1-03 nos mauvaix baisers─斜陽の影に溶け合う吐息─
優しく頼り甲斐のある夫と健やかで愛らしい娘。
順風満帆な日々を送っていたはずの光坂瑠美は、友人たちとの会話をきっかけにその生活に感じていた漠然とした息苦しさを自覚してしまう。
友人の紹介で知り合った大学生の奈洲田素数に誘われるままに肌を重ねた瑠美は、自己嫌悪に苛まれながらも若い情動のまま自分を求める素数との関係に少しずつ嵌まり込んでいく……。
部屋の中には、刺すように冷たい外気なんてものともしない熱が立ち込めていた。
どちらのものともつかない息が、けして広くない寝室の空気に溶ける。できることなら忘れてしまいたい──この瞬間が終わったら即座に消え去ってほしい熱気が、我が家の空気に馴染んでいくことへの嫌悪感が、倦怠感に包まれた体に寒気を呼び戻した。
「瑠美さん大丈夫、震えてるよ?」
「……別に。何でもないから」
名前を呼ばないで、とまでは言えなかった。
努めて平静を装いながら背後の声に答えた私は、いつしか日が傾いていたことに気付いた。
窓から差す夕陽が、暗くなった部屋を赤く染めている。結婚祝いに買ってもらった時計の振り子が規則正しく揺れる様も、新婚旅行先で撮った写真の中で、夫と同じ表情で幸せそうに寄り添って笑う私も、数年前に娘が図工の課題で作ってくれた小物入れも、そのどれもが赤い部屋の中で心細くなるほどよそよそしい。
毒々しいまでの色味で照らしつける夕陽はまさに斜陽と呼ぶに相応しく、ただの自然現象のはずの夕焼けをそう呼びたくなるのは、今の私の気持ちが多分に影響していることもとっくにわかっていた。
背後の──ベッドに倒れ臥したままの私の上から聞こえる声は、軽々しく笑いながら言葉を続ける。
「別に平気だよ、みんなやってることなんだから」
ええ、あなたの中ではそうなんでしょうね。
そう声に出さなかったのは、込めたいだけの嫌悪が声に宿らないのがわかっていたから。
体から力という力が抜けていて、気の無さそうな溜息を返すだけで精一杯だった。なけなしの抵抗を見透かした可笑しそうな笑い声が背中に注いで、顔を上げることさえできなくなって。
背中に感じる、熱い雫の感触。
欠片ほども誠実さを感じられない、軽薄な声。
そんな男が確かにここにいる事実を私に突きつけ、目を逸らすことさえ許してくれない確かな感触。
彼に対して内心毒づく余裕が生まれたのは、ここ一、二週間のこと。その余裕はつまり、私がこういうことに慣れてしまった証拠でもあり────胸の奥から泥が湧いて、頭の中が夕闇色の霧で覆われていくのを感じた。
「そろそろ出ていって。娘が帰ってくる時間」
「そうだっけ、瀬奈ちゃん今日は塾って聞いてたけど?」
彼を追い出そうとついた即席の嘘は簡単に看破されてしまい、背中に汗ばんだ重みと欲望まみれの熱がのし掛かってくる。
「あともう一回くらいいいでしょ」
いやだ。
嫌だ──嫌だ。
たった数文字口に出せばいいはずの言葉を突っ返せない自分が、本当に嫌だ。
再び全身を揺さぶられ、体はおろか思考までも揺さぶられていく中、熱を帯びていく体に抗うように、私は必死に頭を巡らせる。
どうしてこうなったんだっけ。
心の中で必死に釈明の言葉を作りながら、私は後ろから侵入ってきた彼──奈洲田素数との関係が始まったきっかけを思い返していた。
きっと人に相談すれば嗤われる。
自業自得だと眉をひそめられる。
それでも、私だけが悪いわけじゃないと誰かに言ってほしくて。他でもない私自身がそう思い込みたくて。
反芻してしまう。
彼と会うきっかけになったあの日──心にある影さえも無遠慮に照らしつけてくるような、どこまでも無神経に思えた秋の月夜を。
「誕生日おめでとう、菜月」
「おめでたくな~い! もう32だよ、32! もうそろそろ誰か見つけろって親がうるさくてさぁ~!」
それは、夏の名残がようやく過ぎ去って、秋の気配が近付いていた頃。学生時代から付き合いのある片桐菜月の誕生祝いに、当時のグループ3人で集まっていたときのことだった。菜月は親が、と言うけど、本人も結婚願望を募らせていることは私たちの間では共通認識だ。それでマッチングアプリや結婚相談所、婚活パーティーなど、それらの話を聞き始めると何時間もかかってしまいそうなくらいいろいろ使っているらしいけど、未だに独身生活を続けているとのこと。
本人曰くかなり切実らしいけど、ここ最近は菜月の婚活話が3人で集まるときの肴になっていることは否めない。
この日も、菜月の恋愛事情の話になって。
「こないだの若社長はどうだったの? なんか珍しく向こうがベタ惚れだったんでしょ?」
「あー、あいつはムリムリ。確かに将来有望だしお金もあるし、それにイケメンだったっちゃだったけどさ? で、あたしに惚れ込んでたし」
「へぇ、ずいぶん惚気るじゃん。そんなハイスペから好かれるなんて普通ないんじゃない? 多少んとこは妥協しとかないと結婚なんて遠いよ?」
「義香みたくガス抜きしなくてもいいようにちゃんと選びたいんですー」
菜月の言葉に、思わず私は「飲みすぎだよ!」と諫める。義香は数年前、彼女自身の浮気を旦那さんに知られて離婚しているのだ。菜月は言葉を濁しているけど、きっと『ガス抜き』とはそういう意味だったのだと思う。いくら酔ってるといっても、そんなデリケートな部分に触れるなんて……!
ところが、当の義香はというと全然平気そうで。
「いいって瑠美、別にほんとのことだし。てかうちと旦那が合わなかったのは他の部分だからさ」
「うーん、でも……」
「それに、うちらまだ若い……あー、っていっても限度はあるけどさ? 今のうちしかできないことってあるじゃん」
「今のうちしか……?」
「なに惚けちゃってんの~? うちらまだ若いよねって話してんだから、そりゃひとつでしょ」
みんな、その日はずいぶん酔っているみたいだった。
だから少しだけ嫌な予感はしていたんだけど……。
「何、それ?」
やっぱり何となく気になってしまって。
訊かずにはいられなかった。
ひょっとしたらそれが、全ての始まりだったかも知れない。菜月と義香はふたりで顔を見合わせて、まるで学生の頃に悪だくみを聞かせてくれていたときのような笑顔を浮かべてから。
「そりゃさ、やっぱり男でしょ」
「他人から言われるとウザいけど、やっぱりそういうのって期限あるしね」
「……男?」
一瞬ピンと来なくて、思わず聞き返せば。
ふたりはその笑みを更に深める。
「まあ、瑠美はねぇ~」
「昔から真面目だったしねー」
「……何、その言い方」
ふたりはそういう人じゃないとわかってはいるつもりだったけど。何となくそのときの笑顔は見ていて嫌な気持ちになる笑顔で。思わずグラスいっぱいに注がれたハイボールを飲み干して、じっとふたりを見てしまう。慌てたように「ごめんごめん、嫌味とかじゃなくてさ!」と言ってくれたけど、とてもそうは思えない。
「瑠美はさ、旦那さんと早くに知り合えてすごい幸せそうにしてるじゃん? だから関係ない話だったかなって────」
「私だってさ、別に何の不満もないわけじゃないんだけど!」
自分でも、『そうだっけ?』と思った。
今にして思えば、友達ふたりから除け者にされたみたいな状況が嫌で、強引に「私は今の結婚生活に不満を持っている」と思い込もうとしていたのかも知れない。
だけど、いや。
普段なら取り立てて不満として挙げることもないけど、確かな不満はあったんだと思う。だけど、やっぱりこんなところで打ち明けるのは大袈裟だったかも知れない──そんな風に悔いても、手遅れなのはわかっているけど。
「そりゃ、旦那は優しいよ? 娘だってどんどん大きくなって、幸せだなって思うけど……! でも、細かい不安はあるよ。お風呂のタイミングあんまりずらさないでほしいとか、寝坊するくらいなら夜更かししないでとか、塾の時間はちゃんと塾行ってほしいとかさ……。それに、」
後からなら、いくらでも言える。
この辺りでやめておけばよかった──後からそう言うのは、あまりに簡単。
だけど、このときの私は止まれなかった。
日常の些細な不満を口に出した途端に、ふとした不安が口を突いて出てしまっていた。
「私の人生、ずっとこのままかなって思うことが時々あるの。私は旦那の嫁で、瀬奈のママで──毎日仕事と家事で終わって、そのまま疲れて寝るのを繰り返してると、そんな風に思っちゃうときがあって……っ、」
思わず出た言葉だったけど。
事実としてそんな閉塞感はあったわけで──若い頃は一切感じることのなかった、自分の人生がこの先行き止まりとしか思えない、息苦しくなる感覚。
本当に私の人生はこれでよかったのか。
取り立てて不幸なわけじゃない。
苦痛や不満があるわけでもない。
それでも、時々自問してしまう。
口に出した不満が、心を覆って。
あとは、もう勢いだった。
たぶん酔っていた──いろんなことに。
菜月と義香が「それなら、ちょっとすっきりしちゃう?」と誘った言葉を断る気にもなれなくて、そもそも断るような流れでもなくて。
ふたりに連れられていった先の、やけに広々とした部屋で。
「あれ、先来てたんだ」
慣れた手付きで鍵を開けた義香に続いて入ると、後ろから私たちよりもかなり若そうな少年たちが現れた。そっちも私たちと同じ3人で連れ立っていて。
「今日は珍しく順番待ちとかないんだ」
言葉の意味を察するより前に、菜月と義香は早々に男たちとペアになって、広々とした部屋の目的を私に説明するようにその体を交え始めた。
呆気に取られている私に、残っていたもうひとりが囁いた。
「じゃあ、僕らもしちゃお」
その声の主が、奈洲田素数だった。





