1-17 金眼探偵―鳥辺契の妖真名録―
京都・鳥辺野。生と死の境が曖昧になるかつての風葬の地で、新人新聞記者・遠野ことはは、“歩く屍”の噂を追っていた。その屍が、失踪した兄なのではと疑って。霧の中で目撃した人影は、確かに兄の面影を宿していながら、眼窩は奈落のように空洞――魂の抜け殻だった。
彼女を救ったのは、金碧の左眼を持つ探偵・鳥部契。飴の音と香の気配を纏う奇妙な男は、兄の状態を「真名を奪われた」と断じる。真名とは魂の核であり、本来誰にも触れられぬはずの禁忌。しかしことはの家系は“自身の真名を知る”特異な家だった。
契の眼は真名を見抜く特異な力を持つ。歩く屍、契の眼に映らない魂の名――それらが示すのは、ひとつの異界の気配。
「お前の兄は、自分で真名を渡したんだ」
金眼の探偵は、妖が織りなす“名”の闇へと、彼女を導いていく。
斑を帯びた灰色の墓石に、柔らかな色彩がひとつ、ふたつと降り積もる。
冬の名残がまだ冷たい。山裾を這う風が、微かに冬を忍ばせる。
それでも肌を撫でる風は柔らかく、鳥辺野の夜は静寂の中でひっそりと明けていく。
幾多も並ぶ墓石群の上を、光と影が移ろう。ひらり、はらり。落ちる淡い花弁は桜。だが、都を彩る絢爛なソメイヨシノとは違う。清水の方から運ばれた山桜で、花は小さく、色は少しの紅を溶かした柔らかな白。
死灰を思わせるその色は、風葬の地にこそふさわしかった。ひらり、はらり。瞬きのたび視界に舞う。けぶる朝の霧に溶け、どこまでが花でどこまでが霧なのか、分からなくなる。
生と死の狭間にあるこの土地は、すべての境を曖昧にした。花も香りも、死も、生も――みな薄い膜の裏で溶け合い、区別を失くす。
朝陽がジワリと染める霧の中に、ぼんやりとした影が揺れた。風のせいではない。
霧の奥に、立ち動く影がいる。
記者の女はそっと息を止めた。彼女は朝露に濡れた黒いジャケットの裾を押さえ、低くしゃがみ込む。栗色の髪の先が湿気を含み、肌に張りつくたびに彼女の震えが伝わる。
――鳥辺野に「歩く屍」が出るという噂。仲間内では「どうせガセだ」と一笑に付され、出張費用すら認められなかった。
だが今、桜の木の下をゆく人影は確かに――歩いていた。
朝陽が照らす頬は、生気がまるで感じられない冷たい白。けれどもその目元は、唇の形は、輪郭の線は――記憶に濃く焼き付いた人に似ていた。言いようもない親しみがこみ上げる。生まれた感情は喉奥で弾けて、声となり霧を震わせる。
「――お兄ちゃん!」
濃い霧を形作る細かい粒子に当たって飛び散り、その声が遠くまで響くことはなかった。
けれども、白い顔は振り返り、彼女を見た。
彼女のよく知る薄茶色の瞳が柔らかな三日月を形作り微笑んで、名前を呼ぶ――そんな幻想は呑まれて、消え失せた。底抜けの奈落のような空洞の眼窩に。
「ひっ……」
女のパンプスの爪先が冷えた大地を擦り、積もる花弁を微かに散らした。ひとつ、ふたつ。擦れる花弁は遂に低いヒールに踏まれ、濃い白を滲ませ地に貼り付く。ジリジリと後退した彼女は、その場に倒れて尻餅をついた。
「い、いや……っ、あ、ああ……いやあああああああ!」
――刹那。パチンッ、と空気の爆ぜる音。反射で耳を塞いだ両手をそろりと外し、女は視線を上げた。
墨鼠色の羽織が、春の風を孕んでふわりと揺れる。
カラコロ、耳朶に触れる軽い音と、微かな甘い香り。
灰鼠色の足袋に黒塗りの舟形下駄が目に入り、間近にあるのは確かに生者の脚だと知る。女は口を半開きにしたまま瞬きをした。
肩越しに振り返った瞳は金に碧を混ぜたような不思議な色彩。重めの瞼に刻まれた美しい二重の線。半月型の白目の中で揺れる瞳に――一瞬で目を奪われた。
乾いた喉が力ない吐息を漏らす間に、金碧の瞳は呆れたように顰められる。ハァとため息を吐いた唇が、その瞳と同じ色の声を零した。
「……うるさ」
カラン、と。飴の音がひとつ――静寂に落ちた。
◇
太陽が高く昇り、陰気な鳥辺野も麗らかな陽気に包まれ京の春の一部となる頃。新聞社の新人記者・遠野ことはは、この目撃情報を記事にしようとしていた。
薄茶色に光を含んだ瞳と、耳の下でゆるくまとめた髪。若いが目つきは真剣で、ピシッと直線のまま前傾した背筋が、彼女の真っ直ぐな性格を表している。
その肩先を、春の風が軽く撫でていった。
「あんたいつまでここにいる気だ」
ハァ、と。盛大なため息交じりに何度目か分からない文句を吐く男は、名を鳥辺契といった。挨拶のついでに彼がことはに渡した名刺には、名前の横に「鳥辺探偵事務所・所長」と簡素な肩書が添えられている。
「同業者のよしみでしょう?」
ことははノートパソコンの画面に向けていた視線を上げて、軽く首を傾げてみせる。契は奇異のものを見る目をことはに向けて、完全に動きを止めていた。
「どこが同業者だ」
「え、だって、探偵さんだって調査とかするでしょ? 私たちも取材しますし! ほら、一緒いっしょ!」
「……どうやったらそんな雑な思考回路になる」
契はあからさまな嫌悪を浮かべて、事務机の椅子から立ち上がる。彼が立ち動くたびに、沈香と梅の香を溶かしたような、どこか懐かしさを覚える香が立った。
立ち上がりざま、彼は机からひとつ、ガラス瓶を手に取った。少し迷って手にしたのは大小2つ並ぶうちの小さいほう。蓋を開け、中から取り出した桜色の飴玉をひとつ口に放り込み、カラコロ鳴らしながら極端に部屋の隅へと移動する。
ことはは基礎情報を打ち込んでいた手を止めて、この「墓まで徒歩1分!」という宣伝文句しか浮かばない陰気な事務所の主を観察した。
鳥辺契は不思議な男だった。室内でも脱ぐ気配のない深く被った中折れ帽。それのせいで表情は完全に隠れて顔の造形は窺えない。
服装は墨鼠の無地の羽織に薄鼠色の着物。墨黒の角帯は一見地味だがよく見ると黒檀柄の織りが施された一級品で、帯締めに一筋混ざった金糸のほつれが照明の下で微かに光った。総じて地味な色彩の中に一点だけ、襟元に覗くほんのり桃色の差しが、彼が「春」を意識していることを伝える。
事務机がひと揃えと、来客用のテーブルとソファーが置かれただけの簡素な事務所に、細かな粋をちりばめた彼の姿だけが浮いていた。
「記者」
「遠野ことはと申します」
部屋の角にピタリと張り付いた位置から呼ぶ契に、ことははプゥと頬を膨らませて返す。契は「面倒くさい」と書いた顔で舌打ちを吐き、あえて呼ばずに言葉を継いだ。
「あの死体はお前の兄か?」
ことはは顔を青ざめさせて、震える唇を小さく噛んだ。契はことはに観察する目を据え、問いに答える間も与えずに畳みかける。
「肉親のお前の声にはわずかに反応したようだが、俺の呼びかけには無反応だった――真名を取られたらしいな」
ことはは薄茶色の瞳を零れそうなほど見開いて、喉奥から枯れた息を漏らした。
真名――物事の本質を示し、魂そのものを象る名前。それを《奪われる》とは、己の核を喪うことと同義である。
「真名を取られた人間なんて、俺も初めて見た。そもそも人は自分に真名があることすら知らない――取られようがないのに」
「あの、ちょっ……ちょっと待ってください!」
ことはは指を揃えた片手を突き出し契に待ったをかけた。
「あの、真名って……真名ですよね? 真の名って書く」
「そうだ」
話を遮られたことにあからさまに不快な色を浮かべて、契は再び事務机から飴の瓶を手に取る。今度は大きい方から、琥珀色の飴を選んだ。
「なら、その……兄は、自分の真名を知ってますけど?」
口に含んだばかりの飴玉がカチッ、と固い音を立てる。
「……どういうことだ」
「うちの家系では、自分の真名を教えられるんです。みんなそうなんだと思ってたから、特に疑問に思わなくて……そんなに大事なものなんですか?」
カラコロ、軽い音で転がる飴の音がひとつして、ピタリと止んだ。
不意に、契の指が帽子のつばをずらす。目の下までかかる濡羽色の長い前髪の影に、またあの金碧の色彩が覗いた。
溶けたように見える色彩は、虹彩に淡く金線が走るせい。ゆるやかに揺蕩うその線は、複雑な軌跡を描きながら揺れ、やがて中央の黒目に吸い込まれるようにして消える。
「……だからか」
カラン、と鳴る軽い音で静止していた空気が動き出す。
ことはは契の瞳が自分を通り越して背後を見ていたような気がして、肩越しに後ろを振り返ったり、頭上を見上げたりして、せわしなく視線を動かした。
「あの、なにか?」
「お前の真名が見えない――お前自身が自分で掌握しているせいか」
「しょう、あく?」
ことはは契の表現をそのままなぞって返し、胸の前で拳を握りしめる。脈打つ鼓動が、ことは自身の核の在り処を示すように内側を叩いた。
「探偵さんは……真名が見えるんですか?」
ことはが差し出した問いに、契は静かに口角を上げる。その時ことはは気づいた。契の不思議な色の瞳は、左目だけ。意識すれば影の中でも前髪に隠れていても感じる――その目に息づく妖しい金糸の影を。
「ああ。欠けてはいるが――見える」
ザワッとにわかに空気が粟立つ。ことはは無意識に息を呑んで、警戒の目を契に据えた。直感が告げる予感――この人は、禁忌に触れている。
「俺は勘がいいから、一部が見えれば大体当てられる」
「なんかそれまずくないですか!?」
勢いで思わず突っ込んだことはだったが、対する契は涼しい顔で飴を鳴らした。
「俺は人間なんかを掌握することに興味がない。できれば関わりも最小限にしたい」
それがこの距離感か、ことははここで納得する。
「俺は興味が無いが、興味を持つやつもいる。現に、真名を収集するやつはいるしな」
「じゃあその人が犯人……?」
「犯人、って言い方は正しくない。あの歩く屍も自身の真名を知っているというなら――話が変わる」
契はここにきて少しだけ饒舌になっていた。彼の言動に、探偵らしい矜持が滲む。
ことはの肩の上で、古い時計の秒針がカチリと鳴った。音が止んだ世界で、春の柔らかい陽射しだけがひっそりと机の上に落ちている。
契はその光を目でなぞり、口の中で飴を鳴らした。
「お前の兄は――自分で真名を渡したんだ」
春の陽ざしが、止まった。





