1-04 噂の公爵子息は、前世のカオリを探している
十八歳の誕生日に、公爵家の次男アラン・ルミエールは、六十八歳で生涯を終えた前世の記憶を取り戻した。妻の佳織と共に事故で命を落とした彼は、若き肉体に再び魂を宿しながらも、長く連れ添った妻を忘れられずにいた。
それからひと月。今日は社交界デビューの日。しかし、孫娘か曾孫娘ほども年の離れた令嬢たちに、彼はどこか距離を置いてしまう。
そんな中、金木犀の香りを纏う伯爵令嬢フローラと出会う。
彼女に惹かれながらも、前世への想いが彼の心を固く閉ざしていた。
一方のフローラもまた、アランの笑顔に、郷愁にも似た温かさを感じ、惹かれていく。
――彼女こそ、アランが探し求める佳織の生まれ変わりだった。だが、二人はまだその運命を知らない。
金木犀の香りが二人を引き合わせ、かつての飼い猫が静かにその運命を見守る――
熟年夫婦の魂が再びめぐり逢う、異世界転生恋愛譚。
公爵家の次男が男色家だという噂は、香水のように会場を静かに漂っていた。絹のドレス、シャンデリア、弦楽の調べ――華やかな世界は、一服の絵画のようだ。アラン・ルミエルは光の当たらぬ背景に溶けこみ、無表情で眺めていた。
時折、若く美しい令嬢たちが彼に微笑みかけながら通り過ぎる。だが、心は波立つことがない。前世の記憶が蘇った彼にとって、彼女たちは――孫娘か曾孫娘の年頃に過ぎないのだ。
先月、十八の誕生日の朝、目覚めとともに蘇ったのは、芳暁という老人の記憶だった。彼は日本の閑静な街で、妻の佳織と、老猫の白玉と穏やかな晩年を過ごしていた。趣味は読書とガラスペンの蒐集。そして妻と共に出かける絵画鑑賞。それは絵に描いたような、おしどり夫婦だった。
その日も、美術館からの帰り道だった。雨上がりの坂道を杖にすがって登っていた。隣を歩く佳織と笑い合った瞬間、ヘッドライトの閃光が二人を飲み込んだ。握り合った手の感触だけが残る。そして世界の記憶は――ぷつりと切れた。
「佳織!」
自分の声で目を覚ます。声は金糸の天蓋に吸い込まれ、返ってくるのは静寂のみ。窓の外は、レンガ造りの家々と石畳。昨日まで、当たり前に見慣れていた景色。一方で、鏡の中の若い顔は、まるで他人だった。長い夢から覚めたような、同時に夢の中に迷い込んだような感覚。
――前世の記憶というのだろうな。
アランとしての十八年と、芳暁としての六十八年が混ざり合う。
――なぜだ?
浮かんだ疑問。なぜ自分だけなのか。なぜ、共に逝った妻がいないのか。彼女もどこかで別の姿で生きているのだろうか。だとしても――見つける術はない。自分だって、かつての芳暁とは似ても似つかぬ姿と名前なのだ。たとえこの世界のどこかにいたとして、探し出すことは叶わない。
――ならば。
彼女には自分よりふさわしい人と、幸せになっていてほしい。そう願わずにはいられなかった。この胸の痛みは――祈りに近い。記憶の中の皺だらけの手とは違い、瑞々しい手の甲を呆然と見つめながら、アランは、ぽろぽろと涙をこぼした。
※
ひと月ですっかり山々は紅葉し、秋の装いを深めていた。今日はルミエル公爵家の次男として初めてのデビュタントの日だった。四頭立ての馬車の中で、兄のガイルが軽い口調で話しかけてくる。
「緊張してるのかい?」
「いえ、気が進まないだけです」
アランはそっけなく答えた。
「先月までは、あんなに楽しみにしてたのになぁ」
そうこぼす兄に代わって、隣の父が口を開いた。
「慎重なのは良いことだ。だが、運命の相手がいるやもしれん。そうつまらなそうにするもんじゃない。お前は家督を継ぐ必要はないのだから、なるべく望みは聞いてやろう」
「ありがとうございます。承知しました」
そうアランは答えたが、今や芳暁としての記憶を合わせ持つ彼の望みは、別の所にあった。
――佳織の代わりなど、どこにもいない。
代わりだなんて。佳織にも、その女性にも失礼だ。この先、ずっと独り身で構わない。すでに一生分、一人の女性を愛したのだから。そんな心持ちでいるものだから、アランは主賓の一人であるにも関わらず、若い女性たちを避けていた。
「ルミエル様、随分と控えめじゃありません?」
「特別なご趣味でもおありだったりして」
「まぁ」
扇の陰の囁きと好奇の視線が、彼にまとわりつく。
「アラン、良いのか? なんだか妙な噂が立ってるぞ」
心配した兄が彼の元に飛んできた。アランは首を横に振る。否定する気はない。噂話が女性たちを自分から遠ざけてくれるのなら、それも悪くないと思えた。
「ルミエル様。一曲ご一緒いただけますか?」
淡いピンクのドレスを揺らし、一人の令嬢が手を差し出してきた。王宮楽団長の娘だ。一向にアランが誰もエスコートしようとしないのに痺れを切らしたのだろう。勝気な性分が眉に表れている。
「お。アラン、お誘いだ。行ってこい」
戸惑うアランの背を軽く押して送り出す。アランは意を決して彼女の手を取り、ダンスの輪に加わった。だがそれは義務のようなダンスだった。会話も視線の交差も、笑顔さえもない。
「お相手、ありがとうございました」
曲が終わると、アランは丁寧に一礼し、そそくさと壁際へと戻ってしまった。取り残された令嬢の頬が紅潮し、引きつった笑みを浮かべ去っていく。その背中は、抑えた苛立ちを雄弁に物語っていた。
次は自分がと名乗りをあげるつもりで様子を伺っていた他の令嬢たちは、その様子に囁き合う。
「やっぱり、ご嗜好が、女性ではないのよ」
「えぇ、きっとそうね」
それはそれで彼女たちにとっては、ご褒美なのか。楽しそうに談笑している。アランはグラスを傾け、そんな様子を他人事のように眺めていた。年長者は若者に主役を譲り、賑わいは遠目に眺めているのが一番だと、彼は思った。十八の体は軽いのに、視線は無意識に杖のありかや、椅子を探してしまう。重ねた年月のせいか、心は六十八の芳暁の部分が大きかった。
※
「ダンスはお嫌いですか?」
不意にかけられた声に、アランはグラスを落としそうになった。
「まぁ、ごめんなさい。私ったら。話しかけるタイミングが悪いと、しゅじ……あ、いえ、ガヴァネスに、いつも注意されますの」
声の主は、白地に鮮やかな黄色の花弁をあしらったドレスの女性だった。彼女の髪が揺れると、金木犀の香りがふわりと漂った。その香りは、佳織が愛した秋の匂いだった。まるで、彼女がそばにいるかのような錯覚を覚える。
「嫌いというわけでは。ただ、得意でもないだけで」
彼は視線を落とし、彼女を見た。透き通るような肌、緊張を隠すような微笑み。質問からして、彼女も恐らくダンスが苦手なのだろう。
「カオリ……」
「え?」
彼の言葉に、彼女が驚いた。
「金木犀ですか? その香り、素敵ですね」
「あ、あぁ。香り……。ありがとうございます」
彼女の目が輝く。
「東国で愛されている花だそうで。母がドレスに合わせて選んでくれました。でも、なんだかトワレの香りのよう……」
口元を抑えて小さく笑う彼女に、今度は、彼が驚く番だった。この世界では、トイレに花の香りの芳香剤を置くのは珍しい。何気ない会話が前世の記憶に触れる。庭に咲く金木犀の枝に背伸びをして写真を撮ろうとする佳織の姿が脳裏に浮かぶ。口元を隠して笑うその仕草も記憶に重なり、胸が締め付けられる。
「申し遅れました。フローラ・ヴァレールと申します」
彼女は不慣れなカーテシーをし、顔をあげた。視線が交差する。ヴァレール伯爵家の一人娘で、十八になったばかりの彼女もまた、デビュタントの主賓の一人だった。
「アラン・ルミエルと申します」
彼の方も、丁寧に挨拶を返す。
「あの……壁の花同士、少しお話でもしませんか?」
控えめながら、真っすぐなフローラの声。彼女の瞳には、他の華やかな令嬢とは、どこか異なる、寂しげな光が宿っていた。
――綺麗なお嬢さん。すまない。あなたは、かつて私が愛した人を思い出させる。私には眩しすぎるんだ。そっとしておいてくれまいか。私は十八であると同時に、六十八の老人なのだよ。
挨拶を交わしたばかりだというのに、彼はどうやってこの会話を終わらせようかと考えていた。
※
フローラとの会話は本当に少しだった。天気、食事の好み、誕生日が偶然同じ――当たり障りのない話題ばかり。彼女は魅力的だった。彼女の笑顔には、懐かしい温かささえ感じられた。
――だからこそ、これ以上は深入りすまい。
なにしろ、五十も年齢が離れているのだ。こんな年寄りの相手などして、若さを浪費することはない。彼女から香る金木犀の香りの中に、佳織のことを思うばかりで、目の前の彼女をきちんと見てはいなかった。そのことに気が付き、彼女への申し訳なさから、早々に会話を終わらせた。そしてアランは、再び壁際に立ち、果実水で喉を潤すのだった。
※
その夜、フローラはゆったりとした部屋着に身を包み、自室の窓辺に腰を下ろした。カーテンの隙間から射し込む月光が、足元で丸くなる白猫のブランの毛並みを銀色に照らしていた。
「ねぇ、ブラン」
フローラは優しく猫の背中を撫でた。ブランが小さく喉を鳴らす。
「今日ね、胸の奥がふっと温かくなる殿方にお会いしたの。ルミエル公爵家のアラン様。まるで、懐かしい、あの人に触れたみたい」
彼女は伯爵家の一人娘として、十八年間、完璧な令嬢であることを期待されて育ってきた。ガヴァネスの厳しい指導、父の重い期待――そんな中で、今日会ったアランの笑顔は、故郷の風景のように温かかった。生まれてこの方、引っ越したことはなく、「故郷」なんてものは無いのだが。
ブランは尻尾を緩やかに振り、片目を細めてフローラを見上げた。
「笑った時にできる笑い皺がね……どこか似ている気がするの。不思議よね」
彼女がブランを抱き上げ、頬を寄せると「うにゃ」と鳴き、前脚で宙を叩いた。その仕草に、フローラは目を細めた。
「まぁ、ブランったら!」
かつて飼っていた猫を思わせる仕草。フローラの中の佳織の記憶がちくりと胸を刺す。フローラはブランを抱きしめ、まぶたを閉じた。僅かな会話だけだったが、彼の微笑みが思い出される。彼女の抱える寂しさが少し和らぐ心地がした。
――また、お会いできるかしら。
庭の金木犀の香りが、静かな夜気に滲んでいた。





