1-09 転生薬剤師はあきらめない!
月末の調剤薬局という修羅場に向かう途中、若草和沙(二十四歳)は不運な事故で命を落とした――と思ったら異世界の王宮にいた。
しかも病の床に臥せる“悪役姫”リリアに転生していた。
表示されたステータスには〈高熱・脱水・敗血症リスク〉の文字が……。
「ふん、上等じゃない」
回復魔法では病気が治せず、異世界なので抗生物質も存在しない。
しかし和沙はまったくめげない。
己の知識と機転で応急処置に成功。
「気合いと根性だっ。なんとしてでも生き残って、元の世界に戻ってやるっ」
むんと気合いを入れると、生き残るための道を求め奔走する。
人に感謝を欠かさず、何が起きても絶対めげず、異世界の医療体制を整えていく。
以前とはまったく異なるリリアの姿に、周囲の反応が変わっていく。
メインヒロインが、攻略対象の男たちがリリアの応援を始めた――瞬間。
異世界は新たな様相を呈し始めた。それは未曽有の大震災で……。
東京の西の端にある、アパートの一室。
めっきり寒くなった、晩秋の早朝。
その日、私はいつもより早く目を覚ました。
目覚ましが鳴る少し前――時刻は四時を指している。
家を出るのは五時ちょうど。
頑張ればあと十分ほど眠ることができるが、それは二度寝のリスクを抱えることを意味する。
「遅刻なんてしたら主任が鬼軍曹になるしなあ~……。あ~あ、もったいない」
ぼやきながら身を起こした。
目をしょぼしょぼさせながら歯を磨き、シャワーを浴びた。
ストッキングを履きながら明太マヨパンを齧ると、パックの牛乳を一気に流し込んだ。
今日は月末。
保険の切り替えと定期処方で、処方箋の量は確実に増える。
万年人手不足の調剤薬局は、きっと戦場になるだろう。
「ああ~……疲れた~」
まだ出勤もしてないのに、そんな言葉が口をついた。
鏡の中の私――若草和沙(二十四歳)はやつれた顔をしている。
肌はガサガサ、目にはクマ、おさげにはツヤが無い。
正直ちょっと過重労働気味だけど……。
「だからって、辞めるわけにはいかんでしょ!」
パンと頬を張ると、気合いを入れた。
そうだ、この道を選んだ時から覚悟は決めている。
あの日あの時――自分が生き延びた瞬間から、人のために生きようと決めたんだ。
***
目を開けた時、最初に目に入ったのは見慣れぬ天井だった。
なんか、実家にある蚊帳みたいなのが吊るしてあるけど……。
あ、そっか。
これってあれだ、天蓋だ。
やんごとなき身分の方々が寝る時に使うやつだ。
体を起こして見渡してみると、部屋も立派なものだった。
内装からなにから豪華で、歴史を感じさせるようなものだった。
パンがないならケーキを食べればいいじゃない、なお姫様が住んでそうな感じの。
「ここは……?」
喉から出た声が、思いのほか高い。
「口を開けたまま寝ちゃったかな……てか、起きたはずなのにまた起きたってことは二度寝した? や、違うわ。たしか家を出ようとドアを開けたらダンプカーが突っ込んできて……あれ? なにこの……なに?」
自らの体を見下ろした瞬間、混乱はさらに増した。
細い手指、きめ細かな肌、胸元に垂れ下がるキラキラの金髪。
年齢はかなり若い、おそらくは十代半ばぐらいの少女。
本来の私とは似ても似つかぬ姿だ。
「ダンプにハネられたはずだけど……病院じゃないよね? 体も明らかに別人だし、ってことは……」
呆然としながらつぶやいた、その瞬間だった。
ポンという軽やかな音とともに、目の前に光が走った。
光は四角い線を書き、その中に文字を記した。
〈名前:リリア・ウル・ウルリカーナ 性別:女 年齢:十五 ステータス:衰弱状態/高熱・脱水・敗血症リスク〉
心臓が跳ねた。
夢かと思ったが、夢ではなかった。
淡く光る四角と文字は、まるでゲームのステータス画面のようだった。
「……マジかよ、我が人生どうなっちゃうの?」
仕事漬けの現実から逃げるように何度も読んだ転生系ライトノベル。
まさか、自分がその当事者になるなんて……。
「ってそうじゃない。それどころじゃないわ、なにこの表示? 衰弱状態? 高熱、脱水、敗血症リスク?」
つぶやいた瞬間、改めて体の異常を感じた。
頬が熱を帯び、胸が痛み、たまらず私は背を丸めた。
「いったいなにが起こってるの……っ?」
半泣きになりながら咳き込んでいると、勢いよく扉が開いた。
「姫さま! お目覚めですかっ⁉」
飛び込んできたのはメイド姿の少女だ。
歳は十四、五といったところだろうか。
赤毛をシニョンにした可愛いらしい子で、いかにも私を心配した様子で涙目になっていて……。
「よかった……三日もお目覚めにならず、もしかしたらこのまま……」
敗血症は、細菌やウイルス由来の感染症だ。
体の中の免疫機能が暴走し、全身に重い障害が起きる重大な疾患だ。
「――そうだ、思い出したぞ。リリアは『追放姫は暗黒騎士とエデンで踊る』の悪役だ。ヒロインに負けた際に負った傷が原因で死ぬやつだ。てことはこれ、マジでヤバいやつ……。ねえ、あなた――」
私はメイドさんに声をかけた。
「回復魔法はかけてくれた?」
「は、はい。王宮の大神官さまが……傷は塞がったようなんですが……」
この世界の回復魔法は、痛みを引かせ、傷を塞ぎ、熱を冷ますことしかできない。
つまり、細菌やウイルスそのものには対応できないのだ。
「傷はヨシ……と。ねえ、お水くれる?」
「は、はいっ……」
メイドさんが枕元にあった水差しを手渡してくれる。
ぬるい水をゆっくり飲むと、喉に痛みが走った。
「ありがと、少し落ち着いた」
改めて、私は自らの体を観察した。
右の胸元に包帯が巻いてある。
「そうだ、たしか――」
リリアはヒロインを殺そうと短剣を振ったんだけど、ドジって転んで自分の胸に突き刺しちゃったんだ。
「リスクって言葉はあやふやだけど、体内に感染源があるのは確かだよね。てことは取り除かなければならないんだけど……まさか外科手術は無理だろうし……」
抗生物質は……無いよね?
なら消毒薬は? 煎じ薬の類は?
脱水の是正だけでも効果はあるかな?
「ん~……今すべきは最低限の応急処置かな。あなた、紙とペンを」
「え?」
「お願い、早く」
「は、はいぃっ!」
メイドさんは驚きつつも、私の指示に従い走っていった。
「……大丈夫。落ち着くのよ、和沙」
私は、痛む胸を抑えながら深呼吸した。
「薬がなくても、出来ることはある」
あの時だってそうだった。
十年以上前に起きた、大震災。
瓦礫の山と化した街で、あの人はなにもないところから私を救ってくれた。
「姫さま! 持ってきました! 紙とペン!」
全速力で走ったのだろう、メイドさんが肩で息をしながら紙とペンを手渡してくれた。
「ありがと。あなた、名前は?」
ずっと「あなた」呼びも気まずいしね。
「えっ? め、メイです姫さま! というか姫さまがわたしにお礼を……っ?」
メイドのメイさん、覚えやすくて助かるわ。
あとごめんね? リリアは悪い奴だったんだよね?
これからは心を入れ替えるからさ、今までのことは許してよ。
「じゃあメイさん、これどおりのものを持ってきて。調理場の料理人さんに頼めば大丈夫だから」
私が渡したメモには、こう記してある。
用意すべきもの
・なるべく綺麗な瓶
・井戸から汲んだばかりの水を瓶になみなみ
・塩をふたつまみ
・蜂蜜をスプーンにたっぷり乗っけて
「こ、これはいったいなんの材料で……?」
「経口補水液……っていってもわかんないよね。なんかすごい秘薬みたいなものよ」
経口補水液は、失われた水分と電解質を口から効率よく吸収させるために作られた飲み物だ。
脱水症状の軽減効果があり、今みたいな状況では「水だけ」よりも致死率が激減する。
「あとは体を冷やさず……布を替えて……寝床を清潔にして……」
今後について頭を巡らせているうちに、メイさんが戻ってきた。
私の言ったとおりの物に加え、リンゴを小皿に載せてくれている。
「いいじゃない。『リンゴ医者要らず』ってね」
思わず笑みをこぼしながら、私は塩と蜂蜜をすくい、瓶に入れて混ぜた。
最初は唇を濡らす程度。
味を見ながら、徐々に塩と蜂蜜を多くしていく。
「いいわね、美味しいわ」
口をついた声は、思いのほか震えていた。
怖かったのだ。
この体がどこまで耐えられるのかわからないことが。
これが治療でなく、応急処置に過ぎないことが。
混ぜて、少しずつ飲む。
混ぜて、少しずつ飲む。
舌がしびれるほどにしょっぱい。それでも、身体が拒否しない。
脱水症状だからだろう、むしろ美味しいとすら感じる。
「……いける」
熱はまだある。
でも「死ぬ熱」じゃない。
私はもう一度、深く息をした。
目の前に、あの表示がまた浮かぶ。
〈ステータス:衰弱状態/高熱(改善傾向)・脱水(軽減)・敗血症リスク(わずかに減)〉
「……わずか、かよ」
思わず笑ってしまった。
治ったわけじゃない。
わけじゃないが――死の縁から、私は半歩だけ戻ってきた。
「循環を維持し、菌の発生を抑制し、免疫に余裕を与えた。あとは――稼いだ時間でなんとかする」
今私がすべきは、栄養を十分に摂ること。
抗生物質を精製するべく、医療体制を整えること。
薬草や魔法、異世界由来のなにがしかを頼るのもいい。
調剤薬局での仕事と同じだ。
とにかくガムシャラに、自分にできることをするだけだ。
「気合いと根性だっ。なんとしてでも生き残って、元の世界に戻ってやるっ」
むんと拳を握って気合いを入れた――瞬間。
世界が揺れた。
床がぐらりと揺れ、柱が軋んだ。
建物のあちこちから悲鳴が上がり、メイさんが私に抱き着いてきた。
「地震……こっちにもあるのか。頻繁なのかな……。もし医療体制の整ってない異世界で『アレ』が起きたら……。――ふん、上等じゃない」
体がわずかに震えてるけど、勘違いしないでよね。
こいつは武者震い。
仇敵との再会の予感に、体が喜んじゃってるだけなんだから。
「見てろよ。今度は負けないからね」
なにが起きても生き抜く覚悟を固めると、私は怯えるメイさんを抱きしめた。





