1-15 天弓の勇者は気が触れた
天弓の勇者は気が触れた。魔王征伐から数年が経過し、勇者セルは褒賞として与えられた領土のためにも尽くしてきた。より素敵な場所になるように努めてきた。
されど、そうはならなかった。魔王を討てども、すべての悪が消えるわけではない。魔物と魔王だけが諸悪の根源ではない。愛すべき人間の中にも悪徳の者はいて、それをどうにかしなければ、悪は絶えない。悪が消えないのであれば、自分が魔王を討った意味すら、消えてしまうと錯覚して、天弓の勇者セルは気が触れた。そうして勇者セルは、魔王を討つために得た力で、自分の思想を広めるための強権的治世を執り行うことに決めた。
その手法をよく思わない市民トイガが、とある手段で治世に穴をあけようとしていて――
――だなんてどうでもいい背景をぶち破るように。
勇者パーティの聖女リコットが、密かにずっと思いを寄せていた、勇者セルの心を射止めようとする話である。
トイガは駆けた。
天弓の勇者の支配から脱しようとして。
「馬鹿にもほどがあるッ」
口からは自然と毒が流れる。
トイガ自身、すべての力を振り絞って逃げなければいけないとわかっている。
手に持ち続けている瓶すら捨てて逃げなければ足りないと。
わかっていてもなお、その不条理さに毒を吐かねばならなかった。
「ッッ!!」
目の前に降り注ぐ光の矢を、トイガはギリギリのところで回避した。
より早く、より複雑に、を心に、トイガは駆ける。
石造りの家の影に隠れ、何度も右左折を繰り返し、撒くためのあらゆる手段を使って、なお目の前に降り注ぎ続けるのがこの光の矢だった。
「どれだけ離れてると思ってやがる」
発生源は遥か彼方。この都市全体を見渡せる丘の方角。
膨大な光量を放つ魔法の矢を番えているからこそ、トンガからは狙撃地点が推察できた。
そうでなければ、目を細めても見えやしない場所に、天弓の勇者はいた。
丘に生えた、都市全体を覆う天蓋のような巨木。
その先端に括りつけられた、鳥籠のような檻。
天弓の勇者の正確無比な狙撃は、そこから放たれ続けていた。
そして、なお恐ろしいのはその効力だった。
「ぐあッ」
視界の端で、壮年の男性が光の矢の巻き添えを喰らっていた。
トイガは助けられないことを悔やみたかった。
資源と時間に余裕があるのならば、手を取って、手を尽くして、彼が彼でいられるようにしてしまいたかった。
だが、そんな余裕すらない。
なぜなら、巻き添えによって起きるのは、犠牲ではなく、トイガの敵の増加に他ならないからだ。
先ほどとは別種の光があたりを包む。
これ自体は無視して良い、とトイガはわかっている。
知っている、誰だって使える魔法だ。
トイガだって使ったことのある、回復魔法。
傷ついたものを癒す魔法。
ただし、この発生源も天弓の勇者であると知っているがために、気味の悪さからトイガの足はなお速く動いた。
「どれもこれも、本当に馬鹿げていやがる」
トイガ自身、使えるからこそよくわかる。
こんなに離れた距離で、こんなに恐ろしくも暖かい魔力操作。
ありえない。馬鹿げている。
でも、だからこそ、魔王征伐なんて偉業を成し遂げられたのだろう。
偉業をなしとげて、得られた領土で行うのがこれだと言われると、微妙な心境にもなってしまうものの――
などと益体もない思考が脳裏を走っているうちに、背後では、巻き添えを喰らった男性が起き上がる音が聞こえた。
つまるところ、後ろでは、光の矢の処理が始まっていた。
「我々は、勇者と思想を共にするもの……」
光の矢自体は大した殺傷能力を持つわけではない。
「これまでの我々は、不完全な部分がありました」
それでも、矢に触れる衝撃自体は人体を気絶させるには十分。
「それ故に、魔王不在のこの世でも、悪というものが廃れずあり続けてしまいました」
それを治癒するための魔法すら、天弓の勇者は仕掛けて見せた。
「ただし、今の我々は正しき思考に触れ」
肉体的な損壊は、弓矢を受ける前と後で何等の変わりはない。
なぜなら――
「清く正しく、悪なき心で生きる完全な意思を手にしました」
――この矢自体が、勇者の思考を流し込み、脳を洗って統制するための魔法の矢だからだ。
「これまでの不完全さを恥じ、清く、正しい世を造るため」
壮年の男の喉を震わせる、不気味な声はまだ響く。
「誠心誠意、悪を滅すべく動きましょう」
刹那、男は駆けた。
トイガもそれに合わせて躱すように駆けた。
「ッ」
男の手がトイガの皮膚をかすめたが、被害は軽微。
何とか一つの窮地を切り抜けながら、トイガは逃避行を再開した。
天弓による洗脳狙撃・治療の後は、勇者の魔力が体内に残留する。
もとの肉体の限界値近くの速さが繰り出されるため、トイガはそれを注視しなければらなかった。
されど、その回避に成功して、トイガは少なからず喜びを感じていた。
なんとかなる。
何とかなる。ひとりなら。
これまでの天弓の連射間隔と、巻き添えられた人の初撃の間隔から、同時に両方を捌かなければならないことはまれだと結論付ける。
まずは天弓を交わして、巻き添えがないかを確認。
巻き添えがいればそれの初動を注視して回避。
これを徹底していれば、都市の外に出ることも絶対に不可能というほどの難しさではないと、トイガは判断した。
それがどれほどの綱渡りの上に成り立つことかからは目を逸らして、わずかに見える希望の光を手繰り寄せようとした。
都市の外を目指そうとした、その、一歩目に。
ぴちゃり、ぴちゃり、と無数の足音が聞こえた気がした。
「まじかよ」
都市を貫く川から、這いあがって来るのは多数の姿。
異臭すらしそうなほどの彼らは、汚水処理のために働くものたちだった。
そして、彼らの目はすでにうつろであり――どうしようもないほどにトイガを取り囲むように動いていた。
「くそ、あいつらまで動員できるのかよ」
できるはずだ。
わかっていた。可能性としてはあり得た話だった。
汚水処理。誰もがあまりやりたがらない仕事。
もともとやっていた人もいたのだろうけれど、勇者の治世の改革では、それが一定の罰に置換された。
誰もやりたがらない仕事は、基本的に元犯罪者に任せましょう。
そして、そうであるのならば、この事態は可能性として十分検討すべきだった。
いま、トイガ自身が狙われているように、元犯罪者というものは例外なく、すでに天弓による処理済みであるのだから。
トイガは慌てて方向転換して切り返そうとする。
川が使えなくても、別の道からならまだ可能性はある、と信じようとして。
後ろには後ろで、今までに巻き添えにあったであろう、数人の姿があった。
包囲網は少しずつ狭められている。
彼らに捕まっても即座に終わりというわけではない。
しかし、これから降り注ぐ光の矢を交わすことはまずできなくなる。
「……くそ」
トイガは探す。
捕まらずにすり抜けて、そのあとで都市の外に向かえる方法を。
「なにか、ないのか」
トイガは手元の瓶に目をやる。
この飲み薬を使えば、もしかしたら包囲に穴をあけられるかもしれない。
この、勇者の洗脳への特効薬を使うことができれば。
包囲の輪はいよいよ迫りつつある。
それに伴って、遠く遠くの光の矢も、強く光を放ちつつあった。
その矢は、いまかいまかと逃げ場がゼロになる瞬間を待っているようだった。
「くそ……くそ……使えねえよ」
だが、トイガはそれを躊躇した。
それをしてしまえば、トイガは目的を果たせなくなる。
妹の思考を元に戻すという目標が、果たせなくなる。
「でも、あきらめねえ」
もう、逃げ場はなかった。
光の矢も、光を放ったのがわかった。
まもなく、着弾する。
終わりの間際に、トイガが決めた覚悟は、逃げをあきらめることだった。
自らの終わりを受け入れ、残った時間で瓶に書きつけることだった。
『だれか、これを、妹に――〇〇番地のカンザの治療薬』
手は震える。
文字は乱れる。
意味が通じているかもわからない。
頭上には光の矢が迫る気配があった。
まだ、正気を保っていられるうちに、と書きつけて……
トイガは書ききった。
到底間に合わないと思われた言伝は、何とか完全な形で書ききれて。
それどころか、いつまでたっても、トイガに痛みは襲い掛からなかった。
肉体に損傷はないとはいえ、衝撃は来るはずだ。
それから、治癒の光すら立ち上がらない。
――死んだのか? 何事もなく? 全部気のせいだったのか?
トイガは何もわからない。
わけもわからないまま、おそるおそる顔を上げてみれば。
「あなた、なにしたんです? あれだけセル君に狙われるなんて。妬いちゃいますよ?」
知らない女性の顔があった。
「え?」
わからない。
「え、じゃあないですよ。なにしたんですか?」
「なにしたもなにも、あんた、その腕」
女性の腕には、矢の刺さった痕があった。
それでいて、平然としている姿に、トイガは混乱を禁じ得ない。
「この矢ですか? 面白いですよね。思考を一緒にしましょう、って魔法でしたね。いやあ、愛情表現としては嫌いではないですけど、というよりセル君にされるのなら嫌ってわけじゃあないですけど、無差別にばらまくのは私の好みとはだいぶちがっていて、ちょっと困ってしまいますね?」
知らない声は、マイペースに響く。
どこか威厳と風格の香りがあってそれでいて、抑圧されてきた反動みたいな茶目っ気さを感じさせるような声だった。
「それで、なにをしたらセル君の好意をひけたんですか?」
「あんた、いったいなんなんだよ……」
交わらない会話に、仕方がないと言わんばかりに、彼女は告げた。
「申し遅れました。私は、リコット。かつての魔王征伐パーティでは聖女と言われておりました。いまや聖女の看板は下ろして久しいですが、まあ、それは別の話。なんなんだよ、というご質問に対してはどう答えたものかは困るところですので、ひとまずは至ってシンプルにお伝えしましょう」
重大な身分の情報を、さらっと流すように告げて、リコットは続けた。
「要するに、私はセル君の目を、あなたよりも私に向けさせたいのです」





