
寛大なるヴァイマル憲法の下、このごろサロンやキャバレーを牛耳っている愚行集団では奇妙な通り名を持つのが流行っており、みな《死後硬直したバルタザール》とか《聖ヴィトゥスの踊り》とか名乗っていた。ただの悪ふざけで生まれたあだ名をシュテファンは面白がり、よく私をゴルゴーンと呼んでいた。
ともかく、封筒の中には数枚の写真が入っていて、裏には彼なりの遺言なのか、奇妙な文言が書かれていたのだった。
私は外付けの階段を上って古びたバルコニーに足を踏み入れ、別の写真を取り出した。壁にしがみつく蔓草、罅の入った怪物のオブジェ、そして淡いピンク色の薔薇。
印画紙の裏に走り書きされた言葉は「薔薇を枯らさないで」だ。
目の前のバルコニーには薔薇が、やや野放図に枝を伸ばしていたが、どう見ても枯れていた。
私は正面玄関に戻って扉の鍵を回した。
エントランスにはシュテファンが集めていた、古今東西の仮面が飾られていた。古代ギリシャの役者の面、長細いアフリカの戦士、牙の生えたアジアの悪魔。
彼が好んで吸っていたイタリアの煙草の香りが微かに残っている。私はそれから逃れるために自分の煙草に火をつけた。
次の部屋に入って電気のスイッチをひねったが、電球には赤いセロファンが貼られており、暗室程度の明るさにしかならなかった。
壁にはびっしりと写真が貼られていた。写真は意図を持って切り取られ、部屋全体が巨大なフォト・モンタージュと化していた。写っているのはすべてシュテファン自身だ。はっきり言って彼はナルシシストだったため──確かに六十を過ぎても美しかったが──あらゆる年代のセルフポートレートが存在した。
私はシュテファンの眼差しを思い返す。どこか空虚で、水面のように不安定に揺れ動く……それは彼の作品にも反映されており、みなその歪さに魅力を感じていた。
全体で何かのシルエットを表しているようだったが、暗くてよく分からなかった。
どこかからポチャン、ポチャンと水の音がする。雨漏りか、水道管が壊れているのかもしれない。私は音を頼りに幾つかの扉を抜けた。
そこはタイル張りで、天井に取り付けられた金色の蛇口から水が滴っていた。床では大理石の女性像が寝そべり、腹の部分は幾何学模様が金メッキされている。水滴は臍のくぼみに落ち、模様に沿って流れ、陰部を模した穴に消えていく。
私の作品だ。タイトルは『ダナエ』。シュテファンは仲間への賛辞を惜しまず、気に入った作品をよく買い取っていたが、これを特に褒めてくれたのを覚えている。
蛇口を閉めたかったが、手が届かないので後回しだ。
ゆるい風が私の髪の毛を撫でた……窓が開けっ放しなのかもしれない。私は短くなった煙草を踏み消し、空気の動きを手繰るように足を進めた。
たどり着いた部屋は広く、透けるほど薄い布が何枚も吊るされ、半開きの窓から吹く風に揺られて亡霊のように見えた。壁際には三台の小型映写機。
瞬間にこだわるシュテファンが映画に手を出していたとは意外だ。軋む窓を閉めながら、実際のところ彼は私に心を開いていたのだろうか、と考える。
フィルムには何が写っているのだろう。映写機の使い方を調べなければ──。
その時……。
ボーン、ボーンボーン、と音がした。時計が時刻を告げている。
この屋敷はしばらく無人だったはずだ。
だが、時計が動いているということは……誰かがぜんまいを巻いたのだ。
しばらく彷徨った後、私はその部屋を見つけた。壁掛けの振り子時計と向かい合うように、真ん中に一つの石像がぽつんと置かれている……これも私の作品だった。数年前にシュテファンに頼まれて作った。モデルは二十三歳の頃の彼で、何枚ものセルフポートレートを元に彫ったのを覚えている。
石像の頭部は破壊されていた。残った大理石には焼け焦げがある。至近距離で撃ったのだろう。それを繰り返すうちに、一つの銃弾が跳ね返り、彼の額を貫いた。
つまり、それがシュテファンの死因だった。
私は封筒から一枚の写真を取り出した。撃たれる前の、完璧な姿の石像。顔の左半分は深い影に覆われている。写真をひっくり返すと、こう書かれていた。
「ああ、君を愛せたらよかったのに!」
彼はなぜ、わざわざ作らせた彫刻を壊したのか。作品をどう扱おうが依頼人の自由だ。ただ私は、自分が──事故とはいえ──彼を死に至らしめた出来事の一部である、そんな気がしてならなかった。
何かを踏みつけた私は危うく転びそうになった。屈んで足元を確認すると、それは歪んだ弾丸だった。これと同じものがシュテファンの脳を切り裂いたのだ……床に残る黒い染みから目を背けながら、私は弾丸を拾い上げてポケットにしまった。
ギシッ……。
振り子時計のカタカタという音に混ざって、床板の軋む音がした。やはりこの屋敷には誰かがいるのだ。
それはゆっくりとこちらに近づいて来る。私は呼吸が浅くなるのを感じながらそれを待った。
やがて、開けっ放しの扉から何者かの影が現れた……長い角を持つ何か。それは少し躊躇うそぶりをしてから、部屋の前に立った。
私は息を詰めてその人物を見つめ、ただ牡牛の面をかぶっているだけだと気づいた。
彼はゆっくりと仮面を外した──その下の顔を目にして、私は心臓が止まりそうになった。
「ありえない……」
男はシュテファンにそっくりだった。正確には、若い頃の彼の写真に生き写しだった。
幽霊でも見たような私の表情に、男はすぐに訂正した。
「違う──僕はゲオルク。彼の甥だ」
シュテファンに甥なんていただろうか。たしか、姉妹が何人かいるような話は聞いた覚えがある。
「どうしてここに?」
「ずっと暗室に隠れてた。地下のね」
それが本当か否かについては後で考えることにした。これだけ似ているなら親族なのは間違いないだろう。
「そう……私はヴェロニカ・オルリック」
「ああ」彼は納得したような表情になった。「《ボヘミアのゴルゴーン》か」
「呼ぶならロニ、と」
「ロニ。そっちの方がいい」彼は破壊された石像を指差した。「僕の作者だろう?」
「あなた?」
「そう──シュテファン、可哀想な老いたナルキッソス」ゲオルクは牡牛の仮面を彫刻の砕かれた首に引っかけた。「知ってるか、彼が死んだ理由を?」
「跳ね返った弾丸に当たったんでしょう?」
「彼はなぜ、そんなことをしたんだと思う?」
「さあ」
芸術家の考えや行動の解釈なんて、それ以上に無駄なことはない。いずれにせよ彼は甦らないのだから。
ゲオルクは胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。馴染みの香りがあたりを漂う。シュテファンの煙草だ。
彼は石像の脇腹を撫でた。
「彼がパラグラフ175だったのは知ってた?」
「ええ」
「彼は自分にそっくりな僕を愛していた。はじめは僕もやぶさかじゃなかったけど、長くは続かなかった。僕に拒絶された後、彼はまだ僕を愛していたから、君に僕を作らせたんだよ」
私は頭部を壊された像を示して尋ねた。
「それで、彼はどうして撃ったの?」
「さあ、僕という存在に耐えられなくなったのか、ほかの理由かもしれないね」
まるで何か心当たりがあるかのような口ぶりで言うと、ゲオルクはこちらを振り返って目をすがめ、煙草を手に私を見た……その眼差しはシュテファンと同じ空虚を抱えていて、私は少し怯んだ。
「君は美しいな」彼は煙草を咥え直し、独りごとのように言った。
「え?」
「彼の被写体になったことは?」
「いちど打診されたけど、断ったわ……それが何か?」
「いや、忘れてくれ」彼は私に背を向け、毀れた像の正面に立った。「そう、なぜ彼がこれを撃ったのか……」
彼は長く煙を吐いた。
「つまり、彼は負けくじを引いたんだ──アメリカ式決闘ってやつさ」





