1-10 元禄花魁すごろく奇譚
時は元禄、太平の世。
華開いた文化の裏、平和に飽いた諸侯が密かに興じる禁忌の遊戯があった。
冥府と約定し、おのれの命を掛け金に、気に入りの花魁と召喚した妖とを<駒>として行う死の双六。
あがれば富も力も思いのまま、負ければ、死だ。
元武家の姫である花魁、黒宵。彼女もまた命の盤上に立っている。
その使役する駒は、りん。
史上最強と謳われるその駒は旦那衆から与えられたものではない。彼女自身に憑く、それは呪いだったのだ。
りんと共に黒宵が目指す上がりの目は、だが、この国の盤の上になどない。はるか遠く、人の世の成り立ちを賭けたその場所へ。
主従の絆と鮮血が彩る、美しくも凄惨な闘いがいま、幕を開ける。
はらり、と散った着物の破片。
月明かりにわずかに煌めきながら、眼下の利根の川へと吸い込まれてゆく。
「なんだい、ざまあないねぇ。あんたの、あの気味の悪い<駒>。りん、って言ったか。あいつがついてなきゃ、さしもの黒宵大夫さんも形無しだぁ」
下卑た笑いを浮かべた女は、欄干に腰を乗せ、片足を立てて肘を乗せている。
白地に豪奢な金の牡丹の刺繍が入った打掛。ただし、腰より上だけだ。高下駄から腰までは黒の薄い布が肌に密着している。隠密が着用する行動衣に似ていた。
そうしたかっこうで膝を立てているものだから、その腰回りはひどく胡乱なことになっている。が、見るものもない。誰の目にも映らないのだ。
<賽子>を振った花魁どうしは、決着がつくまでこの世のものではなくなる。存在が、嘘となる。
「王鶴……あんた、りんになにをした」
応答した女、黒宵もまた、常ならぬ風体だ。黒地に巨大な星を意匠した打掛。対する女と異なり足元までを覆っており、それ自体はごく普通の花魁装束だ。
が、肩から腰にかけて布地が裂けている。獣の爪で断たれたように乱れたその内側には月明かりにも流血が確認できる。抑えた肩が激しく上下しているのは、痛みを堪えているのもあるだろうし、直前の格闘の激しさを伝えるものでもあったろう。
「さあねえ。わっちはなあんにも知らない」
王鶴は指先で耳元に細く垂らした髪をくるくると巻きながら、笑いをこらえているような声を投げて寄越した。
「ただ、そうだねえ。せんに物見で回ったあたりに薄気味悪い祠があってさ。旦那にお願いしたんだ。焼いちまっておくんなんし、って」
黒宵の足が動いた。だが踏み出せない。彼女の正面、五歩ほどの距離で行手を塞いでいる犬が唸り声を立てたためだ。
青の体毛。身動きするたびに炎のように揺れる光を纏っている。らんと輝く金の瞳が彼女を真っ直ぐに見据えていたが、王鶴の方に小さく振り向いた。
「あはは、アオがもう我慢ならないってさ。ここ、生かして勝てば三個進める升目なんだけどねえ。仕方ない、一個で我慢してやろうか」
言いながら手をくるんと動かす。と、アオと呼ばれた犬はふわんと跳躍した。彼女の隣、欄干の上に降り立つ。王鶴の手がその背に当てられると、犬を包んでいた光が強くなってゆく。やがてふつりと光が失せたが、そこにいたのは裸身の男性だった。
青色の髪、金色の瞳。手先をついて欄干にしゃがみこみ、黒宵をじっと睨んでいる。その髪に指を通し、王鶴は機嫌よさげな声を出した。
「選ばせてやるよ。獣の顎にかかりたいか、人の手で切り裂かれたいか。ま、いずれにしてもそのあとは、こいつの腹に収まることになるけどねえ」
「……なぜ、りんの祠を知っていた」
「あはっ」
黒宵の言葉に王鶴は瞳を撓めてみせた。
「悲しいねえ。お武家の姫くずれが、とうとう仲間にまで売られちまって。宵闇の水晶だの黒百合だの言われて調子に乗ってるから、そうやって足元を掬われるのさ。どうだい、あたしみたいなゲセンにいのち取られる気分は、ええ?」
言いながら、指を動かす。
欄干からすとんと降りた青の髪の男がゆっくりと黒宵のほうへ歩を進める。全身を覆うしなやかで薄い筋肉が脈動するのが夜目にもはっきりと見て取れた。
「……十、数えてやるよ。りんを呼びな。わっちもあれが死んじまったかは確かめてないんだ。まあもっとも、あれだけ炎のなかで生きていられる<駒>はないだろうけどねえ。あは、はは、は」
月を見上げる王鶴は、おそらく祠を包む紅蓮の炎を思い出しているのだろう。興奮したように胸に手を当て、昏い愉悦に歪んだ表情を浮かべている。
しばらくそうしていたが、横に顔を傾け、流し目を黒宵に送ってみせた。
「さ、いくよ。そうれ、ひとうつ。ふたあつ。みっつ……」
と、言葉を待たずに黒宵が跳ぶ。懐から引き抜いたのだろう、いつの間にかその手に握られている短剣はこの国の意匠ではない。両刃のそれを振りあげ、姿勢を低くし、夜に溶けるように王鶴に殺到した。
が、アオが速かった。立ちはだかった男の拳に腹を打ち上げられ、苦悶で折れ曲がったところで回し蹴りを受けた。転がりながら欄干に叩きつけられる。がっ、と、肺から空気が押し出される。
衝撃で揺れた欄干の感触を楽しんだのだろう、手元に戻ったアオの背を撫でながら王鶴の瞳が撓む。
「あらら。さすがだねえ、腐ってもお武家仕込みだ。あんまり遊んでたら危ないね。ええと、みっつまで数えたかい? よっつ、やっつ、とお。はい、お仕舞い」
ぽんと手を打ち合わせる。ただ、アオは走らない。腹を抑えて半身を起こした黒宵にゆっくりと歩み寄る。指先、獣の爪が薄く発光している。その爪を立てるように黒宵の首に伸ばし、ぐいと掴み上げた。
両手で男の腕を掴むが、喉が締まってゆく。アオはそう力をいれてはいないようだ。なぶるつもりなのだろう。やがてゆっくりと裸身に青い体毛が浮いてくる。長い舌が口元から覗く。
「……り……ん」
瞳の色を失いつつある黒宵が小さく言葉を絞り出した。王鶴にも届いている。口角をあげ、最後に振り向いたアオに頷いてみせた。
ぐ、と、腕に力が込められる。
その時だ。
月が消えた。
夜が崩れ、彼らのもとへ流れ込む。
ごう、という音とともに闇の粒子がアオを包んだ。
呼吸を失ったのだろう。アオは激しく頭を振り、黒宵を放り出して逃れた。
倒れ込んだ黒宵のもとに粒子は渦を巻いて集まり、やがてひとつの形を成した。
「……り……ん、おそ……かった、な」
「申し訳ございません」
短く応えたのは、少女。
足首までの外套を纏っている。この国のものではない。頭巾のようなものを備えたその表面は黒とも見えるが、あるいは、深淵なのかもしれない。うぞうぞと複雑な紋様が浮いては消え、あるいは蠢いている。
黒宵の横に膝を立て、柔らかくその背を持ち上げる。細く白い腕。
「……焼かれ、た、んだろ……大事、ない、か」
「火は嫌いではありません。綺麗ですから。ただ、少し再生に手間取りました」
と、影が飛んだ。アオが爪を振り立て少女、りんの背に降ってくる。
黒宵の背から手が離れた。放り出され、だが、地に頭を打ちつける前にすぐに支えられた。りんの纏う外套がその身体に遅れてふわりと舞い降りる。
直後、轟音とともに欄干が崩壊した。続けて川面になにかが落ちる音。
りんによって蹴り飛ばされたアオが利根川に落下したのだ。音は複数だった。おそらく、いくつかの部分に分断されたのだろう。
「ご主人。おなかが、空きました」
りんは真紅の瞳を柔らかく黒宵に落とし、小さく微笑した。
黒宵もふっと口元を和らげる。肩口に手を置き、ぐい、と引き下げた。
りんはゆっくりと黒宵の首に口を近づける。
形の良い唇から覗くのは長い牙。
「……味、薄いです」
「しかた、なかろう……だいぶ流れた」
「血を流すのはわたしの前だけにしてください。もったいないです」
黒宵は苦笑し、橋の向こうで後退りながら震えている王鶴のほうに目を向けた。りんも首を傾け視線を合わせる。口元をぬぐいながら、ゆらりと立ち上がる。
「痛いこと、しましたね。わたしのご主人に。どれくらいですか。何回ですか。腕を使いましたか。脚、ですか。たくさん、たくさん、したんですか」
冷たく平板な声。
歩み寄る分だけ、王鶴は退がる。が、すぐに腰が砕けた。座り込む彼女のそばにりんは立ち、しばらく血の色に燃える瞳で見下ろしてから、月も星も消えた夜空を見上げて手を広げた。頭巾が落ち、銀色に輝く髪がこぼれ落ちる。
「……ああ、気持ちの良い夜。ねえ、踊らない?」
歌うように言葉を置いて、吸血鬼りんは王鶴の首に指を伸ばした。





