第26話 装置との対面
腐食した壁面に配管がむき出しになった地下施設は、静まり返っていた。
かつて戦争のために築かれたこの前線基地の地下区画は今や遺棄されたまま薄暗い照明がかろうじて灯るだけだった。ヨウ、エセル、ユイの三人は足音を殺して慎重に進んでいた。記録領域での異常な体験の余韻が、まだ身体の奥にこびりついている。
──通路の先にある大きなドア。その向こうに強い共鳴反応がある。
ヨウの身体はその方向に引き寄せられるような感覚を覚えていた。誰かがそこにいる。扉を静かに開けると冷えた空気が流れ込む。薄明かりの中、広間の中央に設置された巨大な装置とその前に佇む一人の女性の姿が見えた。
「ナギが貴女達を待っていた」
振り返ったその顔は記録領域の記憶に現れたあの女性――アルムだった。
数秒の沈黙が場を支配する。
聖女に似た素朴な顔立ち。黒髪に日に焼けた肌。薄汚れたコートが彼女の身体を覆い隠す。手や顔など所々衣服から露出した部分には痛ましい火傷の痕が見られる……今思えば召喚装置は彼女をモデルに「異世界人」を作っていたのかもしれない。
アルムは敵意を見せなかった。だがこちらを見つめる視線は決して穏やかではない。エセルが一歩前に出ようとした瞬間、ユイが手を伸ばしてそれを止めた。
まだ話せる。そう感じたからだった。
「貴女はアルムさん……ですよね……?」
ユイが口を開いた。
アルムはゆっくりと顔を上げ、重たい口調で語り始めた。
「そうよ、私はアルム。貴女達も全部見てきたんでしょ。知っての通り、この装置はナギよ。ナギが今の姿になった後、私は彼をここに運んだ。それから何度か夢の中に彼が出てきて……多少意思の疎通も出来たわ。彼は今も人と変わらないと思うの」
彼女は背後の召喚装置に手を添える。巨大なその装置はまるで心臓のように微かに脈動していた。静かに響く低音が空間全体に染み込むようだった。
アルムはあの時、生き残った──それから傷だらけの身体で「召喚装置」をこの地下へ運び、匿ってきたという。アルムも三人同様に記憶領域を体験し、そして何より彼女は夢を介して召喚装置とコミュニケーションを図っていた。 変異体が人間の夢に干渉することがある、とはエセルからまだ聞かされていない知識ではあったが、誰も反論しない以上は一先ず事実として受け取っていいのだろう。
「ナギを絶望させた一因は私にあるのかもしれない。彼の記憶は倒れる私を見たところで終わっていたでしょう。でも私はこうして生きてる。何度謝っても許されないことよ……。私の所為でこうなった人を置き去りになんて出来ないでしょう」
「ですが、アルムさん。「召喚装置」の習性のことは御存じですよね?彼、召喚装置は生きているだけで……」
アルムの言葉を遮るようにして、エセルが口を挟む。
説得はすれど、雑談に付き合うつもりはないということだろうか。
ヨウも召喚装置を匿う理由自体は理解出来た。
「全部知ってる。聞かされたから。異世界人の「創造」、現地人の「洗脳」、それから装置の「複製」でしょう。彼は誰かに助けてほしくて堪らなかったのよ。それでいて死にたくなかった。人として普通のことでしょ」
「召喚装置が何人の被害者を出したと思ってるんですか……?シミュラクラの職員も何人も犠牲になってきました。装置がセクター全域に影響を及ぼしている今、シミュラクラの存続も危ぶまれています……」
当然と言うべきか。アルムは三人以上に召喚装置を理解していた。
召喚装置は「異世界人」として眷属を創造し、その「異世界人」に従うように現地人を準眷属化する能力を持っている。そして何より装置自体がスペアを量産し続けるという害悪極まりない特性……これらを知っていて野放しにしていたことになる。
上層で異世界人と住民達が「教団」を形作っていた理由を三人は漸く理解した。
「あれだけの教団を作れていたのも召喚装置のお陰だったの?」
エセルが低い声で言った。
「でもそれは許されることじゃないわ。洗脳は自我の侵食。記憶の改竄。意志に関係なく人間を変えてしまうなんて。それに装置が作った「異世界人」は住民を束ねて上層に攻め入る計画まで立てているのよ。これは明確なテロ行為じゃない」
「そうだろうね。でも違う形でここを壊された私達にとってはこれが戦争なんだよ」
「……貴女は自分が何をしているか理解しているの?」
「ええ。私はナギの能力を通じて、下層の人達と繋がった。皆、何かを失っていた。上層に奪われ続けていたのは皆同じだったの。確かに洗脳しようとはしたけれど、強制したわけじゃないわ。私はただナギを守りたかった。振り切る事だって出来たはずよ。少なくともウチの住民達はみんなシミュラクラにも上層に恨みがあったのよ」
その瞬間、ユイの顔がこわばった。視線が鋭くなる。
ヨウはアルムとエセルの語らいに耳を傾けながら、自らのことを考えていた。
自分もまた「呼び出された存在」だ。召喚装置が作った偽の記憶を植え付けられた生命体。ここにいるという事実だけが今の自分を証明している。
「……アルムさん、貴女はナギの何だったの?」
エセルの問いにアルムはわずかに笑う。
「それは……分からない。ただ見ていて感じていたの。あの子がどれほど寂しかったか。どれだけ誰かに助けてほしかったか」
沈黙が訪れる。だが空気は張り詰めたままだ。
エセルが短刀を治めた。
「召喚装置を止めて。意思の疎通が出来るなら、貴女の声でまだ止められるはず。彼自身の姿は取り戻せなくても別の形で生きられる道はあるわ」
アルムは静かに首を横に振った。
「それは貴女達の理屈でしかない。どうせシミュラクラが下したのは回収命令でしょう。奴等はきっと彼を破壊するわ。……もし残されたって、何所かに隔離されてずっと酷い目に遭うだけ。そんなの生き地獄じゃない。こんな姿になってまで彼は誰にも助けてもらえないっていうの?」
──結局、私達は忘れられる痛みの中でしか生きていけないのね。
その言葉が放たれた瞬間、背後の召喚装置がわずかに脈動を強めた。音もなく、重い気配が広間に広がる。
エセルが息を呑む。ヨウの指先にかすかな震えが走った。
ナギが――三人を見ている。




